ザクバラ国政変
風の季節後期月、二週五日。
カウティスは魔術師長室で、魔術師長ミルガンとマルク、ラードと共に、水の精霊の負担を軽くする為の取り組みについて話していた。
各領地の魔術士ギルドにも話が通り、三週半ばから、南部では実験的に魔術陣を稼働させることになった。
話の区切りがついたとき、ミルガンはカウティスの視線が、窓際の小さな銀の水盆に向けられていることに気付いた。
水面が太陽光を反射しているのを、眩しそうに見詰めている。
「水の精霊様は、まだ応えて下さらないのですか」
ミルガンの声に、カウティスは弾かれたように顔を上げ、バツが悪そうにする。
「……水面は揺らすが、姿は見せない」
あの日以来、セルフィーネはカウティスの前に姿を現さない。
朝晩に必ず泉で呼び、度々ガラスの小瓶にも声を掛けるが、水面を揺らしたり小瓶を光らせたりするが、声も聞かせてくれなかった。
反応があるということは、目を閉じるつもりはないらしい。
セルフィーネを守りたいのに、また
「王子が大人しく王城にいるのは意外でしたね。すぐにでも飛び出して、水の精霊様を迎えに西部に戻るかと思いましたよ」
ラードが資料を紐で綴じながら言うが、カウティスは溜め息をつく。
「……職務を放り出して西部に戻ったりしたら、それこそ、絶対に会ってくれないだろう」
もしかしたら、反応さえしてくれなくなるかもしれない。
それに、あの硬質な瞳でまた拒絶されるかと思うと、強く呼び掛けるのも
ラードは大げさに灰色の眉を上げた。
「王子にもそんな分別があったんですねぇ」
噛み付きでもしたら、少しは元気も出るかと思ってからかってみたが、カウティスは険しい顔で黙っている。
ラードは口を歪ませた。
カウティスはもどかしい思いに、奥歯を噛む。
するべき事は幾らでもある。
そうしている内に、時間は刻々と過ぎて行くのに、セルフィーネの進化を促すどころか、顔も見れない日が続いている。
このまま日々が過ぎていけば、気が付くと年が明けてしまうのではないか。
そう考えると、ゾッとする。
ネイクーン王国の人間が、年が明ける迄の僅かな期間に
感情の
あの一瞬、血のような深紅の瞳が、カウティスを
所詮、精霊も人間も、竜人の思うがままなのだと言われたようだった。
抗っても抗いきれない力を感じ、遣り切れない。
気付くとまた、あの黒い感情が湧き出ていて、息苦しくなった。
「王子」
ラードの声がすぐ側で聞こえ、カウティスは我に返った。
「何度も呼んだんですよ」
「……ああ、考え事をしていた。すまない」
ふと、カウティスの目に、驚愕した表情でこちらを見ているマルクが映った。
そんな顔をする意味が分からず、カウティスは目を
「マルク?」
「……水の精霊様が、『カウティスにあんな目をさせてはいけない』と仰った意味が分かります」
突然セルフィーネのことを持ち出され、カウティスはドキリとした。
「セルフィーネが……?」
マルクは重く息を吐いて、首を振った。
「カウティス王子、今の王子の目は、リィドウォル卿によく似ています」
まさかの言葉に、カウティスは愕然とした。
同日。
石造りのザクバラ王城は、朝の冷えた空気を、殺伐とした気配に塗り替えていた。
灰墨色の建物には、
生い茂る葉や蔦で形作られた庭園も、王城の騎士ではない、地方騎士や兵士達が占拠していた。
三階建ての中央部分から、のっぺりと広く伸びる低い建物から、今、正に裁かれる者達が、叫びながら兵士に引かれて行く。
その、多くは中央を牛耳る貴族院の貴族と、その親族達だった。
薄暗い地下牢の一室に、後ろ手に縛られた男が一人、騎士によって投げ入れられた。
冷たく湿った石床に、強く身体を打ち付けて、男は
男は黒髪黒眼の、生粋のザクバラ国人だった。
深夜、深く眠っていたところを襲われ、寝間着のままここに運ばれた。
黒髪には僅かに白い毛が混じるが、その肌艶や着ている寝間着から、高位貴族だと知れる。
ここに連れて来られる途中、屋敷中に過剰に配置していた護衛騎士達は、一人も姿を見せなかった。
一体、何故助けが来ないのかと思ったところで、鉄格子の前に立つ目付きの悪い騎士の片刃剣から、真新しい血が滴っているのが見え、血の気が引く。
「久しぶりだな、ザールイン」
騎士の後ろから姿を現したのは、リィドウォルだ。
緩くクセのある黒髪を垂らし、旅装の黒いローブを纏った彼は、今、闇から溶け出たようだった。
「リィドウォル!? いつ戻って来た? いや、そんなことは良い。すぐにここから出せ!」
牢に転がされたのは、ザクバラ国宰相ザールインだ。
後ろ手に縛られている為に、すぐに起き上がれず、芋虫のように藻掻いて、何とか膝立ちになった。
「今すぐ縄を外せ! ここから出すのだ、リィドウォル! 従え!」
唾を散らして
「残念ながら、私が陛下から従うよう命じられているのは、ザクバラ国宰相と、貴族院三首だけだ」
「そうだ! 陛下が任命された、私が宰相ザールインだ!」
ザールインが
その手に持っているのは、ザールインの宰相のローブだ。
公務に必ず着用する濃紺のローブで、宰相の地位を示す記章がついていた。
片刃剣を持っていた護衛騎士のイルウェンは、騎士からそのローブを受け取ると、記章だけ外し、濃紺のローブは鉄格子の間から、ザールインに向かって無造作に投げつける。
そして手にした記章を、リィドウォルの胸に
「リィドウォル宰相、ザールインの処分をお命じ下さい」
イルウェンが、誇らし気にリィドウォルに立礼した。
「お前が宰相だと!?」
ザールインが牢の中で顔を歪めて
「そんな勝手が通るかっ! 陛下が任命されたのは私だ! 血の契約に従え、リィドウォル!」
リィドウォルは、冷めた目でザールインを見下ろした。
「“宰相の任命は国王の権限であるが、国王が国政を指揮出来ない場合、貴族院三首の合意を以て宰相を任命出来る”。我が国の法令だ。知っていよう?」
「三首が合意するはずがない!」
尚も
「貴族院三首は、昨夜、揃って討たれた。新たな三首の合意により、つい先程、ザクバラ国宰相にリィドウォル卿の就任が決定した」
ザールインが驚愕に顔を歪めた。
「討てるはずがない……、お前は確かに、血の契約に縛られているのに、宰相と三首には刃向かえないはずだ……!」
「その通りだ。だから、私は何もしていない。三首を討ったのは辺境貴族で、私を宰相に任命したのは、新しい貴族院だ。……そして、貴様はもう、私を縛ることのできる“宰相”ではない」
リィドウォルの右目が、僅かに紅く揺らぐ。
「ひっ!」
ザールインが無様に尻餅をついた。
「心配するな、貴様に魔眼は使わぬ。命も取らない」
「……斬らぬのですか?」
不満を
「ここは三十年余り前、私の兄が、政変を見届けるまで生かされていた場所だ」
リィドウォルは遠い昔を見るように目を細める。
「当時、指示したのは貴様だったな、ザールイン」
ザールインの顔色が変わる。
「これからザクバラ国が変わるのを、今度は貴様がここから見届けよ」
リィドウォルは旅装のローブを
「待て! 待ってくれ、リィドウォル! 私は陛下の命令に従っただけだ!」
鉄格子に
「頼む! リィドウォル!」
鉄格子に顔を歪めたまま、懇願するザールインの声が、地下牢に響いた。
王族の居住区に、装いを改めたリィドウォルが入った。
文官用の黒い高官服に、真新しいマントを羽織り、宰相の記章を着けている。
最奥の王の居住区域に入ると、宰相の記章を見た侍従や薬師達が、道を開けて頭を下げた。
「イルウェンはここで待て」
大扉の前に立つと、リィドウォルは護衛騎士を残して、一人室内へ入った。
静かで重い空気の室内は、薬香の香りに満ちていた。
中央の巨大な寝台に近付くと、周りで礼をする薬師達を下げる。
何重にも垂らされた天蓋を潜り、寝台の側に近付くと、寝台の中央に、上体を斜めに起こした大柄な老人がいる。
以前は黒かったであろう長髪は、ザクバラ国の王城のように灰墨色になって、垂れ下がっている。
落ち窪んだ目は極薄く開いているが、光はなかった。
高齢にしては広い胸が、ゆっくりと僅かに上下していて、老人が生きているのだと知れた。
老人はザクバラ国王だ。
リィドウォルは寝台の側で膝をつき、
「……陛下、リィドウォルです。只今、お側に戻って参りました」
王の反応はない。
それでも彼は、王の顔を見て真摯に言葉を紡ぐ。
「陛下、年が明ければ、ようやくネイクーン王国の水の精霊が、我が国に参ります」
骨の浮いた王の手を、リィドウォルはそっと握る。
「長くお待たせして、申し訳ありません。もう少しの辛抱です」
何の光も見せない王の目を見つめ、リィドウォルは言った。
「必ず
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