守り
王城の多くの者が寝静まる、深夜。
明け方には、まだ遠い。
王城の小さな泉の庭園に、尾の長い臙脂色の鳥が飛んできた。
鳥は何かを
そして思い切って、泉の縁に飛び上がった。
「……ごめんよ、セルフィーネ」
小さな黒い嘴から溢れたのは、ハルミアンの声だ。
使い魔の鳥は、噴水で波紋を作る泉の水面を、ちょんと突付いた。
「許してくれる?」
噴水のサラサラという水音だけが聞こえていた。
暫くして、青白い光の粒が泉の上に降り始め、
セルフィーネは泉の縁に腰掛け、臙脂色の鳥をそっと手に乗せる。
「僕、せっかく進んだ君の進化を、竜人に邪魔されたくなかったんだ。……でも、君達を離れ離れにさせたくなかったのも、本当なんだよ」
鳥はしょんぼりと頭を下げた。
「ごめん」
「……ハルミアンが私を助けようとしてくれたのは、分かっているつもりだ。多くの知恵も、心遣いも、感謝している」
セルフィーネは長いまつ毛を揺らして、目を伏せた。
「でも、私はカウティスに、あんな目をして進化を望んで欲しくなかった」
セルフィーネを満たすはずの、カウティスの澄んだ青空色の瞳は濁り、暗い色をしていた。
憤り、憎しみ、理不尽な力に対して恨みを宿して、セルフィーネの進化を強く望んだ。
「あんな望みで得る実体に、何の意味があるだろう」
セルフィーネは藍色のマントを掛けた、自分の肩を抱く。
愛おしいと触れる手は、触れたところから溶けそうな程に熱いのに、実体を望んだカウティスの手は強張り、優しさの欠片もなかった。
唇を合わせても、熱の籠もった瞳は向けられない。
あんなに悲しい触れ合いが、これまでにあっただろうか。
セルフィーネは、薄い唇を震わせる。
もう一度、あの澄んだ青空色の瞳で、見つめて欲しい。
一緒にいようと、温かく笑って欲しい。
それが何よりも、セルフィーネを幸せな気持ちにさせてくれる。
しかし、あれから何度もセルフィーネに呼び掛けるカウティスの目は、やはり暗いままだった。
「……もし、このままカウティスが分かってくれなかったら、私はどうしたら良いのだろう……」
セルフィーネを見上げていた鳥は、彼女の悲しみを感じ、長い尾を垂らして
セルフィーネは、臙脂色の鳥をそっと撫でた。
「何処にもいないと思ったら、こんな所で夜明かしですか」
訓練場の固い石床に仰向けに寝転がり、東に傾いてきた月を眺めていたカウティスを、ラードが上から覗き込んだ。
汗だくのまま倒れていたので、夜明け前の冷たい空気ですっかり冷えてしまっていた。
だが、力尽きるまで剣を振った身体は軋み、起き上がる気力もない。
「……何だ、今夜は城下で過ごすのではなかったのか」
掠れた声でカウティスが答える。
今夜はラードが城下に降りると言うから、夕の鐘の後からずっと、訓練場にいた。
訓練場に騎士がいる間は、希望者と手合わせを続け、日の入りからは一人で黙々と鍛練を続けた。
訓練場には、魔術具の照明があるので、深夜だろうと関係ない。
ラードも騎士団長バルシャークもおらず、強く止められる者はいなかった。
それでカウティスは、ただひたすらに、無心になるまで剣を振った。
この目がリィドウォルによく似ていると、マルクに言われて衝撃を受けた。
リィドウォルが水の精霊に向ける、執着の視線。
あの目にも又、憎しみや怒りのような、暗いものが滲んでいる。
あれ程忌み嫌っていた、粘るような暗い瞳に、自分が似ているというのは、受け入れ難いことだった。
それなのに、『そんなことはない』と言えない自分がいる。
黒いドロドロとしたものを身体の内に感じてから、竜人に対する憎しみが抑えられない。
自分でも驚く程に醜い気持ちがあるのに、セルフィーネに隠しておけるはずがない。
きっと彼女は、カウティスの瞳を覗き込み、この醜いものを感じただろう。
それなのに、その気持ちのまま彼女に触れた。
一緒にいる為だと、進化を促す理由を正当化しようとした。
抑えられない暗い気持ちと、羞恥と後悔に、カウティスの頭の中はグチャグチャになった。
子供の頃から、辛い時、苦しい時は、全て忘れて無になるまで、がむしゃらに剣を振ってきた。
それで今日も、ひたすらに剣を振った。
身体中が軋んで悲鳴を上げ、汗にまみれ、声が掠れるほど喉が渇ききるまで。
冷たい地面に倒れ込んで、空っぽになるまで。
空っぽになって空を見上げ、ようやく落ち着いた。
「城下の卸商に届いたって知らせがあったので、これを受け取りに行ってたんですよ」
ラードが白い布に巻かれた、長い物を差し出した。
カウティスが手を出さないので、巻いていた布を取って、中身を取り出す。
それはカウティスの長剣だった。
竜人との衝突で折れた物と、殆ど同じだ。
以前の剣を造った鍛冶師に、同等程度の長剣を依頼していた。
出来るだけ急いで用意させたので、オーダーメイドの以前の物と全く同じとはいかないが、大きさや柄の仕様は同じだ。
カウティスが重い身体を、ようやっと起こした。
「……急いで受け取りに行ったのか?」
「取りに行けば、早朝鍛練の時間に間に合うと思ったので」
王城に届けさせれば、カウティスの手に渡るのは昼を過ぎる。
「ハルミアンが言ったように、王子は狂戦士みたいなもんですからね。
驚いて目を見張るカウティスに、ラードが肩を竦めて見せる。
「らしくないですよ、王子。間違おうが
ラードはカウティスの手に、グイと長剣を押し付ける。
「女性をあんまり待たせるもんじゃありませんよ」
カウティスは長剣を手に取った。
その真新しい手触りと、前腕に伝わる重みに、不思議と心が洗われる。
ふと、初めて真剣を持たせてもらった時の事を思い出した。
剣術の鍛練にもすっかり慣れ、8歳の誕生日を迎えた頃。
騎士団長バルシャークに頼み込んで、一度真剣を構えさせてもらった。
ワクワクして手にした真剣の、その予想以上の重みと、人の命を奪える刃の冷たい輝きに、カウティスは尻込みした。
「剣を持てば、オレはもっと大人になれて、今より強くなれると思っていたのに、……何だか、怖かった」
泉の縁に腰掛け、8歳のカウティスは肩を落とした。
「剣があっても、それはすぐオレの力になるわけではないのだな。もっと鍛えて、自分の実力を伸ばさなければ、剣はオレの力にならないのだ」
泉に立ってカウティスを見下ろしていたセルフィーネは、頷いて口を開いた。
「そなたはきっと、良い騎士になるな」
「……どうしてだ?」
無力感を感じているのにそう言われて、カウティスは目を瞬いた。
「威力のある武器、優秀な部下、守りの強い場所……。己の実力以外の物を、己の実力として取違える者も多い。そなたは自分の足りぬところを見て見ぬ振りをせず、常に努力する。素晴らしいことだ」
セルフィーネは誇らし気にカウティスを見つめ、紫水晶の瞳を細めて微笑む。
カウティスの顔に血が上る。
セルフィーネが自分のことを、そんな風に評価してくれた事に、胸が熱くなった。
「オレは、もっともっと強くなる。もっと強くなって、セルフィーネを守るよ」
泉の縁から立ち上がり、カウティスは両手を握りしめて言った。
「カウティスが守るべきは、ネイクーン王国の民だろう」
そう言いながらも、彼女はどこか嬉しそうに見えた。
「もちろんそうだ。でも、そなたも、オレが守る!」
子供らしい決意を込めて、セルフィーネを見上げるカウティスに、彼女は笑みを深めた。
「そなたは今も、私を守ってくれている」
「え?」
セルフィーネは泉の縁ギリギリの所で座り、カウティスの瞳を覗き込んだ。
「私を守るのは剣ではない。そなたの曇りなく澄んだ瞳と、真っ直ぐな心だ。それが何よりも私の力になる」
セルフィーネは白い指で、胸の真ん中を押さえた。
「カウティスだけが与えてくれる、私の守りだ」
カウティスは、固く冷たい石床から立ち上がる。
「感謝する」
片方の口端を上げて見守るラードの肩を一度叩き、ギシギシと軋む身体を鼓舞して、カウティスは踏み出した。
早朝鍛練の時間になって、訓練場に数人の騎士が入って来た。
王子が走って来るのを見て、立礼しようとしたが、カウティスは構わず横を擦り抜けた。
もう少しも動けないと思って倒れていたのに、一度動かし始めると、足は前へ前へと進んだ。
既にカラカラだった喉は、息をする毎にヒリヒリと痛んだが、カウティスは冷たい空気を大きく吸って、走る勢いを増した。
セルフィーネに会いたい。
それだけが頭の中を占めた。
呼び掛けに応えてくれるかとか、許してくれるのだろうかとか、そんなことは少しも浮かばなかった。
カウティスは全力で駆けた。
薬草園の側を通り、大樹の横を擦り抜けて、花壇の小道を走り出た。
泉の縁に、藍色のマントを巻いたセルフィーネが座っていた。
カウティスの姿を認め、立ち上がると、マントから出た白い手から、臙脂色の鳥が飛び立つ。
その勢いで舞い上がった細い髪が、彼女の胸の前に降りてくるより早く、カウティスはセルフィーネを抱きしめた。
マント越しに感じる細い身体を、強く、そして優しく抱く。
「俺が間違っていた」
マントの中で、セルフィーネの身体が小さく震え、指がカウティスの胸を弱く掻いた。
「…………遅い」
消え入りそうな細い声が、腕の中で聞こえる。
「……酷い。悲しかった。あんなのは、嫌だ……」
「悪かった……。すまない」
ようやく姿を見せてくれて、言葉も交わせるのに、胸が詰まってろくな台詞も口にできず、カウティスはその想いだけでセルフィーネを見つめた。
セルフィーネが
曇りなく澄んだ青空色の瞳に見つめられて、セルフィーネの唇が細かに震える。
「…………会いたかった、カウティス」
「俺も、会いたかった」
カウティスは再び彼女を抱きしめた。
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