眠る精霊
遠くから、昼の鐘が聞こえてくる。
カウティスは、西部国境地帯の拠点で、自室として使用している部屋の椅子に座っている。
目の前の簡易寝台には、セルフィーネが細い身体を横たえ、静かに眠っていた。
陶器のような肌は所々が熟れたように赤く色付き、小振りな丸い胸が、早い速度で規則的に上下する。
閉じられた瞼が時折ピクリと動くのは、夢でも見ているからなのだろうか。
昨夜、魔力干渉中にセルフィーネが意識を失って、唯一触れられるハルミアンが、彼女を寝台に運んだ。
その時のセルフィーネは、マルクが眉を寄せる程、魔力が不安定になっていた。
白い肌は、人間では有り得ない程赤に染まり、いつもはやや冷たく感じる身体が熱を帯びていた。
人間の発熱と同じだろうと、ハルミアンは言った。
時間が経って徐々に熱は下がっているようだが、まだ下がりきっておらず、息苦しそうにも見える。
「セルフィーネは、生まれたてなんです。いえ、生まれる前と言うべきかな。とにかく、まだ彼女自身もこの
ハルミアンが言う。
「私のせいだ……」
カウティスは膝の上で拳を握る。
カウティスが舞い上がっていた魔力干渉も、彼女にとっては、戸惑うばかりだったのかもしれない。
「カードゲームの時にも説明しましたが、何が出来て何が出来ないか、やってみて初めて分かる事が多いんですよ。僕もセルフィーネがどういう者になるのか分からない。彼女自身も分かってない。…………だから、今回のことは、王子のせいって訳では無いですよ」
ハルミアンが気遣うように一言付け足した。
精霊の進化など、初めての現象で、確かに誰も予想のできないことばかりなのかもしれない。
でも、だからこそ、側にいるカウティスがもっと気を配るべきだったのだ。
セルフィーネは『待って』と言ったはずなのに、血が上って、また自分の欲求に我を忘れた。
カウティスは項垂れて唇を噛んだ。
「王子、そろそろ出発の準備を」
椅子に座るカウティスの後ろから、ラードが声を掛けた。
明日、風の季節後期月初日は、王太子エルノートと、フルデルデ王国のメイマナ王女の婚約式が行われる。
式に参列する為、カウティスは今日中に帰城しなければならない。
「もう少しだけ、頼む」
カウティスが固い声で答えると、ラードとマルクが顔を見合わせる。
「……一の鐘までですよ」
溜め息混じりに言って、ラード達は部屋から出た。
「婚約式は、絶対参列しなければならないんですか?」
マルクが、カウティスの部屋の扉を振り返って言った。
昨夜の王子の
「……カウティス王子は、王太子のただの弟ってだけじゃない。近衛騎士でもあり、最側近だ。即位後に地盤が固まるまで、僅かでも不仲の印象を与えるわけにはいかないんだ」
ラードが固い表情で腕を組む。
カウティスが社交界に復帰し、水の精霊が寵愛を強くしたことで、一部の貴族がカウティスを押し上げようと画策している。
カウティスが子供の頃にもあった事だ。
ネイクーン王国は、王を中心に良く治まった国だが、それでも水面下での勢力争いは無くならない。
王太子とフェリシア皇女が離縁となり、王太子のせいで、フルブレスカ魔法皇国の後ろ楯を失くしたと見る貴族も少なくない。
また逆に、ザクバラ国の血を引くカウティスを、王太子から遠ざけようと考える者もいて、小さなきっかけで、王子達の間に亀裂を入れようとする者が出ないとも限らない。
即位前の今、機会ある事に王太子と第二王子の強い繋がりを見せておく事は、とても重要なのだ。
カウティスは寝台の側から離れなかった。
考えてみれば、今までセルフィーネが眠っている姿を見たことはない。
精霊に睡眠は必要ないからだ。
こうやって意識なく横たわるセルフィーネの姿を見ると、胸が苦しい。
不安定だった魔力は、ハルミアンの手助けで少し落ち着いたらしい。
あれだけ不安定でも姿が消えなかったのだから、しばらく眠ったら目を覚ますだろうとハルミアンは言った。
だがいつ目を覚ますだろう。
もうすぐ午後の一の鐘が鳴る。
そうしたら、セルフィーネを置いて王城へ向かわねばならない。
「セルフィーネ」
カウティスは彼女の耳元で名を呼んでみる。
彼女からはなんの反応もない。
「目を覚ましてくれ。……頼む、セルフィーネ」
ハルミアンが付いていてくれると言うが、こんな状態で残して行くのは
どうすれば目を覚ましてくれるのだろう。
カウティスは彼女の頬に手を添える。
子供の頃、寝物語で聞いた眠れる姫のように、運命の王子が口付けすれば、目を覚ますのだろうか。
カウティスは祈るような気持ちで、寝台に横たわるセルフィーネに顔を近付ける。
「目を開けてくれ」
低く囁いて、実体のない彼女の薄い唇に、己の唇をそっと落とした。
遠くで、午後の一の鐘が鳴る。
僅かに吐息が漏れた気配がして、カウティスは目を開け、顔を離した。
セルフィーネの瞼がピクリと動き、ゆっくりと開く。
数度瞬いて、とろりと揺れる紫水晶の瞳がカウティスを見た。
「セルフィーネ!」
一瞬で鳥肌が立ち、直後に脱力感と安堵が胸に込み上げる。
「…………。」
「何だ?」
セルフィーネが何か呟いたが、小さすぎて聞こえず、カウティスが耳を近付ける。
セルフィーネの白い両腕がスウと上がり、寝台に上半身を倒したカウティスを抱きしめた。
「…………もう一度」
耳元で囁かれ、カウティスは心臓を鷲掴みされる。
「セルフィーネ……」
カウティスが再びセルフィーネに口付けた時、背後からラードの盛大な咳払いが聞こえた。
フルブレスカ魔法皇国の王宮。
竜人ハドシュは、竜人の管轄区域を出て、皇帝の管轄区域へ入る。
中庭の渡廊をゆっくりと歩くと、風の季節も折り返しだというのに、以前よりも更に華やかな花が柱を彩っている。
しかし、ハドシュの目には何も映っていないかのように、大きな爪の先が花弁に当たっても、一瞥すらしなかった。
貴族院の中央棟へ向かう渡廊の分岐点を越え、更に進むと、建物の陰でシュガと黒尽くめの男が話しているのが目に入った。
ザクバラ国のリィドウォルだ。
何度か、この時間にこの辺りで見かけた事がある。
あの男はザクバラ国王の不興を買い、国から出されているという噂を聞いた。
事実かどうかは分からないが、皇国に長期滞在していることは確かだ。
リィドウォルを始めとする一部のザクバラ貴族は、過去に何度もザクバラ国に水の精霊を与えて欲しいと願い出ているが、許可されないままだった。
今回、フルデルデ王国と連名で嘆願を出したことにより、皇帝と貴族院は、南方三国の均衡を図るために、一旦はネイクーン王国の水の精霊を分け与えるべきとの結論を出した。
しかし、フェリシア皇女の一件で皇帝の心変わりがあり、それも取り下げられていた。
だが竜人族の
円卓様の決定は、竜人族にとって絶対だ。
シュガが貴族院に根回しを終えれば、年明けにも三国に分けられる事は、竜人族の間では決定されている。
それに抗っている現皇帝は、速やかに退けられるだろう。
「フルデルデ王国が、嘆願の取り下げを検討していると聞いたが、お主の耳には入っているのか?」
シュガがリィドウォルに尋ねた。
リィドウォルの目に険が籠もる。
「フルデルデも世迷い言を。……それで、もしそれが事実ならば、どうなさるというのですか。今更、『やはり水の精霊は与えられない』と? 年明けまで待てと言われて、我らは大人しく従っているというのに、大陸の覇者たる皇国が尚も決定を
この数年、焦らされたままのリィドウォルの苛立ちが込み上げる。
リィドウォルは、決意したように拳を握った。
「ネイクーン王国へは、オルセールス神聖王国も手を出し始めました。
緩くクセのある黒髪の間から、ギラギラと光る瞳がシュガを睨め上げる。
「神聖王国が欲しいのは、神の奇跡の地だろう」
シュガがリィドウォルを見下ろして言った。
「……あの奇跡も、水の精霊が関わっているとしたら?」
近寄ろうとしていたハドシュが、リィドウォルの言葉にピタと足を止める。
「精霊がどう関わるというのだ?」
シュガが
リィドウォルが一息に発する。
「水の精霊は神聖力を持っております」
渡廊の角から、ハドシュが大股に近寄ると、リィドウォルに詰め寄った。
「神聖力だと!?」
言って、リィドウォルの文官服の腕を掴む。
「兄者」
シュガが驚いたように目を剥く。
腕を掴まれた力の強さに、リィドウォルが眉を寄せる。
「……そうです、神聖力です。水の精霊をネイクーンへ留めれば、早かれ遅かれ、今度は神聖王国があの魔力を得るでしょう。それは、皇国としても、竜人族としても面白くないのでは?」
水の精霊がどんな存在でも、竜人族は最早水の精霊を消すことは出来ないはずだ。
だが同時に、オルセールス神聖王国が水の精霊を取り込めば、もう二度とリィドウォルの手は届かないだろう。
リィドウォルは腕の骨が軋んでも振り解かず、ハドシュの深紅の瞳を力の限りに睨みつけた。
「水の精霊をこれ以上ネイクーンへ留めるべきではありません。どうか、約束通りザクバラ国へお授け下さい!」
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