食べるという事

風の季節後期月、一週四日。



王城の大食堂では、セイジェ第三王子と側妃マレリィ、そして正式に王太子エルノートの婚約者となった、メイマナ王女が席に着いていた。

王は朝食の始まる時間にはここにいて、皆と挨拶を交わしたが、手早く食事を済ませて席を立った。

エルノートに至っては、食事が終わる頃になっても、少しも姿を見せなかった。




「朝食の席には、全員が集まるようにお聞きしていたのですが、王太子様はいらっしゃらないこともあるのですか?」

メイマナが口元を拭き、冷えたままの隣の席を見た。

テーブルセッティングの感じを見ても、今朝は最初から、給仕は王太子がここに来ないと分かっていたようだ。

「平時はそうですが、今朝は……」

マレリィが言葉を濁す。


一昨日の突然の竜人の来訪から、王城内は騒がしい。

国益である水の精霊の契約に関しての問題なのだから、当然だろう。


フルデルデ王国としても、メイマナの父である王配が帰国すれば、フルブレスカ魔法皇国への嘆願を正式に取り下げる予定であったのに、先に事が決まってしまった。

水の精霊は三国に分けられるのではなく、三国共有のものになるのだと聞いた。

決定されてしまったのなら、王配が帰国すれば、女王や王太子達が、今後フルデルデ王国で水の精霊を如何いかに扱うか協議し始めるだろう。


カウティスの胸でふるふると震えていた、あの可憐な魔力を思い出し、メイマナは胸が痛んだ。



「兄上はいつもこうなのです」

溜め息混じりのセイジェの声に、メイマナは考えに沈みかけていた意識を戻した。

「いつも、ですか?」

「ええ。何かしら問題が起きたり、気になる案件が出来たりすると、食事や睡眠を後回しにされるのです。体力に自信があるからなのでしょうが、あまり良い習慣とは思えません」


病がちだったセイジェには、兄二人の体力はとても羨ましいものだった。

しかし、寝食を忘れて執務に当たるエルノートは、見ていて心配になる。


「侍従の言うことは勿論、私やマレリィ様がたしなめても、どこ吹く風なのです。どなたかの言葉が、耳に入れば良いのですが……」

セイジェがチラとメイマナの顔を上目に見ると、彼女はふふと笑った。

「この後、朝のご挨拶に参ります。お食事なさるか尋ねてみますわ」

「そうして下さいませ」

マレリィが目元を和らげた。





メイマナが王太子の執務室に通されると、エルノートが椅子から立ち上がって出迎える。


朝の挨拶を交わし、二言三言言葉を交わすと、エルノートが躊躇ためらいがちに言った。

「ネイクーンへ越してきたばかりで、このような騒がしさで申し訳ない。ゆっくり話したいのですが、この後、貴族院館に出向かねばならないので……」

「いいえ、大事なお務めなのですから、私のことはお気になさらずに。すぐにおいとまいたしますから」

メイマナは微笑み、チラとソファーの方を見た。


「……ですが、お食事を抜くのはいけません」

「分かっています。後で、何か口に入れます」

メイマナの言葉に、エルノートは小さく笑って答える。

それが常の対応なのだろう、侍従達はやや諦めの表情だ。

メイマナは溜め息をついた。



ソファーの前の机には、すっかり冷めているのであろう食事が置かれたままだった。

見た感じでは手早く食べられる量ではあるが、座ってカトラリーを使わなければ食べられないものばかりだ。


メイマナは机に近付くと、食事に被せてある覆いを取り、ナプキンで手をよく清めると、侍従が戸惑っている間に、素手でパンをき始めた。

「メ、メイマナ王女殿下」

慌てて止めようとする侍従を手で制し、メイマナはフォークでサラダや肉を手早く挟んだ。

メイマナの侍女に渡されたナプキンで持ち易く包むと、あっけに取られているエルノートの元へ進み出て差し出す。


「お食事を抜くのはいけません。平時でない時ならば、尚更です。食事をする時間が惜しいと仰るなら、執務をしながらでも召し上がって下さい」

当たり前のように言って、メイマナはエルノートの手にサンドイッチを持たせた。


「メイマナ王女殿下、王太子殿下はそのような食べ方は……」

侍従が狼狽うろたえて寄ってくるので、メイマナは首を振る。

「慈善活動に重きを置かれている王太子様なら、お分かりでしょう。非常時に食事を摂ることが、如何いかに重要な事か。一杯の温かなスープが、生きる気力を奮い起こすこともあります」

軽く眉を寄せたままのエルノートを、メイマナは見据える。


「寝食は生きることの要です。決しておろそかにしてはなりません。民が助けを求めた時の為、王族には心身が健やかである義務があるのです」

メイマナのきっぱりとした言葉に、エルノートは息を呑んだ。



更にメイマナは、側で狼狽うろたえている侍従に身体を向け、背筋を伸ばす。

「そなた達も、“主はいつもこういう風だから”と慣れてしまってはいけません! 何の為の側付きですか! 主の健康に関わる事です。召し上がって頂けなかったと諦めるのではなく、何が何でも召し上がって頂くつもりで用意なさい。どうしたら召し上がって頂けるか、何であれば口にされるのか、幾らでも試行錯誤できるはずです。例えば今のように手で持って食べるものならば片手さえ空けば召し上がって頂けますし、果物のようなものならば一口で入る大きさにも出来ますから……」


突然エルノートに手を握られて、勢いに乗って喋っていたメイマナは、ドキリとした。


「そのくらいにしてやって下さい。彼等が後ろに倒れそうです」

言われて見れば、目の前のエルノートの侍従達は、メイマナの勢いに押されて完全に身体を反っている。

そっと横を向けば、エルノートが薄く笑んでいた。

「私が間違っていました。食事をします」

エルノートは、メイマナの手を引いてソファーに向かいながら、文官達に書類をまとめておくよう指示を出す。

文官達は喜んで仕事に取り掛かった。




「あ、あの、申し訳ありません、余計なことを喋りすぎました……」

手を引かれ、何故かソファーにエスコートされたメイマナが、顔を赤くして言う。


エルノートの顔色があまり良くなかったので、つい口を出したのだが、調子に乗って多くを喋り過ぎた。

メイマナの背に、冷や汗が滲む。

まだネイクーンへ来て少しなのに、エルノートの侍従まで叱り飛ばしてしまった。


残念ながら今はまだ、婚約者という肩書の他国人だというのに。



「いいえ。貴女は間違っていません」

向かい側に座ったエルノートが首を振った。

「……恥ずかしながら、私は、食べることが苦手なのです」

「…………苦手、ですか?」

躊躇ためらいがちに言ったエルノートの言葉の意味が分からず、メイマナは問い返す。

エルノートは、渡されていたサンドイッチを一口かじった。

「生きる為に必要だから食べる、という認識です。『お腹いっぱい食べたい』、『美味しい物を食べたい』という欲求が、……正直、良く分かりません」


食べる事が好きなメイマナにとっては、それは衝撃の告白だった。

それが顔に出ていたのだろう。

エルノートは申し訳なさそうに、軽く顔をしかめた。


唯一気に入って飲み続けていたお茶は、毒を盛られた記憶によって汚された。

安らげる気持ちだったお茶の時間は、今はもうない。

食べては、夜中に夢を見て吐くことが続いた頃から、食事の時間は、更にうとましい時間になってしまった。


「それで、つい食事を後回しにしてしまいがちでした……。しかし、間違っていました。食べることも、王族の義務でした」

エルノートは真剣だ。

「そなた達も、心配を掛けてすまなかった。これからは出来るだけ、食事を摂るように心掛けよう」

側で温かいお茶を入れている侍従に、そう声を掛ける。

しかし、食事を“義務”だと言う王太子に、侍従達も何ともいえない顔をした。


メイマナも又、何処か噛み合わない感じに、胸がモヤモヤとする。


「……子供の頃からなのですか?」

「どうでしょう。……幼い頃はそれなりに好きな物もあったように思いますが」

記憶を手繰るエルノートの側で、普段口を開かない年嵩の侍従が言った。

「……王太子として、13歳で任命された頃からです」


未成人の王太子が立ったと、当時フルデルデ王国にも聞こえてきた。

では、その頃から重責に耐えてきた結果が、この食に対する不振なのだろうか。




どう改善していけば良いのだろう。

どうすれば、何処か不安定な彼をもっと安らかにさせる事が出来るのだろう。

彼をもっと助けたい……。

メイマナが考えに沈みそうになった時、エルノートが思わぬ事を言った。


「今日の昼にも公になるでしょうが、昨日、皇帝が崩御されました」

「…………え?」

「今朝方、確認したので、間違いありません」

皇国で次々に弔旗が上がっているそうだ。

「慣例通りなら、喪中の祝事祭典は禁止となる。私達の婚儀は、喪が明けるまで待たねばならないでしょう」


メイマナは目を見張り、ふっくりとした手をぎゅっと組んだ。

たった今、彼をもっと助けたいと思ったところなのに、当分はまだ客分扱いの婚約者で在らねばならないとは。



「……嫌でございます」

ちょうどサンドイッチを食べ終わったエルノートが、怪訝けげんそうな表情でメイマナを見た。


ふっくりとした唇を引き結ぶメイマナに、エルノートは言い聞かせるように言う。

「お気持ちは分かりますが、不幸事では仕方がありません。婚約式の後であったのがまだ救いです。こうして、婚約者として共にいられます」

「それでも、真にネイクーン王族ではありません。肝心なところでは、客分扱いの他国人です。それでは、貴方に添えないではありませんか」


一度自覚した欲を抑えるのは困難だ。

この人の側にいたいと、支えになる者で在りたいと願って全力で走ったのに、ここに来てお預けなどと、有り得ない。


「メイマナ王女」

気遣うように名を呼ぶエルノートに、メイマナは首を振る。

「私は、貴方にもっと添いたいのです。貴方の支えになりたいのに」



メイマナは決意して顔を上げる。

「婚儀が出来ないなら、“血の誓い”を致します」




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