合わさる力
日の出の鐘が鳴り、王城の日常が動き出す。
カウティスは自室の続き間の浴室で、熱めに張られた湯船に浸かる。
顎の先まで浸かって、後頭を湯船に凭れる。
昨日の日暮れ前から、訓練場で酷使した身体は疲れ切っている。
汗を掻いたまま冷たい石床に転がっていたので、芯まで冷え切っていた。
熱い湯が、ジワリジワリと身体を温めていく。
長い長い溜め息が出た。
セルフィーネがこの胸に戻って来た。
会えなかったこの数日、彼女の存在がどれ程大きいか、改めて痛感した。
触れられるか触れられないか、そんなことではない。
もちろん触れたいと思っているが、何よりも、気持ちが重なっていることがこんなにも安らぐ。
不思議だった。
“繋がっている”と感じる。
相手が精霊だからなのだろうか。
聖紋が二人を繋げているからだろうか。
それとも、人間同士であっても、想い合う者達はこんな風に感じるものなのだろうか。
湯で身体が温まり、連日の寝不足と疲労で、カウティスは湯船で
「カウティス」
セルフィーネの声が聞こえるのも、ふわふわとした今の心地のせいだと思った。
「カウティス」
次の瞬間、ザバと湯船から湯が溢れる水音と共に、身体に掛かる僅かな重みと、湯に重く濡れた布越しに女性の身体を感じ、カウティスは目を開けて腰を浮かした。
「わああっ!! セル……ッ!」
叫んで
湯船の中、目の前にセルフィーネがいて、濡れた藍色のマントを重そうに肩から掛けてカウティスを間近に見上げていた、
「そっ、そ、そなた、な、何でっ!」
立ち上がりかけて全裸なのに気付き、焦ってもう一度肩まで沈む。
「カウティス王子!? 大丈夫ですか?」
重ね布の掛かった衝立の向こうで、自室に繋がる扉をノックして、侍女のユリナが声を掛けた。
「だっ、大丈夫だ! 何でもない!」
扉に向かって叫ぶ声が上擦る。
「本当ですか? 侍従を呼びましょうか?」
浴室で何かあったなら、侍従の方が良いのかとユリナが気遣う。
「本当に大丈夫だっ、誰も呼ぶな」
その声は完全に
扉の向こうで、ユリナの気配が遠退いたのを確認して、カウティスはおそるおそる前を向く。
夢ではなく、セルフィーネが濡れそぼったマントを纏って、カウティスの胸に添っていた。
カウティスは落ち着こうと努力して、深呼吸しようとしたが、何故か浅く短い呼吸になる。
「セルフィーネ、な、何故ここに? 湯浴みは見ない約束だったろう!?」
声の大きさを下げて言うが、この状況に慌てふためき、頭まで血が上る。
それなのに、セルフィーネの方は全く落ち着いている。
「見ていない。もう少しだけ一緒にいたくて、そう伝えようと思ったら、カウティスが眠りそうになっていた。湯船で眠るのは危ないから、起こしただけだ」
そう言うセルフィーネは真剣だ。
「声を掛けるだけで良いだろう?」
カウティスは目を逸らしたいのに、逸らせない。
湯に浸かっているセルフィーネの首筋に、水滴が流れる様を目で追ってしまう。
身体は完全にマントに隠されているのに、どうしてこんなに滑らかな曲線を感じるのか。
カウティスの素肌の胸に、マント越しに丸く柔らかなものが僅かに触れて、無意識に喉が鳴った。
「声は掛けた。でも目を開けてくれなかったから」
どうやら声が聞こえたのは、気の
「でも、湯船に一緒に入るのはやり過ぎだっ」
「何故? カウティスは泉に入るのに?」
セルフィーネは本気で分かっていない様子で、首を傾げた。
すぐ側で聞こえる声と、濡れたマント越しに感じるセルフィーネの身体に、これ以上は駄目だと、カウティスは理性をフル稼働して力一杯目を閉じた。
「もう上がるっ! 上がったら呼ぶからっ! 一旦
色々限界のカウティスが、真っ赤な顔で懇願するので、セルフィーネは彼が湯あたりしそうなのかと思って、言われた通りに消えた。
セルフィーネが消えたのを察し、カウティスは薄く目を開けて、湯の減った湯船で脱力する。
「……もしかして、この前寝台に引き倒した仕返しなのか?」
そんな訳はないと分かっているが、思わず呟いて、カウティスは桶の冷たい水でザブリと顔を洗った。
朝食は自室で摂ることにして、食事が運ばれると、給仕も要らないと人払いした。
「セルフィーネ」
呼ぶとすぐ青白い光の粒が振って、セルフィーネが姿を現した。
すっかり乾いている藍色のマントを揺らして、カウティスに寄る。
「湯あたりしたのでは?」
セルフィーネは白い腕を伸ばし、カウティスの頬に指を滑らせる。
さっきのこともあって、カウティスはドギマギしてしまい、既に耳が赤かった。
「平気だ。それより、もう浴室に突然現れるな。……あれは、心臓に悪い」
色んな意味で心臓に悪かったのだが、セルフィーネは驚かせたことに謝罪する。
「……すまない。ガラスの小瓶に姿を現そうと思ったのだが、出来なかったのだ」
「出来ない?」
湯浴みの間、浴室の洋服掛けに銀の鎖を掛け、ガラスの小瓶は吊るされていた。
昨夜は月光に当ていないが、その前はちゃんと当てておいたし、魔石の月光の魔力は切れていないはずなのだが。
カウティスは、首から掛けてある銀の鎖を引いて、小瓶を出した。
「もう一度やってみるか?」
セルフィーネに向かって言うと、彼女は一瞬瞳に硬質な輝きを見せたが、すぐに困ったように眉を下げた。
「出来ない」
数日前には出来たのに、なぜまた急に出来なくなったのだろうか。
「……後で、ハルミアンに聞いてみるか」
そういえば、出来るようになった時にも聞こうと思ったのに、メイマナ王女に見られた一件で、すっかり忘れていた。
「……もう少しだけ、一緒にいても良いだろうか」
セルフィーネがぽつりと言った。
数日会わなかったからか、とても離れ難い気持ちだった。
「ああ。公務に向かうまで、一緒にいよう」
同じ気持ちだったカウティスに微笑まれて、セルフィーネは
微笑むカウティスの瞳が澄んだ青空色で、彼女の胸に温かな気持ちが広がった。
王の執務室の続き間に入ると、珍しく王太子の机の側にセイジェがいた。
ザクバラ国へ向かう準備の一環で、風の季節に入ってから、セイジェは殆どの内政から外れている。
この部屋で顔を合わせるのは、久しぶりだった。
「セルフィーネと仲直りしたのですか?」
顔を見るなりセイジェにそう聞かれ、カウティスは繕うことも出来なかった。
「えっ? な、何故分かる?」
その正直すぎる反応に、机に向かって座っていたエルノートが吹き出す。
セイジェは呆れたような顔をして、小さく首を振った。
「カウティス兄上は、顔に出過ぎるのですよ。この何日か、酷い顔をされていたのに、すっかり毒のないお顔に戻っていますから」
この数日は、相当酷い顔をしていたのだろうかと、カウティスはバツの悪い思いで顔を撫でる。
「兄上が今日もあんな顔をされていたら、私がセルフィーネを叱ってやろうかと考えていたのですよ?」
「セイジェ。セルフィーネを責めてやるな」
カウティスがセイジェに噛み付く前に、エルノートがやんわりと
セイジェはエルノートを見て肩を竦め、カウティスは言葉を飲み込む。
最近兄は、以前よりも雰囲気が柔らかくなった気がする。
セイジェも同じ様に思っているようで、カウティスと目が合うと小さく微笑んだ。
「カウティス、魔術士館との連携はセイジェに引き継ぎ、出来るだけ早く西部へ戻れ」
魔術士達と各地方との連携は、今のところ
「……何かありましたか?」
エルノートの指示に、カウティスは表情を引き締める。
「イスターク司教が、城下から西部へ移動したようだ」
カウティスが眉根を寄せる。
「一旦はフルブレスカ魔法皇国の仲裁が入ったが、新皇帝になってそれもどうなるか分からない。強引な聖堂建築に動き出さないよう、注意が必要だ」
西部の国境地帯で勝手な事をされては、せっかく軌道に乗っている復興計画を乱される恐れがあった。
「分かりました。しかし、セイジェに引き継ぐのですか?」
内政から外れているセイジェに任せるのは良いのだろうか。
ザクバラ国へ越す日が近付き、ネイクーン王国の最近の動向を詳しく知られない為に、セイジェを内政から外しているはずだ。
「皇帝の喪が明けるまでは、セイジェも動けない。それに私は、水の精霊を支える為に使う魔術の知識は、二国へ出しても良いと思っている。それならば、セイジェが引き継ぐのも都合が良いし、父上とミルガンも了承している」
カウティスは目を見張る。
セイジェは先に聞いていたのか、神妙な面持ちで聞いている。
どこの国にも独自の魔術があるが、大体簡単には外へ出さないものだ。
ネイクーン王国の魔術符や魔術陣は、他国から学びに来る者もいる程に優れた知識と技術で、多くの利益を生んでいる。
堤防強化の為に考えられた魔術符は、今後大陸の水害を防ぐ為になるならと考え、復興が成った後には外へ出す事で、カウティスが王から承諾を得ている。
しかし、水の精霊を支える為のものとなると、各属性の多岐に渡る魔術知識になるのではないだろうか。
「水の精霊が三国共有になるのであれば、我が国が今やろうとしている事は、二国にも必要になる事のはずだ。それならば、知識も占有するのでなく、共有した方が良いと考えている。セルフィーネも、その方が楽になるだろう」
「兄上……」
自国の損益よりも、セルフィーネを守ることを重視してくれるのかと、カウティスは感じ入った。
そんなカウティスを見て、エルノートが苦笑する。
「勘違いするな。感傷で、ただでくれてやるのではないぞ。取引きするのだ。気候や水量調整は、日常生活から農産物の収穫まで、幅広く関係してくる。何処の国でも得たい魔術知識だ。我が国の魔術士を派遣して指導すれば、派遣料も発生する」
当然のように並べ始めた内容に、兄が既に大分前から考えていた事なのだと分かった。
「メイマナが三日前にフルデルデ王国に書簡を送ったが、昨日、向こうからの親書が先に届いた。皇国から、皇帝崩御と共に水の精霊の三国共有が知らされたらしい」
そこでエルノートは軽く笑う。
「フルデルデ女王は、竜人族のやり方が気に入らなかったらしい」
嘆願を取り下げる前に決まった事とはいえ、水の精霊をギリギリ生かすような使い方に、大層腹を立てているらしい。
ザクバラ国にも不満を持っているらしく、近く、三国の官吏が集い、年明け以降の水の精霊の扱いに関する協約を纏めたいと申し出てきた。
「さすが、メイマナ王女の母君ですね。行動が早い」
セイジェが口元を押さえて笑う。
エルノートがカウティスを見上げ、薄青の瞳に力を込めた。
「カウティス、皆が出来ることを探して、動いている。……再び己を見失うなよ」
まだ何もかも手探りだった。
それでも、次々と合わさっていく力に、カウティスは勇気付けられ、温かな力が湧くのを感じた。
もう決して、あの暗く醜いものに流されない。
カウティスは強く頷いた。
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