静と動
セルフィーネはベリウム川の静かな流れを見ながら、上空にいた。
星の瞬く空に、今夜も丸い月が浮かんでいる。
その青白い光を受けながら、セルフィーネはぼんやりと自分の身体の事を考える。
姿を消している今は、何の違和感もない。
だが、姿を現そうとすると、以前の
なぜ、
変化後に感じていた、左手首の僅かな重みを今は感じない。
あの美しい飴色のバングルが、もうこの手首にはないからだ。
竜人ハドシュに踏み付けられ、固く乾いた音を立てたバングル。
どんなことになったのか目にはしていないが、きっと、壊れてしまったのだ。
カウティスからの贈り物を失って、胸が痛い。
そして、所詮精霊のお前には、進化は無理なのだと言われているようで、苦しかった。
ふと、川原に小さな光が見えた。
村から少し南へ行った辺りに、誰かがランプを持って、川原に下りて来ている。
それがカウティスだと確信して、セルフィーネは小さく胸躍らせて川辺に降りた。
カウティスは川辺へ向かって歩く。
川辺に近付くと、カウティスが呼ぶ前に水面から水柱が立ち、光を集めるようにして、淡く輝くセルフィーネが姿を現した。
「セルフィーネ」
カウティスが手を伸ばすと、彼女はその手を取る。
「早朝鍛練には、随分と早いようだ」
「鍛練に来たんじゃない。早く目が覚めてしまったのだ。……ちゃんと眠ったのだから、会いに来たって良いだろう?」
昨夜はあの後、大人しく寝台に横になった。
眠れないかと思っていたが、自分が思っていた以上に疲れていたようで、あっという間に眠りに入っていた。
だが、普段よりも随分と早く目が覚めてしまったのだ。
すっかり目が冴えて、もう眠れる気がしなかったし、ラードはまだ隣の寝台で眠っていたので、こっそり一人で出て来た。
また後で小言を言われるかもしれないが、それは覚悟の上だ。
カウティスはもう一歩近付くと、セルフィーネの頬に掌を添える。
姿が変化してまだ十日程だったのに、この姿に触れていたのが、ずっと昔に感じる。
「……会いたかった」
カウティスの口から出た言葉に、セルフィーネの胸が疼く。
カウティスの胸にそっと添えば、彼はランプを持っていない方の右手で背中を抱いてくれる。
それだけで、セルフィーネは満たされた気持ちになった。
「そなたを守れなかった……すまない。あの時もっと早く着いていれば……」
カウティスは悔しさを滲ませる。
「カウティスはいつも私を守ってくれている。今回だって私の為に、そなたは……」
『 水の精霊よ。お前のせいで、カウティス王子は酷く傷付くことになるだろう 』
セルフィーネの頭に、夢で聞いたイスタークの声が響く。
彼女はビクリとして、カウティスから離れた。
「セルフィーネ?」
セルフィーネは黙ったまま眉を寄せ、カウティスの身体を見回す。
顔や手首、首筋、今素肌が見えているところだけでも、擦り傷や手当された跡が幾つも見える。
竜人に蹴られて地面に落ちたりしたのだから、服で見えない所にも、打ち身や傷があるはずだ。
「…………カウティスが傷付いたのは、私のせいだ」
「違う。剣を握っていれば、この程度の怪我はよくある事だ。俺は傷付いたりなどしてない」
セルフィーネは首を振る。
水色の長い髪が、サラサラとカウティスの腕の上を流れる間に、セルフィーネの手が添えられた胸から温かいものが流れて、身体中の傷がすっかり癒えてしまった。
強く地面に打ち付けて、鈍い痛みを持っていた腰も、全く痛みがない。
「セルフィーネ、神聖力は……」
何故か俯いて小さくなっているセルフィーネに、カウティスは胸が痛む。
彼女の姿を見ていたら、
「……楽になったよ。ありがとう」
そう言うと、少し安心したように、彼女はほっと息を吐いた。
「そなたは痛むところはないのか?」
「……バングルを、失くしてしまった。カウティスが贈ってくれたのに」
セルフィーネは白い左手首を
「ごめんなさい……」
痛むところはないかと聞いたのに、バングルを失ったことを謝られ、カウティスはぐっと奥歯を噛む。
セルフィーネが傷付いている。
あの無残な
カウティスはセルフィーネを抱きしめた。
ハルミアンは、水の精霊の様子を見に川原へ向かう途中、川原から離れた木の陰で、ラードがカウティスを見守っているのを見つけて声を掛けた。
「王子はまた脱走?」
「わっ! ハルミアン、お前か。驚かすなよ」
自分も気配を殺して見守っているくせに、とハルミアンは口を尖らせた。
「マルクは?」
ラードが、カウティスの方へ視線をやって聞く。
「まだぐっすりだよ。君達とは基礎体力が違うんだから、ヘトヘトなんだよ」
「お前は?」
ハルミアンはキョトンとして、目を瞬く。
「……僕は魔力消費が多くて疲れたけど……。何、何? 心配してくれてるの?」
ハルミアンが何故か嬉しそうにバシバシと腕を叩くので、ラードは顔を
「うるさいっ。バレるから静かにしろ」
ハイハイと軽く返事をしながらも、ハルミアンは笑っていた。
「……水の精霊様は、また元の姿に戻るのか?」
ラードがポツリと呟くように聞く。
「実体に近付くのかってこと? 僕にも分からないよ。こんなのは初めての事だもの」
ハルミアンは形の良い唇を歪める。
ラードは、暗い川辺で、一人立っているように見えるカウティスを眺めた。
触れることも出来なかった水の精霊を、ずっと想い続けてきた王子だ。
今また、以前の水の精霊の姿に戻ったからといって、その想いが変わらないことは分かっている。
だがこの十日程で、二人のあれ程幸せそうな姿を見てしまっては、変化が後退するのは酷な事のように思えてしまうのだ。
「でも、足踏みしてる暇はないよね。こうなったら、強引にでも進化を早めるべきだ」
さっきまでの調子と変わり、真剣な様子で口を開くハルミアンに、ラードは眉を寄せた。
「強引にでも? 何故だ?」
「セルフィーネの契約魔法陣に、亀裂が入っていたからさ」
使い魔で、契約魔法陣を空から見た時に気付いた。
ハルミアンは、深緑の瞳をキラキラと輝かせる。
「水の精霊が、契約の精霊とは別のものに変わろうとしていて、契約自体が破綻しかけている。契約更新の年明けまでに、もしセルフィーネが進化を遂げたら……」
魔術や魔法の事はからっきしなラードが、難しい顔をしながらも口を開いた。
「…………契約更新はなくなる?」
「そういうこと!」
ハルミアンは、良く出来ましたという様に大きく頷いた。
風の季節後期月、一週四日。
フルブレスカ魔法皇国の王宮では、日の出の鐘と共に、皇帝の崩御を示す、黒色の巨大な弔旗が掲げられた。
続けて各所に同様の旗が掲げられ、皇国が黒色の旗で埋められていく。
同時に、皇国に常駐している従属国の大使達が、公式に自国へ皇帝の崩御を知らせる使者を走らせた。
今後、使者の通過に合わせて、街道沿いの各街町で、弔旗が上がっていく。
数日の内には、大陸中の殆どの国が、黒色の弔旗で覆い尽くされるだろう。
竜人シュガは、貴族院での午前の会議に向かう為、貴族院中央棟へ向かっていた。
渡廊を進んで行くと、黒尽くめの男が待っている事に気付いた。
ザクバラ国のリィドウォルだ。
彼は文官服の上に、旅装の黒いローブを纏っていた。
シュガの姿を認めると立礼する。
「お別れのご挨拶に参りました」
緩く癖のある黒髪が揺れた。
「ザクバラへ戻るか」
シュガが間近まで寄って、深紅の瞳で彼を見下ろした。
「はい。水の精霊の契約を見届けましたので、成すべき事を成しに戻りたいと思います」
頭を上げたリィドウォルの表情は静かだ。
「念願叶ったか?」
「……いえ、全てはこれからです」
シュガは、既に決意を固めている様子のリィドウォルを暫く見下ろしていた。
いっそ執着と言って良い程の熱で、水の精霊を欲し続けていた彼に、なぜそれ程水の精霊が欲しいのかと尋ねたことがある。
リィドウォルは、水の精霊によって、ザクバラ国を洗い流したいのだと答えた。
それでは、と
「お主は本気で、ネイクーンの水の精霊が神聖力を持っていると思っているのか?」
先日ネイクーンの西部で水の精霊の腕を取った時、確かに魔力の質が変わっていると感じた。
しかし、あれ程に竦み、怯えきった水の精霊が、神聖力を持っているようには思えなかった。
リィドウォルは肩越しに振り返った。
「私はそう確信しております。……しかし、もし神聖力を持っていなかったとしても、あの精霊の魔力は、我が国を清めることができるでしょう」
彼は確信に満ちた声で言った。
停戦前、先の見えない紛争の日々。
ネイクーン王国の領土に踏み込む度に見た、あの美しい空。
その地に留まっている間に感じる、清らかな魔力。
あの
どうしても。
そしてきっと、我が国は遠い過去の遺恨を断ち切り、有るべきザクバラ国の姿に立ち戻れるだろう。
そして、全ての詛を解き、自由になる。
リィドウォルは目礼し、歩いて行く。
彼はこの日、フルブレスカ魔法皇国を去り、二度とこの地を踏むことはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます