消えない
セイジェに引き継ぎをする為、一緒に魔術士館に向かう。
「夜通し剣を振っていたと聞いたのですが、お身体は大丈夫なのですか?」
何処から耳に入ったのやら、明け方近くまでカウティスが訓練場にいた事を、セイジェは知っているようだった。
「大丈夫だ。…………セルフィーネが癒やしてくれた」
後半、何故かカウティスが目を逸らす。
耳朶が僅かに赤いのを見て、セイジェは目を
「まったく、カウティス兄上は、何かあるとすぐに剣術に没頭するのですから。自分を追い込みすぎて、見ている方はハラハラします」
セイジェの言葉を聞いて、後ろを歩くラードがうんうんと大きく首肯する。
カウティスはラードを軽く睨んだ。
セイジェは溜め息をつく。
「エルノート兄上もです。父上が皇国へ向かわれてから、公務の量が増えていて心配です」
カウティスはセイジェの横顔を見る。
「……兄上は、最近眠れているのか?」
「以前より薬の処方は減っています」
セイジェは薬師館に頻繁に出入りして、薬学を学んでいる。
薬師長の許可の下で、エルノートにどれだけ薬が処方されているかを把握していた。
「でも、睡眠薬の量は減っていないのです」
セイジェが蜂蜜色の眉を寄せる。
深夜に起きて嘔吐することは減っているが、睡眠薬がないと、満足には眠れないようだった。
「私が公務をもっと手伝えれば良いのですが、貴族院が良しとしないのです。……本当は、カウティス兄上に西部へ戻って欲しくないのですが」
カウティスは内政に関する公務を手伝えるが、セイジェが手伝えるのは、水の精霊が三国共有になる部分だけだ。
エルノートの疲労が溜まれば、せっかく改善されてきた症状が悪化するかもしれないと、セイジェは心配していた。
「少しずつ良くなっているのだと思おう。それに、メイマナ王女のおかげで随分と穏やかなご様子だ」
カウティスがセイジェの肩を優しく叩く。
「そうですね」
セイジェは何とか笑顔を作った。
魔術士館の一室で、ミルガンとマルクに加え、各領地担当の魔術士達と引き継ぎ業務を行う。
各地での魔術陣稼働の話を聞いている内、数値化された魔力量を見ていたセイジェの頭に、疑問が湧いた。
「兄上、三国共有になって、セルフィーネはこれで耐えられるのですか? 魔力が足りないなんてことになったら……」
言って顔を上げ、カウティスや周りの魔術士達の顔を見て、強く眉を寄せる。
「それで良いのですか!? あれ程セルフィーネを望んだのに、これでは損なわれて……」
「言うなっ!」
カウティスは強く拳を握って、一度深呼吸した。
「……そうならないように、皆が力を尽くしている。そなたにも、力を尽くしてもらいたい」
セイジェは言葉を失った。
水の精霊が三国共有のものになり、水源を保つことだけに使われると聞いて、言葉通りにしか受け取っていなかった。
しかし、魔力不足で水の精霊は損なわれるかもしれない。
二国の状況によっては、消えてしまうのではないか……。
カウティスがこの数日酷い顔をしていたのは、きっとこのせいなのだ。
突然、部屋の気温が下がった気がした。
部屋にあった水差しから、
それは、美しい細身の女性の形をして、細い髪とドレスの裾を揺らした。
「う、わっ……!」
霧の
水盆よりも水量が少なく、とても薄い姿であったので、窪みがあるだけの顔がはっきりと分からず、恐ろしさよりも不思議な感じがした。
「カウティス、大丈夫か?」
カウティスの苦悩を感じ取ったのか、酷く籠もった声が心配そうに響いた。
「心配するな。もうそなたを悲しませない」
頬に添えられた冷たい手を、カウティスはそっと握る。
カウティスを気遣う
だが、セイジェはより一層顔を
「兄上を心配している場合なのか? そなたはもうすぐ消えるかもしれないのだぞ!?」
いっそ他人事のようにも見えるセルフィーネの様子に、セイジェは無性に苛立った。
この者は、兄の心を拐うだけ拐っておいて、状況が変われば受けいれて、あっさり消えるつもりなのだろうか。
険しい顔で口を開きかけたカウティスを止め、霧の
「私は消えない。例え、姿を持たない元の精霊に戻ったとしても、この心は消えない」
白く細い手が、胸の真ん中に添えられる。
「私の心がある限り、どんな姿になっても、ネイクーン王国を守る」
カウティスが教えてくれた。
『 もしも、セルフィーネが変わっても、ネイクーン王国への気持が失われない限り、“水の精霊”はきっと消えない 』
どんなものに変わっても、この心があれば大丈夫だと。
「私は消えない」
表情のない、
カウティス達が部屋から出た後、セイジェは椅子に凭れて宙を睨む。
「……私は、水の精霊が消えたら良いと思ったことがある」
セイジェが独り言のように呟いた。
魔術士達は顔色を変え、ミルガンは黙って目を向ける。
「あの美しい姿と魔力で、カウティス兄上は人生を変えられ、国は大難を被った。水源だけ保って余計なことはせず、いっそ姿が消えてしまえば、ネイクーン王国は人間だけの力で生きていくのに、と。……はは、心無い竜人族と、同じようなものだな」
セイジェは乾いた笑い声を漏らし、蜂蜜色の髪が垂れる額を押さえ、
「今、その通りになろうとしているのに、この胸の悪さは何なのだろうな」
「水の精霊様は、確かに美しい姿をお持ちです。ですが、あの方が真に美しいのは、心であると私は思います。献身的とも思える慈しみの心が、あの方を美しく見せる」
ミルガンは、水の戻った水差しを見つめる。
僅かも量の変わらない、清く澄んだ水。
「魔力素質の有無に関係なく、多くの者があの方に惹かれ、又、
セイジェはおそらく、無意識に
周りの者が惹かれ、巻き込まれていく
「セイジェ王子のお心のままで構いません。どうか我等と共に、水の精霊様をお支えする手助けを」
ミルガンが立礼し、魔術士達もそれに習った。
セイジェは軽く顔を
「言われずとも、私に与えられた務めだ。さあ、何処から手を付けるべきか、教えてくれ」
セイジェは立ち上がり、机上の資料を手に取った。
西部と通信をする為に、ラードとマルクを連れて別室に入ったカウティスは、壁際でセルフィーネのマントを脱がせているハルミアンを見て、仰天する。
「ハルミアンッ!」
「わあっ! ラード、止めて! 止めて!」
反射的に剣の柄を握るカウティスを、ラードが止める。
ハルミアンは素早くセルフィーネの後ろに回った。
自然と、藍色のマントを胸まで下ろしたセルフィーネが、カウティスの前に出るようになった。
今、剣を握るほど激高しかけていたのに、全て頭から消え去った。
セルフィーネの胸の傷は、きれいに消えていた。
二週ぶりに見た、その滑らかな白い胸元に、息が詰まる。
同時に、今朝湯船で感じた、セルフィーネの柔らかな感触を思い出し、血が上った。
「王子、百面相になってますよ」
割って入ろうとしていたラードが呆れて、笑いながら離れた。
ラードの言葉は、耳に入らない。
「治ったのだな。……もう、痛まないか?」
耳を赤くしたまま、カウティスは咳払いして胸元から目を逸らした。
「平気だ」
「良かった」
確認していただけなのに、とセルフィーネの後ろでハルミアンがブツブツ言っている。
「さっきは、セイジェがすまなかった」
セルフィーネに“消える”などと、面と向かって言わせてしまった。
「気にしていない。セイジェ王子も、この国とカウティスを心配しているだけだ」
皆違うやり方で、ネイクーン王国を案じている。
ただ、それだけのことだと彼女が言うので、カウティスはそれ以上の事は言わなかった。
「マントは、返さなければならないか?」
胸まで下ろしていた藍色のマントを肩まで引き上げて、セルフィーネが上目にカウティスを見た。
「いや、そんなことはないが、……もう治ったのに?」
「まだ着ていたい」
胸の前で、両手でキュッとマントを握っているセルフィーネがそんなことを言うと、好きなだけ使っていて良いとしか言えない。
でも、せっかくきれいな胸元が再びマントに覆い隠されてしまい、何だか残念な気持ちにもなってしまった。
セルフィーネが、マントを口元まで持っていく。
「カウティスの匂いがする」
ふわりと微笑んで言ったセルフィーネを、カウティスは堪らず引き寄せ、力一杯抱きしめた。
「ああ、もう! だから、俺が目の前にいるだろう!」
セルフィーネは驚いて目を見張ったが、カウティスの腕が力強いのに何処か優しくて、頬を染めて頭を凭れた。
「王子ー、私達も目の前にいるんですから、自重して下さいよ」
ラードが呆れたように笑いながら顔を背けると、嬉しそうに笑っているマルクが目に入った。
「何だ?」
「いえ、やっといつもの二人が戻って来たなぁって」
二人共、幸せそうに笑っている。
「……こういう日常を、完全に失くすわけにはいかないよな」
「はい」
ラードとマルクは、抱き合う二人にちょっかいを出すハルミアンを見て、一緒に笑う。
三国共有か、契約魔法を破綻するか、または他の未来か。
どんな先でも、二人が少しでも笑っていられるように。
ラードとマルクは思いを新たにした。
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