新しい生活
風の季節前期月、六週三日。
ネイクーン王城の正門を、屋根の形に特徴のあるフルデルデ王国の馬車が次々とくぐる。
入ってきた馬車が前庭に並ぶと、中央の馬車から、橙色のドレスの裾を上げて、メイマナ王女が降り立った。
その顔は晴れ晴れとしている。
「ああ、ようやくネイクーン王国へやって来たわ。ここまで長かったわね」
そう言うと、側に付いた侍女のハルタがすかさず突っ込む。
「相当に早かったと思いますけどね」
そんな言葉は聞こえないふりをしたところで、建物から白い詰襟の男性が出て来たのが見えた。
王太子エルノートだ。
最後に会ってから、まだ一月も経っていないのに、エルノートが白いマントをなびかせて前階段を降りる姿に、メイマナの心臓はドキドキと強く打った。
エルノートの金に近い銅色の髪は、太陽の光を弾いてキラキラと輝き、長身の身体は
冷たくも見える薄青の瞳が、メイマナの姿を捉えて柔らかく笑んだ。
エルノートが側まで来ると、メイマナは美しい所作で立礼する。
「お久しぶりです、王太子様。お約束通り、急いで戻って参りまし……」
メイマナが軽く折っていた膝を伸ばし、顔を上げた途端に、腕を引かれて前にバランスを崩した。
あっと思った時には、エルノートの白い詰襟の胸に抱き込まれていて、一瞬で頭が真っ白になった。
王太子が王女を抱きしめるのを見て、周りの侍従や侍女、馬車の周りにいた下男達は大慌てで回れ右をする。
近衛騎士や護衛騎士も、何とか無関心を装って視線を泳がせた。
「おっ、王太子様……」
真っ赤になったメイマナが辛うじて出した声は、蚊の鳴くような声で、エルノートの胸から聞こえる心臓の音に掻き消されそうだった。
その強い鼓動に、自分だけが会いたかった訳ではなかったのだと感じて、メイマナは幸せな気持ちでいっぱいになった。
「……申し訳ありません。身体が勝手に動いてしまった」
そう言ってゆっくり身体を離したエルノートは、表情はあまり変わらないが、どこか照れているようにも見えた。
メイマナは、まだ赤い顔のまま、両頬に笑窪の浮かぶ満面の笑みを返す。
「急ぎ戻って参りました。お会いしたかったです、王太子様」
そう言って彼の手を握ろうと差し出した白い手を、ドスドスと地響きのしそうな音を立てて走ってきた、小太りの男が奪い取った。
「まだ! 婚約式までは触れ合うの禁止だからっ!」
「父上!」
メイマナの手を奪ったのは、フルデルデ王国の王配だ。
三日後に行われる婚約式の立会人として、メイマナと共にネイクーン王国へやって来た。
「……王配殿下?」
エルノートが驚いて彼を見る。
王配はメイマナによく似た顔を赤くして、メイマナをグイグイと引っ張って下がらせる。
彼は、エルノートがメイマナを抱きしめているのを見て、血相を変えて走って来たのだが、だいぶ遅かったようだ。
本人は精一杯走ったらしく、フウフウと息が荒い。
顔が赤いのは全力疾走したからか、それとも娘の抱擁を見たからなのか。
「初めてお目にかかります、王太子殿下。後ほど改めてご挨拶致しますが、とにかくっ! 婚約式を終えるまでは、触れ合い禁止です!」
王配はメイマナの前に立つと、胸を張って鼻息荒く言う。
「もうっ! 父上! 恋しい方とのせっかくの再会を邪魔しないで下さいませ! 感動に打ち震える機会は一度きりなのですよ!」
「そんなの、何回でも里帰りして再会し直せばいいでしょっ!」
両手を小さく上下させながらメイマナが主張すると、王配が振り返って同じように手を振って打ち消す。
「お里帰りなんて、婚約式もまだなのに不吉な事を仰らないで下さいませ! 王太子様の元に早く参る為に私が準備を頑張ったのをご存知でしょ!」
ギュゥと顔を
「メイマナ様! 王配様!」
ハルタの声に、二人がハッとする。
気が付けば、回れ右していたはずのネイクーン王国の侍従達はポカーンとしていて、フルデルデ王国から付いて来た侍女や下男達は、居た堪れない様子で目線を逸らしていた。
やってしまった、とメイマナが思った途端、エルノートが王配の前に出て、純白のマントを揺らして完璧な立礼をした。
「お目にかかれて光栄です、王配殿下。長旅でお疲れでしょう。陛下との謁見まで、メイマナ王女と少しお休み下さい」
薄青の瞳を涼し気に流し、何事もなかったかのように二人を促す王太子に、気不味かった空気が流れ出す。
周りで固まっていた侍従達が、急いで動き出した。
エルノートが何事もなかったかのように振る舞い、メイマナと距離を空けたので、王配は何とか落ち着きを取り戻し、王族らしい振る舞いで入城した。
エルノートの侍従だけは、主の目元が密かに震えているのに気付き、
西部国境地帯の拠点では、カウティスとラードが昼の休憩で居住の建物に帰り、広間に入る。
カウティスが戻って来たのを見て、部屋で姿を現していたセルフィーネが微笑んだ。
王城から拠点に戻ったあの日から、セルフィーネはマルクに少しずつ感情を表すようになり、それに伴って表情も出てくるようになっていた。
変化する前から、姿の見えない水の精霊と会話していたマルクは、姿が見えるようになった彼女に、今までと殆ど変わらず接した。
マルクにとっては、姿が見えようと見えまいと、“水の精霊”は憧れて敬うべき存在で、カウティスに一途に情を注ぐ、尊い精霊だった。
そういう二人を目にすると、ラードの強張りも取れ始めた。
自らセルフィーネに、『自分は魔術素質がないので、突然背後に現れると、どうしても驚いて強張ってしまう。可能ならば、視界に入る位置に現れて欲しい』と願い出た。
セルフィーネはそれを承諾し、ラードがいる時は、出来るだけ驚かさないように気を付けるようになった。
セルフィーネは、カウティスが建物内にいる時は、大体姿を現している。
それ以外は、今まで通り、姿が見えないまま上空にいるようだった。
拠点の魔術士達は、水の精霊がカウティスの左胸に添わなくなったので、喧嘩でもしたのかと心配してくれたが、部屋に留まる魔力に気付き、何やら想像してそれ以上は聞かなくなっていた。
「……何をしている?」
広間に入って、カウティスが眉を寄せて尋ねる。
広間の大きな木製の机には、先に休憩に入っていたマルクが、ハルミアンとカードを広げていた。
そして、そこには何故かセルフィーネも座っていて、彼女の前にもカードが並んでいる。
「マルクとやろうと思って、兵舎で借りたんですけど、水の精霊が興味津々だったので教えてあげたんです」
ハルミアンが机の上のカードを指し示す。
セルフィーネのカードを
「そしたら彼女、連続して完璧な手で勝つんですよ。おかしいなと思ったら、全部見てたんです」
他の人の手持ちカードも、机の上に伏せてあるカードも全部“見えて”いたらしい。
完全にズルである。
それは負けないだろう。
「自分のカード以外は見ては駄目だって、そこから説明し直したら、ようやく勝負になりましたけど……、今度は全く勝てないんですよ」
ハルミアンが可笑しそうに笑うと、マルクが眉を下げて申し訳無さそうにする。
「水の精霊様は、素直すぎて手が読めちゃうんですよね……」
言われたセルフィーネが、形の良い唇を僅かに歪め、カウティスを上目に見る。
「全然勝てないのだ」
その少々不満気な顔に、カウティスは思わず笑ってしまう。
「よし、俺と組んでもう一度やろう」
カウティスがセルフィーネの隣に椅子を運んで座ると、彼女は嬉しそうな顔をした。
セルフィーネの姿が変化してから、その力にも変化があった。
水源を保つ事などの、水の精霊としての基本的な役割に影響はない。
ただ、神聖力が強くなったり、姿を小さく現すことが難しくなったりと、変化はあるが、確認して初めて分かることが多いようだ。
様々なものを同時に“見る”という感覚は以前から同じだが、カードをしている範囲だけを“閉じる”というのも、やってみたら出来たらしい。
カードに触れることは出来るが、一枚を素早く
こんな風に、小さな事を一つ一つ確かめていれば、出来ないと思っていたことが、実は出来るということもあるかもしれないとハルミアンは言っていた。
「……負けた」
カウティスがガクリと肩を落とす。
「あははは。カウティス王子も素直な手ばかり打つんだもの。読み易いんですよ」
ハルミアンがカードを戻しながら笑う。
再び不満気に唇を歪めたセルフィーネに、ラードが腕まくりするようにして近付く。
「では、水の精霊様、今度は私と組みましょう。勝たせて差し上げます」
そう言って、ラードはセルフィーネの隣をカウティスと交代した。
カウティスが後ろに立って見守る中、ラードはセルフィーネのカードを手に持って、的確に助言して彼女を勝利に導いた。
その調子で、セルフィーネは連勝する。
「ラードはカードの名手なのだな」
紫水晶の瞳をキラキラと輝かせ、セルフィーネが隣のラードを見た。
初めて自分に向けられた、水の精霊の感情が籠もった表情を見て、ラードは一瞬息を呑んだ。
「それ程のことは……。王子が下手過ぎなだけですよ」
「うるさい」
セルフィーネが楽しそうに笑っているのを見て、カウティスは幸せな気持ちになる。
その笑顔を独り占めしたい気持ちは、今もある。
だがそれと同時に、ラード達と一緒に何気ない会話をし、笑顔でいるセルフィーネを見られることも、とても嬉しかった。
この建物内だけではあるが、セルフィーネの新しい世界が広がっている。
セルフィーネがカウティスを振り返って、瞳を輝かせ、笑みを深める。
ずっとずっと、こんな風に笑っていて欲しい。
そう願いながら、カウティスは笑みを返した。
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