抵抗 (前編)

払われたセルフィーネが、ハドシュの手から離れて勢い良く地面に滑り落ちた。

力無く垂れ下がっていた腕が、地面に強く打ち付けられる。

はずみでバングルが左腕から外れ、一度跳ねて、軽やかに地面を転がった。


咄嗟とっさに手を伸ばしたセルフィーネの指の向こうを、鈍い飴色に輝きながら転がり、バングルは契約魔法陣の外で揺れて止まった。

手の届かない所に行ってしまったバングルを、セルフィーネは一瞬、眉根を寄せて切な気に見た。

  




セルフィーネが土の上で上半身を起こす。

「……切り……分けられるのは、いや。どうか、……分けないで欲しい……」

震える声で懇願する水の精霊を見て、ハドシュが強く眉を寄せた。

「……今のは何だ。お前は何だ」

ハドシュは払った自分の右手を見てから、魔法陣の中で上半身を起こしたセルフィーネの方を向く。


彼女の上半身を支える細い腕は、ひどく震えている。

薄紫の滲んだ水色の髪は乱れ、華奢な身体は土で汚れて傷付き、胸と白い頬には爪でえぐれた無残な傷がある。


「一体、何なのだ?」

困惑するハドシュを、セルフィーネは下から上目に見て震えながら言った。


「私は、ネイクーン王国の水の精霊だ」



ハドシュはのっぺりとした顔の上で、ピクリと眉を動かした。

そうだ、は確かに水の精霊だ。

契約魔法で召喚され、魔法陣から指一本出すことが出来ない。

まともに顔すら上げられないではないか。

見上げる目は怯え、神聖力など微塵も感じない。

醜悪に造り変えられていたとしても、紛れもなく契約に縛られた水の精霊なのだ。


その事実に思い至り、ハドシュは徐々に落ち着きを取り戻した。

「お前が南方三国に与えられる事は、既に決定した事だ」

再び左手に魔力を纏わせ、セルフィーネに手を伸ばす。



ハドシュの言葉に、セルフィーネは尚も震えた。

このまま切り分けられるわけにはいかない。

切り分けられれば、それは“私”ではなくなってしまう。

震えながら、彼女は両拳を握った。


痛いのも苦しいのも構わない。

この姿が壊れてもいい。

何だって受け入れる。


でも、カウティスを忘れるのだけは、いや。

我慢できない。

忘れたくない。

どうしても。


セルフィーネは身体の震えを抑えられないまま、それでもグイと顎を上げる。

「それならば、……このまま、三国を守る」

セルフィーネはハドシュを睨んだ。

それが彼女に出来る精一杯の抵抗だった。

「私は、私のままで、三国の水源を守る。だから、分けないで」




「はっ、……は……はははははっ!」

ハドシュが突然笑い始めた。

のっぺりした白い顔が不自然に歪み、笑っているのに怒りに満ちた気配が周囲に広がる。


ハドシュの注意が逸れたので、何とか近寄ろうとしていたマルクは、その怒りの気配とおぞましい魔力の圧に、その場に縛られた。


ハドシュは魔力を帯びた右手で、セルフィーネの髪を力任せに掴んだ。

「ああっ」

勢い良く後ろに引かれて仰け反り、喉元がさらされる。

「竜人に意見するとは愚かしい。お前は精霊だ」

夕の光を放ち始めた太陽の赤が、彼女の白い肌を染めた。

ハドシュの深紅の瞳が怒りに満ちる。

「ただの精霊だっ!」

喉元に厚く鋭い爪が向けられた。




「やめろーっっ!!」



疾風のように黒い影が滑り込み、今正にセルフィーネの喉元に迫っていたハドシュの爪を跳ね上げた。


ギィィンと金属がぶつかる耳障りな音が響いて、折れた長剣の剣身が回転して地面に突き立つ。

同時に下から突き上げるような当て身を食らい、ハドシュはバランスを崩してセルフィーネの髪から手を離した。


「カウティス王子!」

地面につくばったマルクが叫ぶ。


旅装のローブを跳ね上げて契約魔法陣の前に立ちふさがり、息荒くこちらを睨み上げる青年に、ハドシュはギチと牙を鳴らす。

「カウティス……第二王子か!」

水の精霊に深く関わっていると聞く、ネイクーン王国の黒髪の王子。


ハドシュの喉奥から、何故か苛立ちが迫り上がった。



拘束が解かれ、地面に崩れ落ちたセルフィーネは、見上げる側に人の影を見た。

赤い逆光で、その姿ははっきりと見えなかったが、言い様のない安堵感が溢れ、彼女は呟いた。


「…………カウティス」


全速で馬を駆け、遠目から見た光景に血を沸騰させてこの場に滑り込んだカウティスは、消え入るようなセルフィーネの声に、竜人と向き合ったまま、肩越しに僅かに視線を向けた。


カウティスの喉から、ひゅっと小さく音がした。


今、間近にセルフィーネの姿を見て、カウティスの中で何かが切れた。




足元の地面を荒々しく蹴って、カウティスはハドシュの前に飛び込み、剣身の折れた長剣を下から振り抜く。

僅かに反って避けた、ハドシュの長い肩布が鋭く裂けた。

もう一歩踏み込み、ひるがえした剣を上から切り下ろすと、ハドシュの厚い爪が剣身を受け止める。


間近に迫ったのカウティスの目が、怒りに燃え上っていた。

開いた口から怒気と共に咆哮ほうこうが吐かれる。

「うああああ―――っ!!」


ギャリッと不快な音を響かせて、カウティスが剣を捻り上げた。

折れた剣の刃が更にこぼれると同時に、ハドシュの爪先が折れて飛ぶ。

押されてハドシュが一歩下がった。

同時に、更に一歩踏み込んだカウティスが、躊躇ためらいなくハドシュの喉元に剣を突き立てた。


剣は竜人の皮膚を通らなかった。

しかし、ビシと硬質の白い鱗が割れる。


間近で払ったハドシュの太い腕で、カウティスの手から折れた長剣が飛び、彼の身体は数歩分飛ばされた。

「王子!」

遅れて走り込んで来たラードが、カウティスの背中を全身で受けて、共に固い地面に転がった。




ハドシュは目の前の出来事が信じられずに、深紅の目を見張る。

人間は下位の生物。

それが、自分を凌駕りょうがする動きで迫り、今この身体に傷を付けた。

あの剣が折れていなければ、突き立ったかもしれなかった。


『 この大陸を覆い尽くし、全てを動かし始めているのは人間だ。人間は竜人の力無しで、どんどん進化しているではないか 』


シュガの言葉が甦り、ハドシュは噴き上がる怒りに任せて叫んだ。


〘 認めんっ! 認めんぞっ! 〙


ハドシュの右腕に突如として炎が舞い上がる。


〘 下等な人間め! 〙


炎は竜巻のようにうねり、熱風を巻き起こしてカウティスに向かった。

熱風に煽られながら、ラードがカウティスの身体に覆い被さる。



助けなければ。


セルフィーネは地面に横たわったまま、白い腕を伸ばした。


全て無くしても、カウティスだけは……。




「やり過ぎだ、兄者」

突然、何処からか、煙が集まるように目の前に姿を現した竜人が、セルフィーネの腕を取った。

反対の腕を伸ばし、突き出した掌を握ると、炎の竜巻がカウティス達の頭上で瞬時に消え去った。



〘 シュガ! 〙

炎の魔法を打ち消されたハドシュが、怒り冷めやらぬまま牙を剥いた。

癇癪かんしゃくを起こして、事を大きくするのはやめてくれ。兄者が先走ったせいで事が早まった。これ以上は許さん」

シュガは人間のように、表情に不快感を表し、筋肉質な身体を揺らして大きく溜め息をついた。

セルフィーネの腕を離し、ちらりと彼女の姿を見た。

そして、ハドシュに歩み寄る。


〘 許さんだと? 誰に向かって言っている! 〙

吠えるハドシュに、シュガは冷静に返した。

〘 兄者にだ。言ったろう、現実を見ろと。兄者が任されたのは、第三首から水の精霊の契約更新だけだ。私は皇国の管理を第二首に任されている。今ここでネイクーンの王子を殺すのは、悪手だ 〙

始祖円卓様を引き合いに出され、ハドシュは怒りと言葉を飲み込む。

猛る怒りを抑え込む程に、彼は序列に従順だった。



シュガがセルフィーネを振り返ると、彼女を守るように、魔法陣の前にはカウティスが立っていた。

魔法陣は透明な壁でもあるかのようにカウティスを阻み、セルフィーネの側には寄れなかった。

カウティスの手に武器はなかったが、怒りに満ちた目が、どんなことになろうとも竜人の力に屈するつもりはないと主張してる。


「カウティス第二王子。私はフルブレスカ魔法皇国、貴族院参与のシュガだ」

シュガが懐から、皇国の身分証である牌を出してかざす。

「この騒動の責任を負わねばならぬのは重々承知。後日如何なる抗議も受けよう。だが今は先ず、皇国の決定を以て、水の精霊のあるじである第三首ヤシュトラの命により契約更新を行う」


カウティスの顔が歪む。

「何を勝手な事を!」

「勝手な事とは、貸与した水の精霊を造り変えた貴国のことか」

シュガは淡々と言い募る。

「そもそも水の精霊に関する決定権は、ネイクーン王国、ひいてはその第二王子にはない」


動こうとした途端、シュガの爪の一振りで、カウティスは地面に縫い付けられた。

上から強大な力に押されるように、膝をついて項垂れる。

「ぐっ……」

地面に伏せないよう踏ん張るのが精一杯だった。

側にいたラードも同様に、四肢を地面について細かく震えている。


「カウティス」

セルフィーネが切なく白い指を伸ばすが、魔法陣の外へは爪の先程も出せなかった。



無表情に戻ったハドシュが、それでも僅かな怒りを滲ませてカウティスの横を通る。

ハドシュの足が、転がっていた木製のバングルを踏み、バリと音を立てた。

魔法陣の際に立ち、呆然とハドシュの足元を見ているセルフィーネを見下ろす。


「水の精霊よ。第三首ヤシュトラの契約を引き継ぎ、私がお前の契約を更新する。……切り分ける代わりに、そのまま三国を守ると言ったな」

ハドシュの言葉に、カウティスが目を見張り、セルフィーネは僅かに目を伏せる。

「…………言った」

「……良いだろう。その身体魔力を刻む代わりに、お前に三国の水源を守る役割を与える。ザクバラ国、フルデルデ王国の既存の水の精霊を取り込むことは許さん。その身体魔力一つで三国を支えるのだ」

ハドシュが深紅の瞳をギラリと光らせた。



「やめ、ろっ……!」

カウティスが脂汗を流して、ハドシュの足に手を伸ばす。

届かない手を、ハドシュはのっぺりとした無表情の顔で見下した。

そして、カウティスに聞かせるように言う。


「三国に在る間、仮のあるじは置かぬ。今よりお前のあるじはこの私、唯一人。三国の水源を枯らすこと、定められた国境より外へ出ることは禁じる」


セルフィーネは、長いまつ毛を揺らして目を伏せ、薄い唇を僅かに震わせた。





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