乙女心
すっかり昼の時間も過ぎて、午後の一の鐘が鳴ろうかという時に、カウティスは居住区に戻った。
階段前でラードが待っていて、カウティスの姿を見て眉を寄せた。
「遅いですよ、王子。……なぜ、そんな格好を?」
カウティスは、いつも後ろに流している長いマントを、ペリース風にずらして無理やり左肩に掛けていた。
端を右手で持って、左半身を隠しているようにも見える。
「遅くなってすまなかった。……いや、その」
カウティスは周囲を見て、側に人がいないのを確認すると、そっとマントをはぐる。
「み、水の精……!」
大きな声で言いかけて、ラードは急いで口を
藍色のマントの下に隠れていたのは、カウティスの左胸に添った小さなセルフィーネだった。
進化した姿で、ラードにも見える。
「姿が戻ったんですね。……でも確か、小さくなれなかったのでは……?」
ラードが小声で聞くと、カウティスも小声で返す。
「何故か出来るらしい。そして離れない」
口では困った風に言うが、何処となく嬉しそうにも見えるカウティスに、ラードは半眼になった。
無意識に退化しようとした事がきっかけなのか、この半実体の姿でも小さくなって、ガラスの小瓶に現れることが出来た。
だが、何故できるのか、本人にもよく分かってないようだった。
これも進化が進んだと考えて良いのだろうか。
ハルミアンに聞いてみなければならない。
「とにかく、父上と兄上に報告しておかないと。執務室か?」
カウティスが階段を上りながら聞くと、ラードはチラとカウティスのマントを見た。
「王太子様はご自身の執務室におられますが、陛下は貴族院代表と謁見中です」
「何故だ? また午後の会議で顔を合わせるだろう」
「……どうやら、竜人の暴挙の際に、水の精霊様が王族以外にも姿を見せていた、という話が広まりだしたようで。午後の会議に、水の精霊様に再び水盆に立って頂きたいと要請しているようです」
カウティスは、不快感に強く眉を寄せた。
直接水の精霊に聞かねばならない事は、もう大体聞き尽くし、午後からは水の精霊の召喚はないはずだった。
セルフィーネはマントの下で、手を強く握る。
あの時は、強制召喚されて、姿を消すことが出来なかった。
王族と許可された者以外には、姿を見せるなと言われていたのに。
この事で、また問題が増えてしまっただろうか。
カウティスに、また迷惑が掛かるのだろうか。
そう思うと、止まっていたはずの涙が零れそうになった。
ずっと我慢していたからなのか、感情を上手く制御出来ず、困惑した。
王太子の執務室に通されると、山吹色のドレスに臙脂色の上掛けを着たメイマナが、エルノートとソファーに向かい合わせで座っていた。
その雰囲気や口調から、二人の関係は良好なようだと、カウティスは嬉しく思う。
見ると机の上には、食べかけのサンドイッチや薄く湯気の立つスープが置かれてあって、カウティスとラードは共に驚く。
今まで、手が付けられずに冷めてしまった料理が、寂しく置かれてあるのは度々目にした。
だが、兄がこの部屋で温かい料理を食べているのを見たのは、初めての気がする。
「……申し訳ありません、お食事中でしたか」
「いや、終わるところだった。セルフィーネは大丈夫だったか?」
カウティスの不自然な格好に、エルノートは
「はい。それに関してご報告に参りました」
カウティスとラードの様子に気付き、エルノートが手を振って人払いした。
メイマナもまた、人払いを察して笑顔で立ち上がり、カウティスに立礼して下がろうとした。
そして、カウティスの胸の魔力に気付いて立ち止まる。
「まあ、水の精霊様がご一緒でしたか。ご挨拶だけさせて頂いてもよろしいですか?」
メイマナには、弱いが魔術素質がある。
カウティスの左胸に留まっている魔力は、西部で見た水の精霊だろうと思った。
「はい。勿論です」
カウティスに許可を貰って、メイマナは向き直って姿勢を正すと、口を開こうとして止まる。
つぶらな瞳を数度瞬いて、心配そうに錆茶色の眉を下げた。
カウティスの胸の魔力が、何とも悲しげに細く揺れているのだ。
「……あの、水の精霊様は、泣いておられるのですか?」
「えっ!?」
泣いていると言われ、慌ててマントの中を覗こうとして、端を引っ張っていたカウティスの右手が離れた。
はらりとマントが左肩に収まり、セルフィーネの姿が露わになった。
カウティスの胸に添っていたセルフィーネが、マントが開いたので顔を上げる。
「!」
その輝く水の精霊の姿に、メイマナが目を丸くして、ふっくりとした両手で口を押さえた。
エルノートは首を振り、ラードは額を押さえる。
「メ、メイマナ王女、これは、その……」
焦って再びマントで左胸を覆い隠そうとして、カウティスはメイマナが言った通り、セルフィーネが涙を零している事に気付いた。
「……セルフィーネ、どうした」
「分からない。上手く、抑えられない……」
ポロポロと涙を零し、呆然とするセルフィーネに、カウティスは
「ハルミアンを呼んで来ます」
ラードが見兼ねて部屋を出た。
「カウティス、とにかく座れ」
エルノートがカウティスを促し、メイマナに向かって言った。
「メイマナ、あの者がネイクーン王国の水の精霊だ。貴女に会わせるのはもう少し先のつもりだったが、こうなってはきちんと知って貰った方が良いだろう。……驚いたか?」
気遣うようなエルノートの声に、錆茶色の目を丸くしたまま固まっていたメイマナが、急いで瞬きした。
「なんて、……なんてお可愛らしいのでしょう」
頬を染めて、ほうと息を吐く。
「……は?」
聞き間違いかと、エルノートがメイマナの表情を
「以前の魔力も、ふるふると可愛らしくありましたが、このお姿もなんて素敵でしょう。……でも、水の精霊はどうして泣いているのですか? 悲しいことでも?」
当たり前のように、側に寄って心配そうな瞳を向けるメイマナを、セルフィーネは不思議な気分で見上げた。
メイマナの瞳には、恐れも
「……心配で……」
「何が心配ですか?」
「……私が姿を現したせいで、また問題を増やしてしまったのだろうか、と……」
ポロ、と涙が溢れるのを見て、メイマナは
「大丈夫ですわ。ネイクーンの皆様は貴女の事を、それは大事に想っておられるのですもの。何かあっても、負担に思われたりしません。それよりも、そのように泣かれる方が、大切なカウティス王子が心配されますよ」
言われてセルフィーネが見上げると、カウティスは急いでコクコクと頷く。
そのやり取りに、エルノートは暫く唖然としていたが、メイマナのやることを、とりあえず黙って見守ることにした。
「さあ、もうそのようにお泣きにならないで。こちらにいらして下さいませ。私が涙を拭いて差し上げましょう」
メイマナが、カウティスの隣の座面を優しく叩くと、暫く不思議そうに見ていたセルフィーネが、そっとカウティスの胸を離れた。
驚きに目を見張るカウティスの隣で、どこからか青白い光の粒が集まり、
一瞬の輝きの後、人の大きさで現れたセルフィーネの姿を見て、メイマナが目を見張る。
今度こそメイマナが驚きに言葉を失くすであろうと思った、エルノートとカウティスの前で、彼女は憤然と自分の上掛けを脱いだ。
「お二人共、こちらを見てはいけません!」
「え?」
メイマナの勢いに呑まれ、兄弟は訳が分からぬまま、言われた通り急いで顔を背けた。
「ああ、何てことでしょう。こんなにもお
セルフィーネの胸には、引き
メイマナが上掛けを肩に掛けてやろうとすると、セルフィーネの身体を擦り抜けてしまった。
涙も同様に拭くことが出来ず、メイマナは悲痛な表情で首を振る。
「……私では、何も出来ないのでしょうか。カウティス王子に、お姿を見られたくないでしょうに……」
カウティスが慌てて振り返った。
「俺は、そなたがどんな姿でも気にしない!」
「そういうことではありません! 想うお方に見られたくない乙女心です!」
ピシャリとメイマナに言われて、カウティスは焦って再び顔を背けた。
“乙女心”と言われて、女性にはそんな気持ちがあるのかと、初めて考えた。
そういえば、泉でも『見ないで欲しい』と言われた気がする。
セルフィーネは、カウティスに上手く伝えられなかった自分の気持ちを、メイマナが初めて代弁してくれて、とても落ち着いた。
上掛けを手で持って、隠してくれようとするメイマナを見つめて口を開く。
「……ありがとう、メイマナ王女」
メイマナは柔らかく微笑んだ。
「……メイマナは、水の精霊の姿を見て、驚かないのか」
顔を背けたまま、エルノートが尋ねる。
「驚きましたわ。でも、以前にカウティス王子の胸に添った魔力を見て、まるで乙女のようだと思っていたのです」
こちらを見つめるセルフィーネに、メイマナは微笑みかける。
「それに、母国を出る前に、聖女様に想いを託されたのです」
「アナリナに……?」
セルフィーネは紫水晶の目を見張る。
「はい。聖女様は、『水の精霊を守って欲しい』と仰いました。『純粋で優しい、私の友』だとも」
セルフィーネは、アナリナの微笑む姿を思い出し、胸が温かくなった。
三国共有のものになったら、フルデルデ王国に滞在しているアナリナに会えるかもしれない。
まだ先の見通せない未来だが、それは小さな希望のように、セルフィーネの心に光を灯した。
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