心乱れる夜
カウティスはようやく遅い眠りに就く為、冷たい寝台に腰掛けた。
辺境暮らしも長く、夜中に冷たい寝台に入るのにも、すっかり慣れている。
首から下げていたガラスの小瓶を枕元に置く。
部屋にはカウティス一人だ。
セルフィーネはあれからずっと
「セルフィーネ」
カウティスは彼女の名を呼ぶ。
二人きりになれば触れたくなるのに、呼ばずにはいられなかった。
目の前に青白い光の粉が降り、藍色のマントを纏ったセルフィーネが姿を現した。
「眠るのか?」
「ああ」
カウティスが返事をすると、セルフィーネはするりとマントを脱ぎ、大事そうに椅子に掛けた。
再び光の粉を散らして消え、枕元の小瓶の上に小さな姿を現す。
カウティスは目を瞬いた。
「どうしてそっちに?」
小さなセルフィーネが枕元で首を傾げ、髪を揺らす。
「また、こちらにいて欲しいと言われると思ったから」
最近、カウティス自身が毎晩そう望んでいるのだから、先回りしてくれたのだろう。
昨日もカウティスが就寝準備をしている間に、彼女は小さくなって待機していた。
カウティスは
矛盾しているし勝手なのは分かっているが、あっさりそちらに行かれると、なんとなく寂しい気持ちになってしまった。
顔を上げると、おずおずと言う。
「少しだけ……、抱きしめてはいけないか?」
寝台に腰掛けたまま、カウティスは両腕を広げた。
セルフィーネの顔がパッと輝いて見えて、カウティスはホッとする。
どうやら、触れ合いを避けられているわけではないらしい。
セルフィーネは、もう一度等身大で現れると、そっとカウティスに近付く。
カウティスが寝台に腰掛けていたので、腕の中に収まろうとすると、自然とカウティスの太腿の上に腰掛け、上半身を斜めに捩る格好になった。
しなだれるように身を
抱きしめれば、幸せで、離したくなくなってしまった。
セルフィーネはカウティスの腕の中で、幸せで嬉しいのに、何故か緊張していた。
今まで何度も抱きしめて貰っていたのに、その時、自分がどうしていたのか思い出せない。
いつも、こんなに胸が苦しかっただろうか。
この手は、カウティスの胸のどこに添えていたのだろう。
鼓動が早くなっていることを、気付かれたりしないだろうか。
魔力干渉もしていないのに、カウティスの掌が当たっている肩も腰も、熱くて溶けてしまいそうな気がする……。
鼻先に触れるか触れないかのところにあるカウティスの首元から、日に焼けた髪と彼の仄かな汗の匂いを感じて、セルフィーネは堪らず額を胸に擦るようにして俯いた。
満たされていたカウティスが、セルフィーネが俯いたのに気付いた。
よく見れば、何だかいつもより、彼女の身体が強張っている気がする。
「セルフィーネ、どうした?」
腕を緩めて、彼女の顔を覗き込んだカウティスは、息を呑む。
「……っ」
セルフィーネの頬は上気し、白いはずの肌は、胸元まで温かな桃色に染まっている。
潤みきった瞳には戸惑いの色が浮かび、カウティスと目が合えば、恥ずかしそうに細い指で顔を覆ってしまった。
「……セルフィーネ……」
彼女の様子に、自然とカウティスの鼓動も早くなる。
「分からない……カウティスに、触れているのだと思ったら……私……」
顔を覆ったままで、消え入るような声で言うセルフィーネを、カウティスは堪らずもう一度抱きしめた。
セルフィーネは、流れる細い髪の間から見える耳まで、すっかり桃色に染まっている。
カウティスは、自分の心臓が苦しい程バクバクと打っているのを感じ、コクリと喉を鳴らす。
どうしたことだろうか。
セルフィーネがこんな風に反応したのは、初めてだ。
今まで触れ合って、嬉しそうにしたり、恥じらったりすることは多々あったが、どちらかといえばもっと反応は淡白だった。
セルフィーネのこの反応は、まるでカウティスを、今初めて一人の“男”として認識したようだ。
「……セルフィーネ、こちらに向いてくれ」
もう一度、潤んだ瞳で見つめて欲しくて、カウティスは抱きしめていた腕を解き、顔を覆ったままのセルフィーネの両手を取ろうとした。
「……今夜は
「ええっ!? 待って!」
カウティスが両手を取る前に、セルフィーネはそう言ってパッと光の粉を散らして消えた。
「セルフィーネ!」
「…………こんな……ウソだろ」
カウティスは、まだ苦しい程強く打つ心臓を抱えて、呆然と自分の両腕を見た。
そして、ガクリと寝台に
「……ね、……眠れないのだが……」
今夜も、カウティスの悩ましい夜が更けていく。
修繕途中の神殿から少し歩いた川原に、イスターク司教と聖騎士エンバーは立っていた。
今夜は薄雲もない空に、冴え冴えと月が輝いている。
ベリウム川にも月が映り、川面の揺れに月光が反射して、辺りにキラキラと清い光を散らしていた。
「何とも心洗われる光景ですね。昼も美しいですが、やはり夜が良い」
感嘆の息を吐いて、エンバーが言う。
「月光神の御力に満ちているからね。夜の空気は格別だ」
隣でイスタークも頷き、上機嫌で大きく息を吸った。
「イスターク様、最近は楽しそうですね」
「楽しいね。この時期にここに来られて、本当に良かった。皇国に葬送に行くなんて、まっぴらごめんだよ」
清々したように言って、イスタークは笑う。
フルブレスカ魔法皇国の皇帝崩御の知らせがあったのは、イスターク達がオルセールス神聖王国を出て、ネイクーン王国に入ってからだ。
もし、あの時本国に残っていたら、皇帝の葬送の式典を誰が執り行い、喪中の儀式を誰が仕切るか、そんなことで他の司教達が駆け引きするのに、嫌でも巻き込まれたかもしれない。
各国の王族や高位貴族の冠婚葬祭には、司教を望まれる事が多い。
勿論そういった儀式を執り行うことも、聖職者の大事な務めではあるが、地位が上がればしがらみや利害関係が伴う事も増え、イスタークはうんざりしていた。
「月光神と、ネイクーン王国に感謝しているよ。聖堂建築はとてもやり甲斐があるし、建築が軌道に乗るまでは、少なくともこうして、ただの聖職者として働けるだろう」
エンバーは、ベリウム川の光景を嬉し気に眺めている、イスタークの横顔を見下ろす。
彼が本当は司教になどならず、一司祭として、平民の日々の暮らしに添って生きていたかったのを知っている。
「……それでも私は、イスターク様を聖王の座に就けることが、私が太陽神に与えられた使命だと信じています」
エンバーの言葉に、イスタークは困ったように笑う。
「また君はそんなことを。私は、そんな面倒臭い
「分かっています。しかし、聖堂建築が成されれば、それもまた、イスターク様の貢献実績として残りますから、聖王へ一歩近付きますよ」
渋い顔をするイスタークに、エンバーはしたり顔で笑んだ。
ふと、エンバーの視界に、夜の景色にそぐわないものが入った。
「イスターク様、また来ていますよ」
少し離れた所の木立に、闇に淡く光を放つ、臙脂色の鳥が留まっている。
その鳥は何をするでもなく、じっとしてこちらを見ているだけだ。
「斬られそうになったのに、懲りないな」
イスタークはちらりと鳥を見て、苦笑する。
あの鳥は、数日前から日に度々姿を現して、離れた場所からこちらを
エンバーが初めて見た時は、魔獣の一種かと思い斬りかかろうとして、
エルフの使い魔だと教えられてからは放っているが、一体何がしたいのだろうかとエンバーは首を捻る。
「カウティス王子の指示で、イスターク様の動きを探っているのでしょうか」
神殿に戻る為に、イスタークは木立の方へ向けて歩き出した。
その後ろに一歩分空けて、エンバーが続く。
「カウティス王子は、きっとそのような事はしない。それに、彼もそんな諜者のような真似はしたがらないよ」
「……エルフの御仁を、よくご存知なのですね。そんなに深い間柄だったのですか?」
エンバーはイスタークの様子を
以前、神殿での二人を見て、因縁があるのだろうかと少し気になっていた。
答えが返ってくる代わりに、イスタークの足が止まる。
聞いてはいけなかったかと思ったが、イスタークの視線は空に向いていた。
つられて上を向いたエンバーも、眉を寄せた。
「私を見ていないで、水の精霊を見てやった方が良いのではないのか?」
イスタークが臙脂色の鳥をちらりと見て、今見上げていた空を指差した。
鳥がつぶらな瞳を瞬いて、パッと金の粉を散らすようにして消える。
イスタークはそれを確認してから、再び空を見上げた。
空を覆う水色と薄紫の層が、一部乱れている。
ここから北の、おそらく復興拠点辺りではないだろうか。
イスタークの隣に立ち、エンバーが目を眇める。
「あれは、水の精霊ですよね? 一体どうしたのでしょう」
エンバーには、水の精霊は月光神の魔力を薄めたような、白と青銀の混じった魔力として見える。
ネイクーン王国の水の精霊は、随分と強い輝きを持っているはずだが、今は何とも心細く揺れ、乱れていた。
「乱れていても、相変わらず清らかな魔力だ」
イスタークは呟く。
情報によれば、竜人族の襲来により、水の精霊は年が明ければ三国共有のものになるという。
だが、何処へ行くことになっても、どんな姿になっても、神聖力を与えられたからには必ず役割を果たす時が来るはずだ。
暫く見ている内に、乱れていた魔力は収まり、空には美しい層が戻った。
イスタークは今でも、水の精霊こそ、ネイクーン王国の聖堂に据えるべき神聖力だと思っているが、神の本当の意志が人間に分かるはずもない。
「君の聖職者としての役割は、何なのだろうね」
イスタークの言葉は月光の中に消えた。
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