抵抗 (後編)

「待て!」

突然、空から声が降ってきた。


臙脂色の鳥がピィーッと高く空気を裂く声を上げて、セルフィーネを庇うように魔法陣に舞い降りる。




鳥が嘴を大きく開いて叫ぶ。

「水の精霊を造り変えたのをとがのように言うが、貸与したまま現在まで放置したのは竜人族のあやまちだろう!」

「使い魔? エルフか」

ハドシュがピクリと眉を動かした。


村に繋がる街道から、ハルミアンが馬を駆けて来て滑り降りた。

同時に臙脂色の鳥が、金の粉を散らすように姿を消す。

「契約更新はあるじの権限とはいえ、数百年も共に在り、ネイクーン王国の国益となった水の精霊を、前触れ無く取り上げるのは如何なものか。宗主国の導く秩序ある世界の在り方とは程遠いと思わないか」


ハルミアンは混乱する場を、堂々と横切り、ハドシュを一瞥いちべつしてシュガの前に立った。

「……どうせよと?」

シュガが深紅の瞳を細めて、ハルミアンを見遣る。


猶予ゆうよを。ネイクーン王国の人間が、水の精霊の護りを失う、心構えをするだけの時間を」

カウティスが驚愕に目を見張る。


シュガとハルミアンは僅かの間、対峙した。




「良いだろう。但し、待てるのは今年いっぱいだ。年明けより水の精霊は新たな契約に縛られる。第二王子よ。それまでにネイクーン王族は、もう水の精霊が貴国の便利な道具ではないと、国内に周知すると良い」

シュガが一つ頷いて言った。


「っ……ふっ、ざけるなっ……!」


カウティスが唸り、身体を持ち上げようと両足に力を込める。

地面に足裏がめり込み、こめかみに血管が浮く。

あまりの怒りに血が沸き、視界が焼けた。

「ほう? あの圧の下で、立つのか」

感心したように、シュガが僅かに笑った。


「セルフィーネは、道具ではない! お前達の思うようにっ……させるものかっ!」

カウティスは折れて近くの地面に立っていた剣身を、右手で掴んで引き抜いた。


そのまま踏み出そうとした途端、横からハドシュの太い足に蹴り飛ばされる。

受け身を取れず、カウティスは背中から固い地面に落ちて、息が止まりそうになった。


「がっ、……は……っ」


地面の上で喘いだカウティスを見て、セルフィーネが震える唇を開く。

「…………契約を」

彼女は消え入るような声を発した。

「……契約を、受け……入れる……」


だから、もうやめて。

その言葉は続けられず、揺れる瞳から涙が溢れた。



涙を流す水の精霊を、ハドシュは深紅の瞳で見下ろした。

抑えたはずの苛立ちが再び湧き上がりそうになるのは何故なのか。


「……新たな契約は、来季光の季節初日の日付変更より履行りこうされる。その時より、お前のあるじは私、唯一人。三国の水源を枯らすこと、定められた国境より外へ出ることは禁じる。この事項を破れば、お前は消滅する」

ハドシュが両手を前にかざす。

セルフィーネの下に描かれた魔力の線が脈を打ち、眩しい光を帯びた。


「やめろ―――――っ!」


カウティスの叫びは光に呑まれた。





セルフィーネの下にあった、契約魔法陣は消えた。

契約締結を見届け、ハドシュはセルフィーネから視線を大きく逸らし、踵を返す。

シュガとハルミアンの所まで戻ると、忌々しいという様に二人を見た。


〘 お前の思惑通りか? 〙

通り過ぎざまにハドシュが言った。

〘 おおむねはな。これから兄者の尻拭いが待っている 〙

小さく笑うシュガの言葉に表情は変えず、しかし、不満気にフンと鼻を鳴らして、ハドシュは魔獣の方へ戻る。


ハドシュを目で見送り、シュガはハルミアンを見遣った。

深紅の瞳を興味有り気に細める。

「個人で人間の国の先行きをおもんばかるとは、毛色の違うエルフがいたものだな」

ハルミアンは整った顔で、美しく冷やかに笑む。

「国じゃなくて、個人だよ。まあ、人間の世界の均衡を図ろうとする竜人がいるくらいだ。どの種族にも、変わり者はいるということさ」

「違いない。騒がせた責として、ネイクーン王家へ契約更新の件は知らせておいてやろう。せいぜい、第二王子が荒れぬよう、面倒を見てやるのだな」

シュガが笑って肩を揺らし、魔法陣のあった方を顎でしゃくった。




カウティスは圧力から開放されて、地面を掻いて咳き込む。

咳が収まる前に地面を蹴って、セルフィーネに駆け寄った。


「セルフィーネ!」

魔法陣が消えた地面の上に、セルフィーネは痛々しく横たわっていた。

美しい絹糸の髪はもつれ、いっそ青白くも見える陶器の肌は土にまみれ、擦り傷だらけだった。

胸の中心は深く抉られ、滑らかな頬には太い爪で裂かれた残痕ざんこんがある。


カウティスは彼女を抱き上げようとしたが、手はその身体を擦り抜ける。

言い様のない歯痒さと痛みに、身がよじれる気がした。

「っ……、ハルミアンを!」

側に寄ったラードに指示し、カウティスは砂まみれのローブの端を掴み、セルフィーネの身体を隠すように広げた。

それしか、今してやれる事がなかった。


「……カウ……ティス」

四肢を投げ出したままのセルフィーネが、うっすら目を開けた。

カウティスは彼女に顔を近付ける。

「セルフィーネ、俺はここにいる」

「……会いたかっ……た」

セルフィーネの瞳から、また一筋涙が流れた。

カウティスは、息が詰まりそうになりながら声を掛ける。

「ここにいる。ハルミアンがもうすぐ来るから」

言って、土で汚れた指で頬をなぞる。

涙を拭いてやる事すら出来ない自分が、苦しく、情けなかった。


ようやく走って来たマルクが、緑のローブを脱いで、カウティスの向かい側を覆い隠した。

カウティスが顔を上げると、マルクの肩越しに、竜人の方から走って来るハルミアンとラードが見える。



その向こうに、炎のたてがみを持った魔獣に跨り、幅広の橋を渡ってザクバラ側に戻るハドシュの姿が見えた。

そして、更に向こうには、黒髪と黒いローブを風に揺らしながら、立っている男がいる。


距離があるのに、その男が誰なのかひと目で分かった。

熱の籠もった黒い瞳をギラつかせ、食い入るようにこちらを見ている。

彼がザクバラ側から竜人を手引きしたのだ。

「リィドウォルッ!」

カウティスは、ギリと音が聞こえる程歯軋りした。



「……カウティス」

セルフィーネに小さく呼ばれて、カウティスは怒りを抑え込んで下を向く。


セルフィーネは腕を上げて、ローブの端を持っているカウティスの右手に、細い指を添えていた。

折れた剣身を掴んで抜いたカウティスの右手は、魔獣の皮手袋に守られている掌は良いが、剥き出しの指は深い切創せっそうが出来て、握ったローブを血で濡らしていた。

それがセルフィーネのひと撫でで、綺麗に塞がる。

「騎士が……利き手、を……痛めては……」

セルフィーネはうわ言のように言って、目を閉じた。

「セルフィーネ!」


「今のは、何?」

走って来たハルミアンが、立ったまま目を見張る。


「ハルミアン、今は……」

マルクに呼ばれて、ハルミアンはハッとする。

ぷると小さく頭を振って、セルフィーネの側に膝をつくと、少しも重さを感じないように彼女を抱き上げた。

「マルク、ローブを貸して」

カウティスのローブと見比べて、綺麗なマルクの方を選ぶと、自分の肩から掛けてセルフィーネの傷だらけの姿を隠した。




カウティスは、震える息を吐いた。

ハルミアンに抱き上げられた、セルフィーネの無残な姿に、胸が苦しくて騎士服の胸を掴む。


竜人達の傲岸不遜な振る舞い。

強引なやり方で更新された契約魔法。

水の精霊の契約更新を、忌まわしい視線で黙って見ていたリィドウォル。


何もかもが、憎かった。


心臓の音が、ザクザクと耳に脈打つ。

ドロドロとした熱く黒い物が、身体の奥底から這い上がって来るようで、昏い気配に呑まれそうになる。


「王子!」

ラードに突然肩を揺すられて、カウティスはビクリと身体を震わせた。

はっ、はっ、と浅く早い息を繰り返す。

ラードの姿が側にあるのに、昏い気配に視界が歪む。



憎い。

許せない。

……何故セルフィーネがこんな思いを。



身体の内から這い上がって来た物が、喉元に迫り上がった。



――――パシャ


顔に冷たい水が掛けられて、カウティスは我に返った。

今朝、泉の庭園でセルフィーネに水を掛けられた時の事が、唐突に彼の頭に甦る。


セルフィーネが目を覚ましたのかと目を瞬くが、彼女はハルミアンに抱かれたまま、マントを被っていた。


目の前には、マルクがカウティスに向けて、金の指輪をはめた手をかざしていた。

その指先から水が滴り落ちる。

水はマルクの水魔術で掛けられたのだ。


「しっかりなさって下さい、カウティス王子。水の精霊様は、王子に会いたくて頑張ったんです。竜人相手に、物凄く頑張ったんですよ!」

マルクが顔を歪ませて手を下ろす。

カウティスは大きく息を吸った。

昏い気配が小さくなっていく。



太陽は赤い光を放ち終え、空は徐々に薄暗くなってきた。


しっかりしろ!


自分で自分を叱咤しったして、カウティスは立ち上がる。

腹立たしい思いを押し隠し、呼吸を整える。

混乱しきっているこの場に、いつまでもセルフィーネを置いておけない。

完全に暗くなる前に移動しなければならない。

「……落ち着いて休ませる場所が必要だ。ひとまず、イサイ村に行こう」


ようやくまともな指示を出したカウティスに、ラードが安堵して動き始めた。




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