無知の自覚
外では更に雨脚の強まった音がする。
屋根を打ち付ける雨粒の音は、ハルミアンの胸を
「……楽しかったのは僕だけで、イスタークにとっては、あっさり捨てられるものだったんだ」
改めて口にした言葉で、ハルミアンは顔を
あの時、裏切られた気分になった。
やっぱり人間なんて、信じるのではなかったと思った。
それなのに何故、今自分は人間に囲まれて、過去の傷を
自分でもよく分からない。
「あっさりだったのか? 猊下は、未練を残さないようにして国を出たんじゃないのか?」
ラードの言葉に反応し、ハルミアンは軽く睨んだ。
「未練って何だよ。資料を全部焼いてしまうなんて、研究者として有り得ないよ! いつか帰る日まで、僕がちゃんと保管しておいてあげるって言ったのに」
「……“いつか帰る”が叶う者が、聖職者にどれ程いるか、知っているか?」
カウティスが溜め息と共に口を開いた。
「どれ程? 知りませんよ。でも、聖職者は神に与えられた“役割”だか、“試練”とかいうものを果たしたら、神聖力を失くすんでしょう?」
魔術素質と違って、神によって与えられたり取り上げられたり、神聖力とは面倒なものだと思ったことがある。
カウティスが座り直して、ハルミアンに向き直った。
「ハルミアン。神聖力を得た者は、その国籍や立場に関係なく、神聖力を失くす日まで、必ずオルセールス神聖王国の所属となる決まりだ。そして、生きている内に神聖力を失くす者は
「……え?」
「しかも、神が与える“試練”がどういうものなのか、与えられた本人にも分からないのだ」
カウティスは、アナリナの苦悩を思い出しながら、苦い言葉を吐く。
「神聖力を得て喜ぶ者も多いが、今の生活を奪われ、戻りたくても戻れないまま、生涯を終える者もいる」
ハルミアンは深緑の目を見張る。
「何それ……。そんなの知らないよ……」
過去に神聖力を得たエルフはいないので、エルフは神聖力を得られないとされてきた。
エルフは人間と違って、病に掛かることも少なければ、毒や呪いにも強い。
それ
ハルミアンもそれに違わず、興味を持ったことはなかった。
聖職者に関しては、人間にとっては当たり前の知識すら持っていなかったのだった。
「イスターク猊下が、どういう状況で神聖力を得たか知ってる?」
マルクが向かい側から覗き込んだ。
「……確か、僕がいない間の公務で、地盤強化の工事を補助していて、現場で事故があったって。その時に、突然神聖力を発現して、怪我人を助けたって聞いた」
「大勢の前で発現したのなら、すぐに神聖王国から召喚令が出たはずだよ。でも、管理官が来ていたんだよね?」
ハルミアンは頷く。
管理官だという男司祭と女司祭が、イスタークを挟むように立っていた。
「管理官は、神聖力の発現が曖昧な者を確認したり、召喚に応じない者を連行する為に来るんだ」
マルクが一度言葉を切った。
「猊下は、聖職者になりたくなくて、召喚に応じなかったんじゃないかな」
ハルミアンは指の節が白くなる程、強くカップを握る。
イスタークから、聖職者としてオルセールス神聖王国へ行かなければならないと聞かされた日、ハルミアンは酷くがっかりした。
持って帰った資料を、これから一緒に検証していこうと、楽しみにしていた。
それなのに、聖職者になるだなんて。
しかも、もう明日にでも出発しようとしている。
引き止める暇もないではないか。
そこで、ふと我に返った。
何故、引き止めようなんて思うのか。
そもそも、ずっと一人でやって来たのに、何故こんなにがっかりしているのだろう。
出会って一年もしない人間に執着しているように見えて、周りから自分は、どんなに
それで、敢えて平気なふりをして言ったのだ。
『ふ~ん、じゃあ資料は僕が預かって保管しておいてあげる。頑張って働いて、早く戻っておいでよ』
あの瞬間の、イスタークの真っ白な顔を思い出し、ハルミアンはギュッと目を閉じる。
「……魔術素質を持っていても、魔術士になりたい者だけがなるように、神聖力を得ても、なりたくないなら聖職者になんて、ならなくても良いのかと思ってたんだ」
ハルミアンが細く声を出した。
「聖職者になるにしても、さっさと“試練”を果たして、戻ってくれば良いって……」
『 これだからエルフは…… 』
イスタークの低い声が頭に響く。
『 変わらないな、ハルミアン。どうせ、建築学にしか興味がないのだろう 』
ハルミアンは眉を強く寄せた。
聖職者について、知ろうとしなかった。
彼がどうしたいのか、聞こうとしなかった。
自分の求める知識にだけ貪欲なエルフにとっては、それが当たり前だったから。
資料を全て燃やした時、彼はどんな気持ちだったのだろう。
今、初めてそう考えた。
「イスタークは、どうしたかったのかな……」
ハルミアンはやっと目を開けて、呟く。
「どうかな……。ただ、巨大な力に
カウティスは、側に立つセルフィーネを見上げた。
彼女は、藍色のマントから白い腕を出し、カウティスの手を握った。
「一つだけ言えるのは、猊下もハルミアンも生きているという事だ。生きている限り、間違ったと思えば、やり直す為の努力は出来る」
ハルミアンはカウティスの真っ直ぐな瞳を見て、情けなく眉を下げ、軽く笑った。
「……カウティス王子らしいや」
日の入りの鐘が鳴り、既に鐘二つ分は過ぎた。
一日降り続いた雨は、ようやく止みそうな気配を見せているが、月は全く見えない夜だ。
カウティスはまだ、魔術士達の所にいた。
机の上には多くの資料が広げられ、水の精霊を支える為の施策案を話し合っていた。
小雨に濡れながら、ラードが扉から入ってきた。
「王子、そろそろ休んで下さい」
いつまで経っても休む気配のないカウティスを、迎えに来たらしい。
「もう少しだけだから」
そう答えるカウティスに、ラードは腰に手をやって首を振った。
「王子が休まなければ、この者達は休めません。明日も作業がありますから、解放してやって下さい」
言われてカウティスはハッとする。
ここは復興拠点だ。
ここにいる魔術士達は、本来は堤防建造の手助けを行う為に駐在しているのだ。
水の精霊を支える為に、
「……すまない。今夜はここまでにしよう」
カウティスは、申し訳無さそうに机から手を引いた。
拠点にいる魔術士達は、カウティスと水の精霊との様子を、間近で感じている者も多い。
カウティスの気持ちも分かるだけに、彼等もやりきれない気持ちで片付けを始めた。
堤防建造も又、西部の民の為のみならず、水の精霊を支える事に繋がるのだから、後回しには出来ないのだ。
カウティスが外へ出れば、雨は殆ど降っていなかった。
カウティスの一歩後ろを歩くラードが、その背中に声を掛ける。
「焦る気持ちも分かりますが、休む事も大事ですよ」
「分かっている。分かってはいるが……時間が足りない……」
既に後期月は半分を過ぎている。
水の精霊が三国共有のものになる日は、もうすぐそこだ。
出来ることを探してやろうとしても、こんなことをしていて良いのかという考えがついて回る。
他にもっと出来ることがあるのではないか。
何が見落としていないか。
焦燥感に突き動かされ、気が付くとこうして動いてしまうのだった。
セルフィーネは広間で
その瞳は硬質で、彼女はネイクーン王国の多くの場所を見ていた。
ふと意識を戻すと、側でハルミアンが彼女を見ていた。
「何を見てたの?」
「様々な所で、魔術陣が動き始めているのを見てきた。何処も問題はないようだ」
「この国の人達は
ハルミアンは彼女の頭を撫でるように、細い髪を
「ハルミアンは、イスターク司教が、今も好きなのだな」
その真っ直ぐな言葉と瞳に、ハルミアンは一瞬
そして、眉を下げて力なく笑った。
「……そうみたい。……信じられる? 彼を好きだったって事も、僕は今日気付いたんだよ。勝手に傷付いたつもりでさ、彼の痛みは知ろうともせずに……」
セルフィーネは小さく首を振る。
「私もそうだ。ネイクーン王国の人々に大切に思われていたのだと、カウティスと会うまでは知らなかった。……皆、自分一人では気付けないこともあるのだな」
「僕はもう一度、イスタークと繋がれるかな」
嘘のない真っ直ぐなセルフィーネの前だと、自分の思いが素直に口から出た。
「イスタークは僕を許してくれるかしら」
「分からない。だが、ハルミアンの気持ちが伝わるように願っている」
「……ありがとう、セルフィーネ」
ハルミアンは、ようやく息をつく事が出来た気がした。
「私も、ネイクーン王国の為に、まだ出来ることはないだろうか」
ぽつりと言うセルフィーネに、簡易寝台を引っ張っていたハルミアンは、呆れた顔をする。
拠点に戻って来てから、ハルミアンはすっかりこの広間に居着いている。
「君の負担を減らす為に皆が奮闘してるのに、これ以上仕事を増やしてどうするのさ」
「でも……」
下を向いてまつ毛を揺らすセルフィーネを見て、ハルミアンは眉を下げる。
彼女は、皆が自分の為に動いてくれているのに、じっとしているのが申し訳ないように思うのだろうか。
どう声を掛けたものかと考えるハルミアンの耳に、近付く足音が聞こえた。
「セルフィーネにしか出来ない大事なことが、他にもあるよ」
「大事なこと?」
セルフィーネは顔を上げて首を傾げた。
ハルミアンは扉前の衝立をずらすと、彼女の後ろに回って、その背中をグイと押す。
押されて扉に近付いたセルフィーネの目前で、扉が開いた。
「疲れて戻る王子を癒やすこと、でしょ」
ハルミアンが笑ってトンと背中を押した。
「わっ」
扉を開けた途端に、セルフィーネの軽い身体が胸に飛び込んで来て、カウティスは驚いて声を出した。
見下ろした彼女が、慌てたように体勢を戻そうとするので、
その柔らかさと、朝露のような蒼い香りが、焦燥感でいっぱいだったカウティスの心を、あっという間に溶かしていく。
素知らぬ顔で簡易寝台の方へ行くハルミアンが目に入ったが、カウティスはとりあえず、
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