目に見える姿
「ねえ、これって、どういう状況?」
ラードに呼ばれて、王太子の執務室に入ったハルミアンの第一声はそれだった。
執務室の主である、王太子エルノートは、執務机の側で顔を背けて立っているし、カウティスもソファーで同様に壁を向いている。
その隣にはセルフィーネが半実体の姿で座っていて、誰だか分からない高貴そうな女性が、臙脂色の上掛けでセルフィーネの上半身を隠していた。
「ハルミアン様ですね。王太子殿下の婚約者の、メイマナと申します。ご挨拶は後ほどさせて頂きますので、彼女の傷を隠してあげて下さいませ」
女性にそう言われて、ハルミアンは我に返って動き出した。
カウティスの藍色のマントを借りて、ハルミアンはマントに魔力を流しながら、セルフィーネの肩に掛けた。
長い丈のマントは、魔術士のローブのように、彼女の細い身体をすっかりと覆い隠す。
見苦しい傷が隠れ、セルフィーネは緊張を解いた。
ようやく見ても良いと許可を出され、カウティスはセルフィーネの方を向いた。
彼女の目にはまだ涙が溜まっていたが、マントを両手で握り、口元まで持っていくと、小さく息を吸って、安堵したようにふわりと表情を緩めた。
「……カウティスの匂いだ」
カウティスの心臓が跳ね、頬が熱くなる。
そんなことを、そんな風に緩んだ顔で言われたら、抱きしめたくなってしまうではないか。
「そういうのは、……こっちが照れるんですが」
珍しく少し赤面したラードが、小さく咳払いする。
エルノートも笑っていて、メイマナに至っては、何て可愛らしい、と目を輝かせていた。
「ハルミアン、涙が止まらないのだ……。どうすれば良い?」
言った先からまた一筋涙が零れ、セルフィーネは困惑したように掌で無造作に頬を
「魔力が随分と乱れてる。竜人に強引に干渉されたし、貴族院でも虐められたんでしょ」
ハルミアンは腹立たしい様子で言うと、セルフィーネの濡れた頬を
「魔力を整えよう。……ごめんね、少し触るよ?」
形の良い眉を下げ、ハルミアンはセルフィーネと額をつけた。
セルフィーネの瞳が見開き、硬質な輝きを見せたが、暫くすると涙が止まって呼吸が安定する。
ハルミアンは額を離し、小さく息を吐く。
「……少しは安定したかな。後はカウティス王子に整えて貰って。またああやって、僕を睨んでるから」
「睨んでないぞ!」
セルフィーネと額をつけたハルミアンを、無意識に強く見つめていたカウティスは、慌てて目を瞬いた。
ふふ、とセルフィーネが小さく笑ったので、ハルミアンは彼女の頭を撫でた。
「良かった、笑えたね。心配してたんだよ?」
「……すまない」
そんなやり取りをする二人は、まるで美しい兄妹のようだった。
「落ち着いたなら、この後の事を話しましょう。あまり時間がありません」
ラードが表情を改めて言った。
午後の貴族院会議に、水の精霊の姿を見せるよう、要望が出されたというからだ。
ハルミアンを待つ間に、エルノートが王に会議の開始を遅らせるよう連絡は入れたが、それ程長くは遅らせられない。
「実体でないなら、姿を変えることは出来ないのか」
エルノートが腕を組んで、セルフィーネに尋ねた。
「せめてそれ程に美しい姿でなければ、そなたに対して、邪な企みを持つ者も減るのではないか?」
確かに、この
「うーん、使い魔もそうですが、一度創ってしまった物のイメージを変えるのは、かなり難しいんですよね」
ハルミアンが溜め息をついた。
「そうなのか? 幻のようなものなら、簡単に変えられそうに思うが」
ラードが言うと、ハルミアンは軽く睨む。
「僕等は、人間ほど想像力豊かじゃないの。それに、考えてみてよ。君なら太陽を別の形に描いてと言われて、即座に描けるかい?」
太陽を描けと言われたら、大体誰もが赤や蜜柑色で、同じ様な形の絵を描くだろう。
全く違う表現をしろと言われれば、確かに即は描けないかもしれない。
一度刷り込まれたイメージというものは、簡単には変えられないもののようだ。
「時間を掛ければ出来るかもしれないけど、すぐには無理だよ」
ハルミアンがセルフィーネの方を見る。
セルフィーネは、自身の身体を造り変える事を考えてみるが、全く手掛かりが掴めなかった。
「あの、水の精霊の姿を見た者というのは、はっきり見えるほど、近くで見ていたのでしょうか?」
悩んでいる男性陣に、メイマナが軽く手を上げて口を挟んだ。
カウティスは、あの時の事を思い返してみる。
竜人だけを見て向かって行ったので定かではないが、突然現れた竜人と魔獣の姿に
ラードも同じ様に考えたのか、首を振った。
「いえ、だいぶ離れた場所から見ていたので、ある程度の姿形は分かったはずですが……。そこまではっきりとは分からなかったのではないでしょうか」
イサイ村に入った時も、幕を張った時も、傷付いたセルフィーネの姿を人目に触れさせるのが憐れで、ずっと頭からローブを掛けて、ハルミアンが抱いて移動したはずだ。
「それならば、“これが水の精霊の姿だ”と、別の姿を見せてやれば良いのでは?」
メイマナが人差し指を立てて言うと、ハルミアンが唇を歪ませる。
「ですからメイマナ王女、別の姿になるのは難しいんです」
「ええ、ですから、偽物を見せるのですわ」
メイマナは、
午後の二の鐘が鳴る。
予定より半刻遅く、午後の会議が始まった。
午前の会議には間に合っていなかった、地方の貴族も集まり、貴族院全員が集まった。
そこには、ラードの兄であるエスクト領主もいる。
午後から参席の者達には、午前に配られた資料が改めて配られた。
「今後について改めて話し合う前に、西部から一つ、気になる報告が上がっておりますので、お聞きしたいのですが」
貴族院の代表貴族の一人が発言した。
「王族にしか、姿を見ることの出来ないはずの水の精霊様が、実は誰にでも見ることが出来る姿を持っている、とは、真のことでしょうか」
王が、水の張られた銀の水盆を見遣る。
「……そうだとすれば、何だと?」
「真であるならば、我々にもそのお姿を拝ませて頂きたく存じます」
王と王太子は顔を見合わせる。
「増大した魔力の為に、つい最近、水の精霊が目に見える姿を手に入れたのは確かだ」
王太子の言葉に、会場中の貴族達がざわめいた。
「では、是非とも!」
眉を寄せて口を開いたのは、カウティスだった。
「なぜ、その姿を望む? 姿を見られたからといって、卿等に何事か利害が生まれようか」
「これは、カウティス王子らしからぬお言葉ですね。利害ではなく、水の精霊様を敬う我等の気持ちの問題です」
午前にカウティスにやり込められた、北部貴族が薄く笑って言う。
「魔力も見えず、水の精霊様のお声も聞けなかった我等が、そのお姿が見られるようになったのですよ。カウティス王子の仰るように、今後水の精霊様を我等がお支えしようというのならば、そのお姿を知るか知らぬかでは、心持ちも違ってこようというものです」
もっともらしい事を言いながら、アブハスト王の創り上げた美しい水の精霊の姿に対して、興味を剥き出しの視線に、カウティスは吐き気がした。
「良いだろう」
強い声が響き、エルノートが立ち上がり手を上げる。
ざわついていた室内が静まり返った。
「それ程に望むなら、彼女に皆の前に姿を現してもらおう」
「兄上!」
カウティスが、エルノートに詰め寄る勢いで声を上げた。
「目に見えぬ物よりも、見える物の方がより身近に感じるものだ。今後、水の精霊をより身近な存在として、共に守り支えようと思えるだろう。そうだな?」
エルノートの視線を受けて、貴族達は様々な思惑と共に頷いた。
静まり返った室内で、王が立ち上がった。
真剣な面持ちが、何故か微妙に歪む。
「先に言っておくが、……皆、後悔するなよ」
その一言に、貴族達が困惑気味に顔を見合わせた。
「……水の精霊よ。皆にその姿を見せてやれ」
王の呼び掛けに、一拍置いて水盆から水柱が立ち上がる。
それと同時に、水柱から湯気のように白い
魔術士達の席からは、ミルガンとマルクが、固唾を呑んで見守っている。
全て出尽くすと、
それは、美しい細身の女性の形をしていた。
細く長い手足。
背の中程までの細い髪。
揺れるドレスの裾。
霧の濃淡の加減か、実体のようにも見え、光の加減か、部分的に僅かに色付いても見える、とても不思議な姿だった。
彼女は貴族達に向けて、顔を上げた。
彼女の顔はなかった。
いや、顔に見える程度には形がある。
のっぺりとした濃く白い霧の顔に、目の位置に二つ、ポカリと落ち窪んだ薄暗い穴があり、口の位置には小さな割れ目があった。
見つめていた多くの貴族達は、ガタと椅子を鳴らして身を引いた。
ひっと息を呑む者もいる。
彼女の動きは美しく、たおやかな女性の仕草ではあったが、動く度に身体の輪郭がざらつくように
引きつって動けない貴族の前まで進み出ると、口の小さな割れ目を動かして喋った。
「……カウティスは?」
水の中から聞こえるような籠もった声と、湿った冷ややかな空気が流れて、貴族の全身に鳥肌が立った。
「私はこっちだ」
カウティスが答えると、彼女は振り返ってカウティスの方へ進む。
遠目で後ろ姿を見れば、それは確かに、報告通りの美しい女性の姿だった。
彼女はカウティスの側に添って立つ。
カウティスは
その亡霊のような彼女の顔を正面から見て、一度愛おしむように微笑むと、笑顔を消して貴族達を見渡した。
「これが水の精霊の目に見える姿だ。……満足か?」
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