新しい時代へ
静かな夜
月が中天に差し掛かり、日付けが変わる頃、イサイ村は厳戒態勢が敷かれていた。
村の周囲には兵士が配置されている。
村には堤防建造の為の作業員や、職人が多く駐在していたが、今夜は居住建物から極力出ないよう言い渡された。
竜人族の突然の来訪に驚き、あの時、村から多くの人が出て来て騒ぎになっていた。
事が収まった時には、近隣の村からの人出もあったらしい。
年が変われば、水の精霊の契約が変更されることが、多くの者に知られてしまった。
水の精霊は、ネイクーン王国のものだけではなくなってしまう。
それは、誰にとっても大きな衝撃だった。
そして、水の精霊が王族以外にも姿を現すことが出来た事も。
王城と違って、王族の人払いや
対岸や橋の途中で、ザクバラ国の者も多くこちらを見ていた。
どうやっても、なかったことには出来ない。
せめて、今夜セルフィーネが月光を浴びる間だけでも、騒がず静かにしてやって欲しい。
それで、今夜だけは兵を配置することになった。
最近は、作業員達の世話をする下男や下女が、近くの町村から働きに来ている。
夕の鐘前に起きた騒動で、自分達の町村に帰る機会を逃した者が、今夜は多く留まっている。
普段の夜よりも人が多いのに、どことなく村全体に緊張が漂い、静かな夜だった。
普段、作業員達が集って憩いの場になっている広場には、大きく厚い幕が張られていた。
その周囲には兵士が立っていて、中の様子は伺い知れない。
ラードが重い幕を
その手には、布が掛かった籠がある。
四方を二重に張られた幕の中には、簡易寝台が置かれてあった。
その上には、セルフィーネが眠っている。
空から降る月の青白い光を浴びて、その華奢な身体に残る無惨な傷が、より浮き出て見えて痛々しかった。
水の精霊が回復するには、月光を浴びるのが一番早い。
しかし、建物内では月光が当たらないし、かと言って屋外にこの姿を
寝台の側の椅子にはカウティスが座り、離れた所にハルミアンが立っている。
どちらもセルフィーネの姿を見つめたまま、黙っていた。
ラードが入って来て、ハルミアンは顔を上げた。
対照的に、ピクリともしないカウティスにラードは近付く。
「遅くなりましたが、軽食を用意させました。少しでも食べて下さい」
幕内に机までは持ち込んでいないので、手に持って食べられるよう、村に残っていた下女にサンドイッチを作って貰った。
油紙に包まれた塊をカウティスの手元に持って行くと、そこで初めて彼はビクリと身体を動かした。
カウティスの手には、ガラスの小瓶があった。
セルフィーネが小瓶に姿を現せなくなっても、お守り代わりに今でも身に着けている。
そして、習慣でつい毎晩月光に当ててしまうのだ。
「……ああ、すまない。気付かなかった」
カウティスはラードの姿を確認して、包みを受け取った。
「いえ、驚かせてすみません。身体はどうです? 痛むのでは?」
竜人と立ち回りをしたカウティスは、擦り傷に打ち身が多数あった。
しかし、ここから離れて薬師に診てもらうのを渋ったので、ラードが手当てをした。
「大丈夫だ。そなたこそ、薬師に診てもらったのか?」
カウティスがラードをちらりと見上げる。
「傭兵時代が長いですからね、これくらい平気ですよ。……ほら、お前も食べておけ」
ラードに包みを差し出され、ハルミアンが近寄って受け取った。
「落ち着いているんですね」
黙って食べ物を受け取り、包みを開こうとしているカウティスに向かって、ハルミアンが言った。
「もっと荒れるかと思ってました」
「……落ち着いて見えるか? 本当は、腹の中で怒り狂っている。剣があれば、誰彼構わず斬り付けそうな程にな」
カウティスが軽く鼻で笑う。
「……カウティス王子は、騎士というより狂戦士のようですね。……剣が折れてて、良かったかも」
ハルミアンが顔を引きつらせた。
「落ち着いて見えるのは、頭の中がぐちゃぐちゃで、どう表に出せば良いのか分からないだけかもしれない」
寝台に目を閉じて横たわるセルフィーネを見て、カウティスは苦し気に目を細める。
ラードがふと、カウティスの手が細かく震えて、包みを開けられないのに気付いた。
「王子」
カウティスの手の中の包みを取り、開いてまた戻す。
「水の精霊様は、その内目を覚まされます」
ラードがハルミアンを見ると、ハルミアンはコクリと頷く。
「まだ実体を持っていませんからね。魔力さえ回復すれば目を覚ましますし、傷だって綺麗に消えますよ」
セルフィーネの身体には、多くの擦り傷と、頬や顎、胸の中心に爪で大きく抉られた
そのどれもが生々しく、皮膚や肉の質感はあったが、不思議と血は流れなかった。
ハルミアンが言うには、精霊は血を嫌うので、セルフィーネが魔力で創り上げたこの身体は、無意識に血が発現されないのだろう、とのことだった。
「身体の傷が消えても、心の傷は残るかもしれない……」
寝台に横たわるセルフィーネの細い左手首に、バングルはない。
ハドシュに踏み付けられたバングルは割れ、繊細に彫られていた鳥の羽根の部分は、羽根が散ったように無残にもバラバラになっていた。
マルクが丁寧に拾い集め、紙に包んで彼女の横に置かれてある。
「……その時は、王子が寄り添ってあげて下さい」
ハルミアンが言って、サンドイッチを小さく齧った。
どんな時でも食べろと、ラードに躾けられてきたカウティスは、ろくに味を感じないままに、ただ
包んでいた油紙を折っていたカウティスに、ハルミアンが珍しく
「僕が契約更新を受け入れたこと、怒ってますか?」
カウティスはハルミアンと目を合わせてから、首を振った。
「むしろ、礼を言いたい。そなたがあの場で交渉してくれなかったら、セルフィーネはもう既にネイクーンだけの存在ではなくなっていたはずだから」
『 ネイクーン王国の人間が、水の精霊の護りを失う、心構えをするだけの時間を 』
ハルミアンが竜人にそう言って、時間的な猶予を得た。
「以前、王城に竜人がやって来て、セルフィーネに『変わるな』と忠告したらしい。変われば消滅することになると」
ハルミアンは竜人族の居丈高な態度を思い出して、形の良い眉を寄せた。
「……私は、それを聞いていたのに、変化を止めなかった」
カウティスは、手に持ったままの油紙を無意識に握り締める。
「セルフィーネの思うように、願いを叶えさせてやりたかった。……こういう結果に繋がるかもしれないと考えたこともあったのに、それを見ないふりをした。もっともっと、笑って欲しくて、結局変化を止めなかった」
セルフィーネの美しい横顔に、不釣り合いな生々しい傷痕があるのを見て、カウティスは血が滲む程強く唇を噛んだ。
「こんなに酷いことになったのは、私のせいだ……」
ここに座ってから、今更考えても仕方ないことを、何度も何度も繰り返し考えている。
止めようと思えば、変化を止められたかもしれなかった。
何度もそういう機会があったのではないのか。
一番側にいたのは、自分だったのに。
「僕はそうは思いません」
心の内の声が聞こえたようなタイミングで、ハルミアンが言った。
カウティスに近付くと、ラードが止めるより早くカウティスの右手を取って開かせた。
皮手袋に、大きく一文字の傷がある。
「あれは、神聖力ですよね?」
魔獣の皮を傷付ける程、剣身を強く握ったのに、指の傷は綺麗に塞がっている。
「そうだ。セルフィーネは神聖力を持っている」
「王子」
あっさり認めたカウティスを、ラードが
「今更ハルミアンに隠してどうする。もう散々深いところまで関わっている」
二の句が継げず、ラードは口を閉じる。
「精霊が神聖力を持つなんて、前代未聞です。でも、そんな事が起こっている。月光神が導いているんですよ」
カウティスは眉を寄せる。
「セルフィーネも言っていたでしょう。『月光神が、このまま変化せよと言った』と。この世界は神々の創った世界で、望むと望まざると、僕達はそこに生きている。水の精霊の進化が神の意志なら、どういう流れであっても変化はしたでしょう」
ハルミアンは、唐突にカウティスの黒髪を撫でた。
思わぬことに、カウティスの目が丸くなったが、さすがに歯を剥いたラードに、すかさず手を叩かれる。
「……どういう流れでも進化するのなら、幸せな流れの方が良いに決まってますよ」
そう言って、ハルミアンは叩かれた手の甲を大袈裟に撫でた。
「私もそう思います」
幕を持ち上げて潜って入ってきたのはマルクだ。
緑のローブを着直して、魔術士の通信をしに出ていた。
「竜人に召喚される前、水の精霊様はカウティス王子との婚約式を想像して、それはそれは幸せそうに微笑んでおられました」
自分との式を想像していたと聞いて、カウティスは騎士服の胸を掴む。
共にいない時でも、カウティスのことを想っていることを知り、胸が熱くなった。
「王子と共にある進化だからこそ、あれ程お幸せそうなのです。どうかお願いですから、悪い方へ考えないで下さい」
マルクがハルミアンとラードの間に立ち、栗色の瞳でカウティスを気遣うように見た。
カウティスは三人を順に見て、寝台のセルフィーネを見る。
手を伸ばし、彼女の白い手を握った。
触れられはしないが、極僅かな手応えを感じて、そこに確かに彼女が存在しているのだと知る。
セルフィーネは、今まで何度も教えてくれた。
どんな事が起こっても、目を逸らすことなく、自分の生を生きること。
大事なのは、今、最善と思われる未来に向けて自分が何をするか。
「セルフィーネが、ネイクーンにいられるようにしてやりたい。私の側で笑っていられるように。ネイクーンの国益としてでなく、セルフィーネという個として守りたい」
カウティスは顔を上げる。
「何から始めれば良いか、まだ分からない。力を貸してくれ」
迷いなく向けられた青空色の瞳に、三人は微笑んで頷いた。
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