大切なこと
風の季節後期月、二週三日。
ネイクーン国王は、四週二日に催される、フルブレスカ魔法皇国の葬送の式典に参席する為、王城を出た。
王の不在中、王の権限の全ては王太子エルノートに与えられる。
エルノートやカウティスが参席していた、連日の貴族院大会議は終了した。
今は、議題毎の小会議が行われている。
新皇帝の御世と、水の精霊が三国共有になる新しい時代に向けて、ネイクーン王国全体が、静かに準備を進めていた。
王の執務室の続き間に入り、公務を行っていたエルノートが、溜め息混じりに顔を上げた。
数歩離れた所には、険しい表情のカウティスが、黙って宙を睨んで立っている。
「カウティス、今日はもう下がって休め」
「……は? 今日は、夕の鐘まで付くようになっております」
生真面目に答えたカウティスに、エルノートは目を
「そんな剣呑な雰囲気で付かれると、落ち着いて公務にあたれない。下がれ」
カウティスは我に返ったように、瞬きした。
「っ……、申し訳ありません。ですが……」
「聞こえなかったか? 今日は下がれ」
もう兄は目線も上げない。
カウティスは更に口を開こうか
カウティスと入れ違いに来室したのは、メイマナ王女だ。
今日はネイクーン王国仕様の、襟元がレースで飾られ、胴を絞った紺のドレスを着ていた。
侍女のハルタが後ろから、お茶のセットを乗せたワゴンを運んで来る。
「王太子様、少しだけ、一緒にお茶を致しませんか?」
休憩せよとはいわず、一緒にお茶をしようと誘うメイマナに、エルノートは軽く笑って従う。
こうして、僅かながらも休憩を取るようになった王太子に、侍従達も安堵していた。
「先程、カウティス王子と廊下でお会いしたのですが、元気がありませんでしたね」
メイマナが、小さな丸い焼き菓子を小皿に乗せて渡す。
仄かに塩気の効いた甘くない菓子で、渋みのあるお茶によく合った。
「水の精霊が、あれからずっと姿を見せないらしい」
皿の小さな菓子を一つ摘み、エルノートが言った。
カウティスとセルフィーネとの間に、何があったかは分からないが、彼女は一昨日の夜、西部へ戻った。
それからは、どれ程呼んでも姿を現さないという。
メイマナは、カウティスのマントを巻いて、涙を浮かべたまま、安堵したように頬を緩めていた水の精霊を思い出した。
「あれ程想い合っているのに、一体何があったのでしょうか」
エルノートは小さく首を振る。
「人間と精霊というだけで、困難ばかりだろう。年が明ければ、今のように添うことも出来ないかもしれない。……歯痒いことだ」
エルノートは目線を上げる。
目の前に座るメイマナは、手を伸ばせば届く。
愛しい相手が側にいるのに、触れることも出来ないとは、どれ程の痛みだろう。
今になって、カウティスが長い年月抱えてきた想いの強さを知る。
「それでも、あの二人を見ていると、運命というものを考えてしまう。何があっても、強く強く引き寄せ合う……不思議な絆だ」
呟くように言ったエルノートに、メイマナは微笑む。
手にしていたカップを机に置き、姿勢を正す。
「王太子様、私は、フルデルデ王国でも水の精霊を支えるための、働きかけをしたいと思います。元々母国は、どちらかと言えば土の精霊の影響が強い土地ですから、水の精霊の力を補助するには向いておりますわ。お許し頂ければ、すぐに女王陛下に手紙をしたためます」
メイマナは両頬に笑窪を刻み、朗らかに笑う。
「このような時期に二国の縁を繋いだ私達も、実は運命かもしれませんわ」
その一点の曇りもない、鮮やかな笑顔を前にして、エルノートは思わず一言漏らす。
「美しいな」
「えっ!?」
メイマナの頬にサッと赤味が差す。
「我が国のドレスも、よく似合っている」
美しい薄青の色に見つめられて、メイマナは胸が高鳴り、声が裏返りそうになった。
「あ、ありがとうございます。これからは、王太子様と並んで釣り合うよう、
答える間にも、エルノートは全く視線を逸らしてくれない。
メイマナはドキドキしながら小首を傾げた。
「…………私の名は?」
「はい?」
「メイマナがいつまでも名を呼んでくれないので、私の名を忘れてしまったかと思ってな」
メイマナの頬が、より赤く染まった。
「……エルノート様」
恥じらうように言ったメイマナを見て、エルノートが満足気に小さく笑った。
カウティスは、このやり切れない気分を何処かにぶつけたくて、訓練場に足を向けかけた。
しかし、日中の人の中に入っていく気になれず、そのまま自室に戻った。
お茶の用意でも、と言う侍女のユリナに断って、人払いする。
部屋に入ると、黒のマントを椅子に放り投げて、整えられた大きな寝台の上にドサリと仰向けに転がった。
「セルフィーネ」
呟くように名を呼んで、大きく息を吐いた。
一昨日の夜、この部屋で、セルフィーネと二人きりになって向き合った。
「どうして実体を望むなどと?」
セルフィーネは細い眉を寄せて、カウティスを見た。
「そなたが実体になれば、契約魔法を破綻させられる。三国共有のものにならなくても良いのだ」
竜人族の思惑通り、セルフィーネを物言わぬ精霊に戻してなるものか。
人間も精霊も、全て
カウティスは強く奥歯を噛む。
「ハルミアンに、そう言われたのか? 契約魔法を破綻させる為に、進化をさせよと? 私はそんなことは望まない。カウティスだって、本当は望んでいないはず」
固い調子で言って、セルフィーネは首を振った。
薄く紫の滲む水色の髪が広がる。
カウティスは腕を伸ばして、セルフィーネをマントごと抱きしめた。
魔力干渉していなくても、マント越しに、彼女の強張った細い体の手応えがある。
「俺は望んでいる。……本当は
「そんなのは違う」
セルフィーネがマントの内で、イヤだと言うように強く身体を
「違わない!」
カウティスは、腕の中から出ようとする彼女を、強引に引いて寝台に倒した。
柔らかな寝台の上で、セルフィーネの身体は僅かに一度跳ねる。
細い髪が、白いシーツの上に広がった。
「実体があれば、こうして、そなたを組み敷くことだって出来る。実体さえ、そなたに身体さえあれば……!」
驚きに目を見張るセルフィーネに、カウティスは唇を落とす。
僅かに密度の濃い空気が、カウティスの唇に触れた。
実体を得て、愛しいセルフィーネを、とうとう自分だけのものにする。
そうして、竜人族を出し抜き、彼女を奴等の手には決して届かない存在にしてやるのだ。
そう思ったのに、唇を離したセルフィーネの瞳は、ほんの僅かな熱も持たない、硬質な紫水晶だった。
「嘘」
セルフィーネは呟くように言った。
「変わっても変わらなくても、どちらでも良いと、カウティスは言った。どんなものになっても、私が私であるなら良いと、そう言った」
セルフィーネは寝台に仰向けに転がったままで、カウティスの瞳を射た。
「私が目に見える姿を持たなくても、カウティスは抱きしめてくれたではないか」
藍色のマントの間から、白い腕が出て、カウティスの頬を細い指が撫でた。
「実体なんて、望まない。……お願い。目を覚まして、カウティス」
カウティスは寝台から天井を眺めて、両手で顔を覆った。
セルフィーネは『目を覚まして』と言って姿を消し、それからどれだけ呼び掛けても姿を見せない。
何が間違っていたというのか。
確かに、セルフィーネが実体を持っていない魔力の塊でも、目に見えない姿であっても、少しも変わらず好きだ。
どんな姿であっても、彼女が彼女であるなら、愛おしい。
しかし、触れ合える身体を持っていたなら、どんなに良いかと思うのも本当だ。
その願いが叶い、それが竜人の思惑を潰すことになるのなら、それ以上のことはないと思われたのに……。
カウティスは、目の上で両手を拳に握る。
竜人の事を考えると、また身体の奥底から黒いドロドロした物が、這い出て来そうな気がする。
――――憎い。
こんなにも醜い感情が、自分の中にあったのかと驚く程だった。
夕の鐘を過ぎて、ラードが魔術士館を訪れた。
魔術士達の話し合いに参加するでもなく、小部屋で
綺麗な白い頬に、背もたれの筋痕が残っているのを見ると、長い間そうしているようだった。
「何だお前、まだここにいたのか。西部に戻ったのかと思ったのに」
部屋を覗いたラードに呆れたように言われ、ハルミアンは乗せていた顎を背もたれから下ろした。
「戻れるわけないじゃない。あんなこと言われて、セルフィーネとどう顔を合わせるのさ」
ハルミアンは、プイと顔を背けて口を尖らせた。
その様子に、ラードは噴き出す。
まるで兄妹喧嘩をした子供のようだ。
笑われて、ハルミアンはラードを睨む。
「大体、実体化したら王子と触れ合えて嬉しいはずでしょ。何であんなに悲しそうにするのさ」
あんな顔をされては、西部に戻って文句を言う事も出来ない。
口を尖らせたままのハルミアンを見て、ラードは通信を後回しにして、小部屋に入って扉を閉めた。
「まあ、大体のことはマルクから聞いたが……。根本的に、水の精霊様が求めてるものは、俺達人間とは違うんだろう」
「違う? 何が?」
ラードが閉めた扉に凭れて、腕を組む。
「王子と水の精霊様が出会ったのは、王子がまだ6歳の頃だ。その頃王子の護衛騎士をしてた友が言うには、その一年後には、既に王子は水の精霊様の魔力に護られていたらしい」
身体の周りに
水の精霊の情による、個人的な護り。
「相手が子供だとか関係なく、“カウティス”という個に対して、情を持ち始めたんだろう」
ハルミアンは目を瞬いた。
二人の様子から、男女の恋仲のように思っていた。
それも間違いないのだろうが、セルフィーネの想いは、それだけではないのかもしれない。
「カウティス王子は人間の男だから、そりゃあ実体を望む気持ちも大きいだろうが、水の精霊様はどうだろう。そもそも進化は、カウティス王子と情を寄せ合って、一緒にいたことによってついてきた、ただの“おまけ”なんじゃないのか?」
信じられないといった風に、ハルミアンがラードを見上げる。
「進化自体、セルフィーネが望んでいるものじゃなかった……?」
ラードは一つ息を吐く。
最近ようやく見慣れてきた、水の精霊の美しい姿を思い浮かべる。
彼女が幸せそうに微笑む時、その目線の先にはいつも、カウティスの笑顔があった。
「水の精霊様にとっては、触れ合える身体を持つよりも、大切なことがあるんだ」
困惑して眉を寄せたままのハルミアンに、ラードは肩を竦める。
「何より大切なのは、きっとカウティス王子が王子らしく在って、笑っていることなんだろう」
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