新しい国へ
王太子エルノートは、深夜になってようやく王太子の執務室に戻って来た。
今まで、王やカウティス達と魔術士館にいたのだ。
近衛騎士と侍従を連れて戻ると、執務室の前で別の侍従が待っていた。
エルノートが戻ってきたのを見て、急いで近寄る。
「メイマナ王女が、隣室でお待ちです」
「……こんな時間に?」
エルノートの胸が一瞬ドキリとした。
日付けが変わるまで、後半刻程だ。
こんな時間に待っているとは、一体何だろうか。
エルノートが隣の応接室に入ると、メイマナが日中の鉗子色のドレスのまま、上掛けを肩に掛けてソファーに座っていた。
その姿を見て、エルノートは先程ドキリとした自分を恥じる。
メイマナは、彼の入室に合わせて立ち上がり、立礼する。
「遅くまで、お務めご苦労さまです」
メイマナはエルノートを見て、柔らかく微笑んだ。
「メイマナ王女、長くお待たせしたようで申し訳ない。ご連絡下されば、早目に戻りましたのに。……一体何の御用だったのでしようか」
エルノートの言葉に、メイマナは少し恥じ入るようにしながら口を開いた。
「今朝のことを、お詫びしたかったのです」
「今朝……?」
「はい。私、王太子様に添いたいと思うあまり、随分と思い違いをしておりました」
メイマナの頬が染まる。
「しかも、“血の誓い”まで持ち出して……。あの、本当に申し訳ありませんでした」
エルノートは軽く眉を寄せた。
「……そんな事の為に、今まで?」
「だって、怒っておいでだったでしょう? どうしても、今日中に謝りたくて……」
「こんな時間になっては、明日でも変わらなかったでしょう」
「それでも、怒ったままでは、王太子様が今夜眠る時、気分が悪いのではないかと思ったのです……」
メイマナがしゅんとして小さくなるのを、エルノートは呆然と眺めた。
この時間まで待っていた理由が、王女自身の気持ちの問題でなく、エルノートの気持ちを案じての事だったからだ。
「……皆、少しの間外に出ていろ」
「え?」
突然の人払いに、侍従達はそそくさと部屋を出る。
一瞬、ついていけてなかった侍女のハルタは、エルノートの侍従が促して連れて出た。
「王太子さ……」
全員が出たのを確認したエルノートが、メイマナの腕を引いた。
肩から上掛けが落ちると同時に口付けされ、メイマナの心臓が強く跳ねる。
筋肉質な胸に密着したまま、強く求められ、嬉しいのに息苦しくて、メイマナは小さく藻掻いた。
「…………メイマナ、口付けが嫌でないなら、呼吸をしてくれ」
少し離れた唇から、乞うようなエルノートの低い声がして、メイマナは目をぎゅっと閉じたまま、真っ赤な顔で必死に息をした。
頑張って呼吸したのに、いくら待っても再び口付けして貰えないので、不思議に思ったメイマナは薄く目を開ける。
エルノートは僅かに顔を逸らして笑っていた。
「……!! 王太子様、ひどいですっ。言われた通りに呼吸しましたのに!」
更に顔を赤くするメイマナに、エルノートは笑って細めたままの目を向ける。
「すまない、あまりにも可愛くて」
「わ、私……、慣れていないのですっ」
目の前で可愛いと言われて、恥ずかしくて、胸が苦しくて、メイマナは下を向く。
「……笑ってすまなかった。もう一度、口付けしても?」
それでも嬉しくて、メイマナはそっと顔を上げて頷く。
再び重ねられた唇は、熱くて甘かった。
何度も喰まれ、頭の芯がクラクラして立っておられず、彼女はとうとう膝を折る。
そのまま二人で、柔らかな絨毯の上に座り込んだ。
共に座り込んだエルノートに、メイマナは我に返る。
王太子に膝をつかせてはいけないと、メイマナが立ち上がりかけると、エルノートがそれを制して彼女の首元に額を寄せた。
「……謝らなければいけないのは、私の方だ」
エルノートはメイマナの背を優しく抱く。
「我が国の禁止魔術を、王妃になる者が使おうとしてはいけないと
「え?」
思いがけない告白に、メイマナは錆茶色の目を瞬く。
「貴女が、それ程に私と共に在りたいと願ってくれたことが、嬉しかった」
メイマナが自分を信頼し、支えようとしてくれることが嬉しく、心が温かく満たされる。
愛しいとは、こういう気持ちだろうか。
自分がこんな気持ちを持つようになるとは、思ってもみなかった。
この感覚を、離したくない。
ふと、セルフィーネを思い出した。
セルフィーネも、こんな気持ちなのかもしれない。
長い長い孤独の先に、初めて出会った
幸せで、幸せで。
――――それを失う事が怖い。
「ずっと、お側におります。婚儀が出来なくても、“血の誓い”がなくても、他国人でも」
メイマナの声が耳をくすぐり、エルノートは顔を上げる。
「ずっと、王太子様のお側におりますわ」
柔らかな光を錆茶色の瞳に揺らし、笑窪を刻んでメイマナが微笑む。
「メイマナ王女……」
「先程のように、メイマナと呼んで下さいませ」
エルノートは彼女を優しく抱きしめる。
「メイマナ」
その低く優しい響きに、メイマナはようやく、ネイクーン王国での自分の居場所が、明確になった気がした。
風の季節後期月、一週五日。
午前の一の鐘半から、貴族院会議が再開した。
王が銀の水盆に向かって、水の精霊を呼ぶ。
しかし、今朝は水柱が立たない。
王がカウティスをチラリと見た。
カウティスは銀の水盆を見つめる。
本当は、こんな場にセルフィーネを立たせたくなかった。
それでも、今日は共に聞いてもらわなければならない。
「セルフィーネ」
カウティスの呼び掛けに、暫く間を空けてから水柱が立ち上がり、
彼女はカウティスと目を合わせず、硬質な目で、何処か遠くを見ていた。
来年以降、ネイクーンが置かれる状況について様々な意見が出る中、反第二王子の一人が口を開いた。
「昨日はまさか、あのように水の精霊様が暴走されるとは」
カウティスはそちらを軽く睨んだ。
「あのような時にも、王子は制御出来ないご樣子でした。やはり、王子の特別な加護をお返しするべきでは? 水の精霊様には、その分の魔力を、今後せめてネイクーンの利益に充てて頂きたい」
「……陛下、発言の許可を」
カウティスが王に発言権を求めた。
王が頷き、カウティスは静かに立ち上がり、一度深呼吸した。
「昨日指摘された通り、私は水の精霊の加護を得ている。だが、加護という点では、我が国に水の精霊の加護を得ておらぬ者などあろうか」
カウティスの声が大会議室に響いた。
「加護を得ているのは、カウティス王子だけでしょう」
何を言っているのかと言うように、側の貴族が見上げて言う。
カウティスはその男を見下ろした。
「……卿の領地では、ベリウム川の底より産出される鉱石で、領地収益の三割近くを
「な、何を……」
指摘された男がギョッとする。
カウティスは隣の貴族を見る。
「卿の領地には、フォグマ山から連なる山脈に鉱山があるが、水の精霊が眠っていた期間の後半には、熱波で最奥の鉱脈に潜れなかったとか」
更に、向かい側の貴族に目線を向ける。
「卿の領地の鍛冶工地帯は、年中清らかな湧き水を使えるように整備してあるはず。それらもまた、水の精霊の恩恵ではないのか」
カウティスは、円形に座る貴族院の面々を見渡す。
「卿も、卿も。誰も彼も水の精霊の恩恵を享受し、それを当然のように思っていないか。我が国の民は、一人も漏らさず、水の精霊の加護を受けている。生まれた時には水の精霊の水で洗われ、どんな時にも一度も痛んだ水を口にすることなく、魔獣さえ殆ど現れない清浄な魔力の護りの中で生きている。水の精霊が、どれ程この国を守り、恩恵を与えているか! 皆、その有り難みを忘れてはいないか!」
会議室の中が一度静まり返った。
「……だから何だと言うのですか? 今一度、有難がれと言うのですか? 水の精霊を奪われようかという、今この時に!?」
領地収益を指摘された、北部貴族の男が立ち上がるのを、カウティスが
「阿呆か。有り難いと思うのは、当然いつものことだろうが」
「カウティス」
王が顔を
「……口が悪いのは、卿も知っての通り辺境暮らしが長いせいだ。許せよ」
全く謝る気がなさそうに、カウティスが言った。
「私が言いたいのは、同じように日々恩恵を受けながら、水の精霊の危機に文句ばかり連ねていないで、自国を守る策を己の頭で考えろという事だ」
カウティスの言葉に、別の貴族院の男が尋ねる。
「自国を守る策? では、具体的に王子は何をなさるというのですか?」
カウティスは入口近くにいた文官に、正面の扉を開けるように指示する。
扉が開くと、ラードとマルク、若草色のローブを着た魔術士達が続いて入室する。
最後に魔術師長ミルガンと、書類束を抱えた文官達が入り、すぐに資料を配り始めた。
貴族達が、配られた資料を見て眉根を寄せたり、目を丸くしたりしている。
「カウティス王子、これは一体何でしょうか」
「私は、水の精霊に頼らない、ネイクーン王国の在り方を模索している。その資料だ。マルク、頼む」
マルクが頷いて、資料を掲げる。
「これは、水の精霊様が眠っておられた十四年間の各地の気温上昇、及び水源の水位の変化を数値化したものです。そして、こちらが魔術符、魔術陣の設置で補える数値になります」
会議室に紙を
「比べて頂ければ分かるように、現在の我が国の魔術レベルならば、水源が枯れさえしなければ、水量を保つことは可能です。又、気温上昇も、各領地と連携すれば抑えられる計算になります」
「各領地で連携が取れるかの確認は、南部五領、西部四領は承諾を頂いております。東部も問題はなさそうです。北部、中央はまだですが」
ラードが続けて言えば、エルノートが軽く笑う。
「まさか、国難の折に足並みを乱すことは無かろうかと思うが」
カウティスを非難していた、中央の貴族達は険しい顔をして資料を
「続けて、ベリウム川の氾濫抑制と雨量の関係だが、これは西部でも度々検証されてきた。ザクバラ国との紛争により実現には至っていなかったが、今ようやく休戦から復興に繋がっている。このまま堤防建造が進めば、水の精霊の力がなくても、西部の水害は格段に減るだろう」
カウティスは言葉を切って、会議室に集まる人々をゆっくりと見渡した。
「改めて言わせてもらう。我々は水の精霊の恩恵を享受し、それを当然のように思っていなかったか。遥か昔は、水の精霊無しには生きられなかったかもしれない。だが、今は違うはずだ。我々は我々の力で、この国を守れるはずだ」
カウティスは銀の水盆を見た。
いつの間にか、セルフィーネがこちらを見て、長いまつ毛を揺らしていた。
カウティスは彼女の瞳を見つめたまま言った。
「水の精霊は、これからもネイクーンと共にある。その力が三国に広がっても、水の精霊のネイクーンを想う心が消えるわけではない。……だからこれからは、我々が助けられてきたように、皆で水の精霊を助けてやって欲しい」
会議室はざわめいた。
貴族達は顔を見合わせたり、感心して頷く者もいたが、首を降ったり眉根を寄せて資料を眺めている者もいた。
パンパンと手を叩く音が響いた。
「辺境で復興支援中の第二王子が、ここまでの案を出したのだ。中央で国政にあたっている卿等が、文句ばかり垂れ流している場合ではないぞ」
王が、楽し気に手を
「そろそろ、建設的な話し合いを始めようではないか」
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