勇気
マルクは建物を飛び出した。
夕の鐘が鳴る前の、まだ明るい空を睨む。
ハルミアンは、水の精霊が契約魔法陣で召喚されたと言った。
水の精霊はネイクーン王国から出られない。
王国内で竜人族が召喚魔法を使ったなら、大きな魔力が動くはずだ。
太陽の光で輝く空に、水色と薄紫色の美しい魔力の層が見えた。
ここよりも北のそう遠くない上空で、水の精霊の魔力が
その場所に近い所で、強い魔力が波打つのを感じた。
「イサイ村の方だ」
気付けばハルミアンが隣に立って、右手に使い魔を現していた。
「王子が近くまで戻ってるはずだ。僕が知らせる! マルクは先にセルフィーネの所へ行って!」
ハルミアンは腕を振って、臙脂色の鳥を空へ飛ばす。
鳥は力強く二度羽ばたき、長い赤銅色の尾羽根をなびかせて東へ飛んだ。
マルクは厩舎へ走り、乗り慣れた馬を引くと、素早く身体強化の火の魔術をかけた。
「ごめん、ちょっと大変だろうけど頼むよ!」
言って緑のローブを
セルフィーネは、抗えない強い力に掴まれた。
押し潰されそうな圧迫感の後、引き千切られるかと思う程引かれて、遥か昔の痛みを思い出し、必死に抵抗する。
――――痛い。
そう思った瞬間、遥か昔ではなく、今自分が地面に落とされたのだと気付く。
横向きに投げ出され、混乱する頭のまま、ぼんやりと目を開けた。
拠点で聞くよりも近くで、夕の鐘が鳴るのが聞こえ、我に返って目を瞬く。
マルク達と拠点にいた時から、四半刻程経っている。
爪で掻いた地面に、魔力波打つ線が細かく走っているのが見えて、
身体の下に広がる紋様は、自分が縛られている契約魔法陣だ。
セルフィーネは、契約魔法陣によって召喚されたのだと理解し、震えた。
「召喚に抵抗があると思えば…………これはまた、何と醜悪な物に造り変えられたものか」
頭上から、聞き覚えのある重厚な声が降ってきて、セルフィーネはギクリと身体を強張らせた。
自然と息が浅くなる。
足先から這い上がってくる震えに堪えながら、僅かに地面から顔を上げた。
目の前には、竜人ハドシュが立っていた。
のっぺりと白い肌には、所々に硬質な鱗が浮き、白茶色の長い髪は、重く揺れる。
筋肉質な腕を組み、第二関節から厚く突き出た爪が、苛立ちと共に腕を叩く。
血を流し込んだような深紅の瞳が見下ろしていて、その目を見た途端に、セルフィーネは動けなくなった。
自分の身体を手に入れたというのに、
紫水晶の瞳は光を弱くし、薄く桃色を帯びていた肌は生気を失い、白く滑らかな陶器のようになった。
ハドシュが魔法陣の側まで近付き、大きな右手を伸ばすが、尖った固い爪はセルフィーネの顎を通り抜ける。
ハドシュがピクリと眉を動かした。
「……何処にいる? 人間界……、妖精界か?」
彼が竜人語で何かを呟くと、大きな右手がセルフィーネの身体と同じように、淡く光を帯びる。
再びセルフィーネの顎に手を掛ければ、彼女の細い顎は難なく彼の指に囚われ、柔らかい頬に固い爪が刺さった。
「っ……」
「痛覚もあるのか?……お前は、何だ。一体何故こんなに変えられてしまった?」
声に不快感と困惑が滲む。
ハドシュはそのまま腕を上げ、セルフィーネを持ち上げた。
顎を掴まれたまま持ち上げられ、為す術もなく震える足で立ち上がる。
掴んだ腕から、セルフィーネの魔力は吸い上げられた。
「あっ……うぅ……」
視界が上がったことで、周囲の様子がセルフィーネの目に入った。
ベリウム川の凪いだ川面。
堤防建造の為に積み上げられた資材。
川に掛けられた幅広の橋が、イサイ村より北に残った、ザクバラ国に繋がる物だと分かった。
こちらに渡りきった所に、鞍の付いた馬に似た大型の魔獣が一頭、炎のように
竜人はあの魔獣に乗って、ザクバラ国側からネイクーン王国内へ入ったのだ。
周囲でざわめく声が聞こえた。
遠巻きに、人々が驚愕の表情でこちらを見ていた。
その中に見知った作業員や魔術士達がいて、イサイ村から人々が出て来ているのだと気付く。
『その姿を王族以外に
王の言葉が頭を
「変わるなと警告したはずだぞ、水の精霊よ。最早このままネイクーン王国へ置いておく訳にはいかぬ。円卓様の決定により、お前は南方三国に分けられる事となった」
ハドシュが口だけを動かして、無表情に言った。
「第三首ヤシュトラ様より、契約の更新を拝命した。今より私がお前を切り分ける」
セルフィーネの心の奥に、僅かに震えが走った。
しかし、魔法士に自在に使われる存在である精霊の自分は、これが当然の結果なのだと思えた。
長い時を経て、ネイクーン王国の水の精霊の役割を終える。
物言わぬ精霊に戻り、これからは世界を支える同胞の一部となって、三国の水源を守るのだ。
竜人の深紅の瞳の前で、彼女は声を発することも出来ず、従順に裁きを待った。
切り分けられる前から、既に消えかけているようだった。
物言わず抗わない水の精霊に、ハドシュは、やはり竜人族の導く世界は間違っていないのだと確信した。
対岸を見遣ると、同じような魔獣に乗って昼夜を駆けたリィドウォルが、渡って来た橋のザクバラ側に立っている。
疲労困憊の
リィドウォルが言う、水の精霊の神聖力も、増大した魔力による彼の勘違いだろう。
そんなことがあり得る訳がない。
竜人族ですら、求めても手に入れることのできない
人間の手によって歪められた憐れな水の精霊は、魔力を切り分けることで、世界を支える元の儚い水の精霊に戻せるだろう。
それを与えてやれば、ザクバラも文句は言えまい。
そう思うハドシュの視界の端に、ふと、空に
水の精霊を切り分ければ、これが見えなくなるだろう。
それだけは僅かに惜しい気がしたが、彼は水の精霊を切り分けるべく、左手に魔力を流し始めた。
カウティスとラードは、最後の小休憩で馬を替え、街道を西へ駆けていた。
離れた街から、夕の鐘が聞こえる。
この分なら、夕の鐘半までには余裕を持って拠点に戻れるだろう。
「王子、あれを」
斜め後方を走っていたラードが、馬上で空を指した。
カウティスが目を凝らすと、雲一つない明るい空に、臙脂色の鳥が一羽、こちらに向かって勢い良く飛んで来る。
「ハルミアンの使い魔か?」
カウティスが馬の速度を下げると、頭上まで来た鳥が旋回して嘴を開く。
「王子、セルフィーネが竜人族に連れて行かれた! 北の橋の辺りだ!」
ザッとカウティスの全身に鳥肌が立つ。
考えるより先に、身体が動いた。
体勢を前に倒し、馬の腹を蹴る。
今朝見た、セルフィーネの輝くような笑顔が脳裏に甦る。
カウティスは強く奥歯を噛みしめると、全速で駆けた。
全速以上の速さで馬を駆けたマルクは、北の橋が見える辺りで、馬が怯えて暴れ出したので、何とか地面に降りた。
馬の動きに耐えた身体が、ギシギシと軋むのも気にせずに、必死で走る。
「水の精霊様!」
緑のローブの裾を跳ね上げて、突風が地面スレスレを魔力の塊に向かって走った。
ハドシュはセルフィーネの胸に、魔力
パクとセルフィーネの口が開き、身体が痙攣する。
見開かれた紫水晶の瞳の光が、更に弱まった。
「水の精霊様!」
叫ぶように呼ぶ声が聞こえ、セルフィーネを持ち上げていたハドシュの肩に、風の刃がぶつかった。
ハドシュがマルクに視線を向ける。
あまりにも大きな魔力で、マルクはハドシュの姿よりも魔力を先に認識してしまった。
視線が向けられて、初めて竜人の姿を目の当たりにし、圧倒的な力の差に腰が抜けそうになった。
それでも、魂が抜かれたように吊るされた水の精霊の姿に、勇気を振り絞って叫んだ。
「水の精霊様! もうすぐカウティス王子が来ます! 頑張って!」
――――カウティス。
セルフィーネの耳に、愛おしい人の名が響いた。
麻痺していた頭に、彼の姿が次々と浮かぶ。
光を失いかけていた紫水晶の瞳を瞬くと、開いていた口で
『セルフィーネ』
自分の名を呼ぶ優しい声音が耳に甦り、胸の奥から気持ちが溢れ出す。
カウティス。
会いたい。
カウティスに会いたい。
――――このまま消えたくない。
「魔術士風情が」
ハドシュがマルクに指を向ける。
「…………いや」
消え入るような声が側から聞こえ、ハドシュは目だけを動かしてセルフィーネを見た。
セルフィーネは自分の中の勇気を振り絞り、震えながら声を出す。
「…………切り分け……られるのは、嫌だ」
「……何だと?」
ハドシュは愕然とした。
使われるだけの精霊が、意思を示している。
しかも、竜人族に反抗する意思を。
硬質な紫水晶の瞳が光を取り戻す。
ハドシュが一瞬怯んだ。
「まさか」
困惑が滲んだ深紅の瞳を、セルフィーネの瞳が初めて見返した。
「いや!」
その瞳の奥に青銀の輝きを見て、ハドシュは彼女の顎を掴んだ手を払った。
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