見えなかったもの
用心
風の季節後期月、三週四日。
午後の一の鐘が鳴る頃、約半月ぶりにカウティスは西部国境地帯の復興拠点へ戻った。
これからの事の懸念から、カウティス達がいない間に小さな騒ぎなどはあったようだが、兵士長や職人頭達が、皆を上手くまとめてくれたようだった。
竜人との衝突や、水の精霊の契約更新を既に聞き及んでいた仲間達は、逆にカウティス達を心配していて、気遣ってくれる。
彼等の心遣いに、カウティスは頭の下がる思いだった。
カウティス達四人が王城を出る前日、
辺境貴族が一斉に兵を挙げ、貴族院に属する多くの中央貴族が粛清されたという。
国王及び、王族が討たれたという話は出ていないが、本当のところはまだ分からない。
まだ正式に王太子の座に就いていないが、国王と王太子が闘病中という事で、皇帝の葬送の式典に特例で参席を許可されたタージュリヤ王女だけは、国外に出ているので無事が確認されていた。
新たな貴族院がどういう編成になるかにもよるが、中央貴族は、主に強硬派だったというから、今後ネイクーン王国との関係性も変わってくるかもしれない。
国境のある西部では、特に動きに注視しなければならない。
日の入りの鐘が鳴る半刻前、既に空が暗くなった頃に、ラードが戻って来た。
王城から拠点に戻る際、一人分かれてイサイ村の様子を見に行っていたのだ。
「ザクバラ国の代表は、事が起こったと見るや、政変に巻き込まれるのを恐れて逃げたそうです」
下男が運んで来た夕食を受け取って、ラードが広間で話し始める。
「まあ、役に立たない代表だったので、堤防建造の現場に影響は出ていないようでしたが」
リィドウォルと交代でザクバラ国の代表となっていた貴族の、ペッタリとした口髭を思い出し、カウティスは軽く顔を
まったく、最後まで気に入らない奴だ。
「年明けまで我慢すれば、代表は交代すると言っていたが、もしやこの事だったのだろうか」
カウティスは渡された盆を机に置く。
「もしそうだとすると、政変が何時頃起こって、どういう結果になるか、あの貴族を据えた者は分かっていたという事ですよね」
マルクも同様に置いて、椅子を引く。
あの貴族を据えた者。
おそらく、それはリィドウォルだ。
水の精霊への執着が、今回の政変にも関係してはいないだろうか。
セルフィーネの契約更新を、食い入るように対岸から見つめていたあの瞳を思い出し、カウティスのスプーンを握っている手に力が入る。
力の籠もった右手に、僅かにひんやりとした白い手が、そっと添えられた。
見上げれば、横に立って気遣うような目でセルフィーネが見ていた。
この間から、セルフィーネはとても心配性だ。
カウティスが再び暗い感情に囚われないか、不安になってしまうのかもしれない。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だ」
カウティスが出来るだけ柔らかく微笑みかけると、セルフィーネも小さく微笑みを返して、手を退けた。
「空からザクバラ側の国境付近を見てみましたけど、復興拠点も、作業現場や資材置き場も、兵士がついて守ってましたよ。政変で復興を妨げるのは、本意じゃないってことなのかな」
ハルミアンは既にパンを入れて、口をもぐもぐと動かしている。
復興支援に問題がないのなら、ザクバラ国に関しては、西部で出来ることはない。
オルセールス神聖王国の出方と共に、注視しておくに留める。
そして引き続き、水の精霊を支える為に、ここから出来ることを探さなければならない。
「猊下に動きはないのか?」
食事を進めながら聞けば、ラードは口の中の物を飲み下して首を振った。
「そこまではまだ。今週、内地の神殿に入った事だけは聞きましたが」
「……一度、挨拶に出向くか」
カウティスが西部に戻っていると知らせておく方が、牽制になるかもしれない。
「西部に聖堂建築かぁ。歴史的建造物になるね。僕がここにやって来たのも、運命かしら」
パンを千切る手を止めて、うっとりと言ったのはハルミアンだ。
「オルセールス神聖王国の聖堂は、荘厳で格調高く美しいし、エプリーダの聖堂は場所柄、重厚な造りだ。でも、どちらも
「おい、コラ。妄想が過ぎるぞ、建築バカ。まだ聖堂建築を進めると決まったわけじゃない」
向かいに座っていたラードが、フォークの先でハルミアンの盆を突く。
行儀が悪いとハルミアンが軽く睨んでから、小さく首を傾げた。
「復興を遅らせたくないっていうのは分かるけど、やけに神聖王国を警戒してるよね。聖堂建築自体は、ネイクーン王国にとって利がある話だと思うけど。どうして?」
建築する場所や時期を考慮すれば、建築する期間は、この地域の雇用が促進される。
建った後は観光業にも繋がって、西部だけでなく、ネイクーン王国自体にも大きな収益が見込めるはずだ。
また、神聖力により西部の生活は今より安定する上、この地での紛争はなくなる。
「確かに、悪い話ではないんだけどね。ただ、新しく西部に駐在されるイスターク司教は、聖堂建築を進言した方で、以前、水の精霊様を聖職者として扱おうとしたことがあって……」
話している途中で、ハルミアンが眉を寄せたので、マルクは言葉を途切れさせた。
「イスターク……、司教? 西部に新しく派遣された聖職者って、イスタークっていうの?」
「……そうだけど」
「焦茶色の髪と瞳で、40代くらい?」
ハルミアンの反応に、カウティスとラードも食事をする手を止めて、
「猊下を知っているのか?」
「……多分ね」
ハルミアンにしては珍しく、一瞬、小憎らしい物を見るような顔になった。
「司教に会いに行くなら、僕も一緒に行くから」
そう言ったハルミアンの表情は、いつもの笑顔に戻っていた。
カウティスは、自室として使っている一番奥の部屋に入る。
マントを壁に掛けていると、整えられた寝台の端に、藍色のマントを巻いたセルフィーネがちょこんと座っていた。
「どうした?」
カウティスの問い掛けに、セルフィーネは顔を上げる。
「今夜は一緒にいても良いか?」
「え?」
カウティスの心臓が、急に強く打ち始める。
「……一緒にいたい」
王城は人も多く、この数日は引き継ぎや公務で特に忙しかったので、ゆっくり一緒にいられる時間はあまりなかった。
「そ、それは、もちろん良いが……」
寝台から見上げるセルフィーネの首筋に、細い絹糸の髪が流れ、カウティスの喉が鳴る。
「月光を浴びなくても良いのか?」
「曇っている」
今夜の空は雲に覆われて、月は殆ど月光を降らせていなかった。
一緒にいたいと言うセルフィーネの言葉に、言葉通りの意味しかないのは分かっている。
分かってはいるが、浴室でのことがあってから、カウティスはどうしても、セルフィーネの柔らかさを、頭から消すことが出来ないでいた。
見下ろしたままのカウティスの前で、セルフィーネは首を傾げる。
マントから覗く彼女の首筋から、カウティスは目が離せない。
心臓が強く打って、吐く息が熱を帯びている事を自覚する。
あの白い首筋に触れてしまったら、その手を戻すことは出来るのだろうか。
「カウティス?」
呼ばれて我に返った。
「あ……、では小瓶に姿を現して、一緒にいるのはどうだろう」
小さなセルフィーネならば、この衝動に耐えられるかもしれない。
そう思って口にしてから、カウティスはハッとする。
「……そういえば、ハルミアンに聞いてみるのを忘れていたな」
この数日のバタバタで、セルフィーネが再び小さな姿になれなくなったことを、結局ハルミアンに聞いていなかった事を思い出した。
「まずは聞いてみるか」
カウティスは手を差し出す。
セルフィーネはカウティスを見上げて、少し不思議そうにしていたが、大人しく手を伸ばした。
広間に出ると、明かりを灯した魔術ランプを眺めて、ハルミアンが椅子で頬杖をついていた。
カウティスとセルフィーネが手を繋いで出てきたのを見て、ニヤリと笑う。
「仲のよろしいことですね。聞き耳は立てませんから、安心して良いですよ。でも、セルフィーネが倒れないように気を付けて下さいね」
「うるさい。余計なことばかり言うな」
カウティスが鼻の上にシワを寄せて唸ると、ハルミアンは可笑しそうに笑った。
セルフィーネが変化をしてから、小さくなって小瓶や水盆に姿を現すことが、出来たり出来なくなったりしていることを説明する。
「これも進化や退化になるのだろうか?」
「いえ、物質を身に着けているか、着けてないかの違いだと思いますよ」
カウティスの質問に、ハルミアンは
「最初はバングル。今はマントですね」
ハルミアンは、セルフィーネが巻いている藍色のマントを指す。
「セルフィーネは強い魔力の塊ですけど、バングルとマントは、人間が作った物質です。持って行くことは出来ても、質量の大きさは変えられないんですよ」
困惑の表情を見せるカウティスに苦笑いして、ハルミアンはセルフィーネにマントを脱ぐように指示する。
「まあ、要は何も身に着けていなければ、小さくなれるってことですよ。セルフィーネ、やってごらん?」
セルフィーネが試すと、難なく小さくなれた。
小瓶に現れて、カウティスの胸に添う。
「カウティス、出来た」
嬉しそうに笑って見上げるので、カウティスは困った。
小さくなったらなったで、やっぱり可愛い。
だが、一晩一緒にいるなら、せめてこの姿であって欲しい。
カウティスの困ったような笑顔に、ハルミアンが吹き出した。
「セルフィーネ、カウティス王子は君に触れたいのを一生懸命我慢してるのさ。可哀想だから、一緒にいるなら小さくなっててあげて」
「ハルミアン! やっぱり聞いてたな!」
カウティスの怒声と、あははと大きく笑うハルミアンの声に、ラードとマルクも部屋から顔を出した。
セルフィーネは意味がよく分からずに、カウティスの胸でキョトンとしていた。
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