戸惑いと翻弄
風の季節後期月、五週三日。
日の入りの鐘が鳴る直前。
西部の拠点では、カウティス達が聖堂建築について意見交換をする為の、最終確認をしている。
イスターク司教と明日面会をして、話し合う予定になっていた。
離れた所に立っていたセルフィーネが、ピクリとして上を向いた。
「……王太子が呼んでいる。王城へ戻る」
ネイクーン王国の南西の街で行われた、三国の会談を終え、宰相セシウムを代表とする一団が今日帰城すると聞いていた。
おそらくは、纏められた協約についての話だろう。
「分かった。……今夜中に
カウティスが椅子から立ち上がって、セルフィーネに近付くと、彼女の視線が揺れる。
「………………今夜は王城にいる」
「セルフィーネ」
カウティスが手を伸ばすと、その手が頰に触れた途端にセルフィーネは頬を染め、急いで姿を消した。
「セルフィーネ!」
カウティスの前には青白い光の粉が散ったが、すぐに消えてしまった。
ラードとマルクが何とも気不味い表情で、顔を見合わせる。
ハルミアンは小さく溜め息をついた。
一昨日の夜、セルフィーネの魔力が乱れたので、ハルミアンは使い魔から意識を戻し、彼女に呼び掛けた。
しかし、彼女は呼び掛けに応じなかった。
様子を見ていると、少し時間を掛けて、自分で落ち着いたようだった。
カウティスと何かあったのだろうと思い、翌日聞いてみようとしたら、カウティスも寝不足で何か悩んでいる様子だ。
どういうことかと思ったら、マルクがセルフィーネと話した内容を告白したのだった。
壁に向かっていたカウティスが、振り返って机に戻った。
「申し訳ありません。私の勝手な判断のせいで……」
マルクが恐縮して言うが、カウティスは首を振る。
「私が繕えていなかったのが悪い。むしろ、マルクには大変な役目を負わせてしまった」
ラードが器用に片眉を上げる。
「……王子、顔が緩んでますけど」
ラードに指摘されて、カウティスは急いで口元を覆う。
「仕方ないだろう。セルフィーネにあんな風に反応されたら……」
ハルミアンは呆れ顔になり、ラードとマルクは苦笑する。
セルフィーネが見せる反応が、カウティスは堪らなく嬉しい。
あれは慈愛でなく、明らかな情愛だ。
長い間、ひたすらに彼女を想ってきたカウティスには、胸に込み上げるものがある。
「今更、王子を男として意識するとか、驚きだけどね」
ハルミアンは肩を竦めて言う。
精霊のセルフィーネにとって、見るものも、受け取る感覚も、人間やエルフとは全く違うものだ。
以前、ラードが言っていた通り、本当に今までセルフィーネにとっては、カウティスが大人でも子供でも関係無かったのだろう。
それが初めて、触れ合う一人の“男”として意識した。
「実体を意識したらしいのは、進化に向けて良い傾向だとは思うけどさ、逃げられてちゃ意味ないじゃない」
ハルミアンが口を尖らせる。
「捨て鉢でも何でも良いからさ、魔力干渉も活用して、出来そうなことからとりあえず何でも試してみたら……いてっ!」
バシリとラードに頭を叩かれて、ハルミアンが睨んだ。
「お前といると、エルフのイメージがどんどん壊れてくるな」
「何か最近、僕に対して扱いが酷いよ!」
ハルミアンはくすんだ金髪の頭を
「だって、どうするのさ、今年はもう残り十日を切ってるのに……」
「ハルミアン」
マルクがハルミアンを止めた。
時間がないことは、誰もが分かっている。
「分かっている。……だが、セルフィーネは自分の変化にまだ戸惑っているのだ。強引なことは出来ない」
彼女の気持ちを考えずに、ついこの間辛い思いをさせたばかりなのだ。
カウティスの言葉に、ハルミアンは盛大に溜め息をついた。
「もう! 君達を見ていると、もどかしいったらないよ」
王太子の下にセルフィーネが姿を現した時、部屋には魔術師長ミルガンと、まだ旅装のままの宰相セシウムが待っていた。
先日の会談で、三国の協約が結ばれたことがセルフィーネに伝えられ、その内容が明らかになった。
メイマナや魔術士達の提言で、ネイクーン王国が力を入れ始めた水の精霊を支える為の試みを、今後三国共に行う約束がされた。
その為に、三国の魔術士館の連携を図ること、通信手段の見直しなど様々な取り決めがあった。
「セルフィーネ、そなたは、年が明ければ三国を巡回することになる。先ずは試験的に、二週ずつ、我が国、フルデルデ王国、ザクバラ国の順だ。半年それで試し、状況を見てその後を決定する」
「二週ずつ……」
エルノートの言葉を聞いて、セルフィーネは小さく頷く。
「それならば王太子の即位式には、ネイクーンにいられるな」
即位式は、年が明けて光の季節後期月の初日だ。
「そなた達は、私が
静かに語るセルフィーネを見て、エルノートは眉根を寄せる。
「気にするのは、そんな事か? そなたはもうすぐ、月の三分の一しかネイクーンにいられなくなるのだぞ?」
すなわちそれは、それだけしかカウティスの側にはいられないということだ。
セルフィーネがピクリとまつ毛を震わせた。
「……ならばどうせよと? 嫌だと言えば良いのか? そんなものは受け入れられぬと言えと?」
静かな問いに、三人は何も言うことが出来ず、ただ拳を握ることしか出来ない。
「……私を支えようとしてくれる皆の努力に感謝している。心配せずとも、私は三国の協約に従う。……ただ……協約の内容をカウティスに伝えるのは、王太子に任せても良いだろうか」
彼女の紫水晶の瞳が揺れるのを感じ、エルノートは奥歯を噛んだ。
「…………勿論だ」
それ以外に掛けられる言葉がなかった。
セルフィーネが執務室から姿を消し、エルノートは溜め息と共に、椅子に深く腰を下ろした。
そこへ、セシウムが書簡を差し出す。
「これは?」
「……ザクバラ国のリィドウォル宰相から、王太子様とメイマナ王女に、婚約祝いだそうです」
協約を結ぶ為の会談には、各国による贈答は行われない事になっていたが、私的な婚約祝いということで、言伝てされた官吏が断れなかったという。
「王太子様?」
書簡を机の上に落とし、顔を背けたエルノートが、掠れた声を出した。
「……皇女に毒を与えたのは……。私に毒を盛ったのは……この男だ」
ミルガンが書簡を取り上げ、セシウムが覗き込んで目を通す。
――――以前貴国を訪問した際に我が国からの土産とした品を、殿下と皇女殿下がお気に召されたようでしたので、同様の品を御二人に贈呈致します。
書簡はそう括られ、贈答品目録が続く。
最後に書かれていたのは、ハミラン香とザクバラ国産蜂蜜だった。
深夜、セルフィーネは西部に戻らず、王城の
戻れば、協約の内容をカウティスに問われるだろう。
内容を口にしたくなかった。
それなのに、離れていると寂しさばかり増した。
今すぐ戻って、あの胸に収まりたい。
そう考えてしまってから、胸の奥が
私はどうしてしまったのだろう。
もうすぐ三国の水源を守らなければならないのに、集中出来ない。
考えに沈むのをやめようと、視界を広げたセルフィーネは、王太子が酷くうなされているのに気付いた。
安らかに眠れるよう手を伸ばそうとする前に、彼は目を覚ましたが、胸を激しく掻きむしり、嘔吐する。
王太子の症状は、持続的なものだ。
今だけの苦しみを僅かに掬い取ることは出来ても、根本的な解決にはならない。
十日もせず、見守れなくなるであろう自分に、他にしてやれることはないのか。
セルフィーネは、カウティスの藍色のマントを胸の前で掻き合せ、そっとその香りを嗅ぐと、王城に降りた。
メイマナは自分の名を呼ばれた気がして、ぼんやりと目を覚ました。
白い天蓋に覆われた寝台で眠っていたメイマナは、すぐ側に、淡く光を放つ水の精霊が
「水の精霊様?」
上半身を起こして身を正そうとするメイマナに、セルフィーネは小さく首を振った。
「メイマナ王女。……王太子がとても苦しんでいる。どうか、助けてあげて」
メイマナは錆茶色の目を見張る。
飛び起きて、側にある洋服掛けから上掛けを掴んだ。
天蓋を跳ね上げて飛び出すと、話す気配を感じて近くまで来ていた、侍女のハルタとぶつかった。
「メイマナ様!?」
「王太子様の所へ参ります」
寝間着のまま上掛けを掴み、素足で駆け出そうとするメイマナの前に、ハルタは慌てて回り込んだ。
「どうなさったのですか!? こんな時間に、いけません!」
「お願い、ハルタ! エルノート様がお苦しみだと、水の精霊様が教えて下さったの。行かせてちょうだい!」
ハルタは寝台の方を振り返る。
白い薄布の天蓋の向こうに、薄っすらと細い人影が見えた。
「ハルタ! お願い!」
掴まれた腕を必死に振り解こうとするメイマナを、ハルタは
「そんな格好では部屋を出た途端、衛兵に止められてしまいます。少しだけお待ちを」
言って、ハルタは急いで厚めの上掛けと靴を持って来た。
メイマナがそれを身につける間に、乱れた髪を手早く結わえる。
「メイマナ様、貴女様は王太子殿下の唯一人の婚約者です。堂々となさって下さい」
ハルタの力強い言葉に、メイマナは心配と焦りに飲み込まれそうだった自分を持ち直す。
一つ息を吸って、大きく足を踏み出した。
「王太子様の下に参ります!」
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