新たな側近
エルノートは暗闇にいた。
まただ、と何処か遠くで呟く自分の固い声がする。
呑まれるな、これは夢だ。
そう思うのに、自分の意志とは反して、手足は震えてその場から動けなかった。
暗く淀んだ汚泥から、ぬとりと粘る物が這い出てきて身体に纏わりつく。
逃げたいのに四肢は動かず、内側からぐずぐずと腐っていくような
その喉にすら焼ける痛みを感じ、空気を欲して喘ぐのに、少しも通らない。
よせ、苦しい、やめろ……。
思考が恐怖と苦しさに支配される寸前、ひんやりとしたものが、喉元に触れた。
突如、焼けていた喉が楽になって空気が通った。
呼吸出来るようになると、不思議と痛みや恐怖は少し抑えられる。
水際のような涼し気な香りがして、ポツと雨粒のようなものがエルノートの額に落ちた。
見上げれば、青銀の細かな粒が空からサラサラと降り、彼に纏わりついていた汚泥をあっという間に洗い流していった。
深夜、エルノートは寝台の上で目を覚ました。
荒い息を整え、汗だくの身体を拭き、着替えをする。
侍従が薬師館に薬湯を取りに行く間、一人になりたいと人払いした。
「セルフィーネ、いるのだろう?」
誰もいない室内で、寝台から足を下ろして座ったエルノートが言う。
ついさっき夢に見たように、青白い光の粒がサラサラと降ってきて彼の側で撚り合わさり、人の形を作る。
一瞬の輝きの後、淡く光を帯びたセルフィーネが現れた。
「……また助けてくれたな。礼を言う」
エルノートが疲れたように力無く微笑むと、セルフィーネは表情なく、小さく首を傾げた。
「毒は完全に浄化されたのではなかったか?」
「身体はな。心に根付いた毒は、なかなか消えぬらしい。……これでも、まだマシになった」
一時に比べれば、悪夢を見る頻度は下がった。
薬湯や、セイジェが勧めてくれた茶を飲んでみたり、疲れが溜まらないよう気を配ったりして、纏まって眠れる日も増えた。
だが、忘れることは許さぬとばかりに、不意に悪夢が甦り、エルノートを苦しめた。
「忘れたくない記憶は
溜め息混じりに言って、エルノートは髪を掻き上げた。
「……それが人間というものなのだな」
セルフィーネの表情はないままなのに、どこか寂しそうに聞こえる声だった。
セルフィーネは一歩近付くと、エルノートが下ろした左の掌を、細い指でスイとなぞった。
ほんのりと温もりを感じ、強く爪を握り込んで出来た掌の傷が、一瞬で塞がっていた。
祈りの素振りもなく、当然のように神聖力を使ったセルフィーネに、エルノートは目を見張る。
「……まるで聖女のようだな」
セルフィーネは答えなかった。
「セルフィーネ、カウティスが大事か?」
唐突に聞かれ、セルフィーネの無表情が崩れた。
紫水晶の瞳が潤み、陶器のような頬が薄く桃色に染まると、彼女はコクリと小さく、だがしっかりと頷いた。
エルノートは立ち上がる。
「セルフィーネ、竜人族とオルセールス神聖王国には、充分注意しろ。決して彼等にその姿を
セルフィーネは顔を上げてエルノートを見つめる。
「カウティスの側で、ネイクーン王国の水の精霊でいたいと思ってくれるなら、カウティスと共に信用出来る者以外には、その姿を
エルノートの言葉には思いやりの情が籠もっていて、カウティスよりも背の高い彼を見上げ、セルフィーネは目を瞬いた。
「……王太子は、このように変化した私を、まだ水の精霊だと思ってくれるのか」
「そなたは今でも、確かに“水の精霊”だ。姿形が変わっても、そなたの本質が変わっていないことは、さっき身を以て感じた」
エルノートが小さく笑う。
苦しんでいることを察し、自ら救いの手を差し伸べてくれる。
より人間を魅了してしまう見目になっても、セルフィーネの清らかな心と魔力の質は、全く変化していない。
セルフィーネは唇を震わせた。
「私……、私は、カウティスと一緒にネイクーン王国をずっと守りたい。これから先も、そなたの代になっても、“水の精霊”として、ネイクーンにいたい」
セルフィーネが祈るような瞳でエルノートを見つめた。
「……良い表情をするようになったな」
エルノートは安堵したように笑んだ。
風の季節前期月、五週五日。
一日王城で過ごしたカウティスは、ラードとハルミアン、一日早く休暇を切り上げたマルクと共に、西部へ戻った。
建物に入って広間に荷物を下ろすと、旅装を解く前にカウティスがセルフィーネを呼んだ。
「セルフィーネ、姿を見せてくれ」
その言葉にギョッとしたのは、ラードとマルクだ。
「カウティス王子。水の精霊様は、王族の方々以外に姿を見せないように言われたのでは……」
マルクが言うと、未だセルフィーネの姿に
「父上と兄上に、私の腹心の者には姿を見せる許可は取ってある」
カウティスはラードの目を見る。
「突然水の精霊の姿が見えるようになったそなたは、相当に戸惑っているのだと思う。だが、私が側で最も信頼するのはラード、そなただ。今更手放してはやらん」
ラードが小さく息を呑んだ。
「それ故に、そなたにはセルフィーネの姿に慣れてもらわねばならない。これから先も、私の側で彼女を共に守ってくれ」
照れや誤魔化しなく真剣に乞うカウティスを前にして、ラードは奥歯を噛んで表情を引き締める。
「肝に銘じます」
姿勢を正し、ゆっくりと立礼した。
カウティスはマルクの方を向く。
「マルク、そなたもだ。魔術士のそなたには、他に先の希望があるのかもしれない。だがどうか私の側近として、魔術素質のない私を助けてくれないだろうか。ミルガンには話を通してある」
カウティスの言葉に、マルクは恐縮する。
「側近!? わ、私は平民出で、王子の側近に相応しくは……」
「そんな事は関係ない。そなたは立派な魔術士だ」
セルフィーネと共にいる限り、魔力や魔術に関する事は切り離せない。
これまで何度も手助けしてくれたマルクが、カウティスには、これからもどうしても必要に思える。
そして、魔力を関係無しにしても、マルクという人間を頼りにしている自分がいる。
「う、嬉しいです。元々、お役に立てるよう励むつもりでした、……でも、良いのでしょうか? 私は水の精霊様に避けられるような失態を……」
マルクが俯けば、楽しそうにハルミアンが近付く。
「何、何? 失態って何したの、マルク」
「うう……」
言っている間に、部屋の隅に大きな魔力を感じて、マルクは
そこにはセルフィーネが姿を現し、真っ直ぐにマルクを見ていた。
その見目の美しさに加え、眩しいほどに清く輝く魔力に、マルクは目を精一杯見開いて、呼吸をするのも忘れて見入った。
横からラードに肘を入れられて、盛大にむせる。
「…………もう、避けない」
セルフィーネが小さな声で言ったのを聞いて、何とか咳を収めたマルクが姿勢を正した。
「水の精霊様、きちんと謝りたかったのです。あの時は不快な事を言ってしまい、本当に、本当に申し訳ありませんでしたっ」
マルクが深々と頭を下げた。
栗色の頭をいつまでも上げないマルクを見下ろし、セルフィーネが小さく首を傾げる。
「……マルクは、私が恐ろしくないのか?」
「恐ろしい?」
マルクがおずおずと頭を上げ、目を瞬いた。
「ラードは、私を恐れている」
ラードがゴクリと喉を鳴らし、立礼する。
「どうぞご容赦を。……すぐに慣れます」
それはラードの決意なのだろう。
セルフィーネは表情なく、小さく頷く。
「マルクは?」
向き直ったセルフィーネは、やはり美しいが表情は無かった。
それ故に、余計に人成らざる美しさが際立ってしまう。
マルクは眉を下げて、柔らかく微笑んだ。
「少しも恐ろしくなどありません。とてもお美しいです、水の精霊様。お姿を見せて頂けて、光栄です」
僅かにも恐れを含まないマルクの栗色の瞳に見つめられ、セルフィーネは無意識に小さく息をを吐いた。
両手を胸の前で握り締める。
左腕のバングルがくると揺れたのを見て、マルクが笑みを深めた。
「カウティス王子に贈られた腕輪ですね。とてもお似合いです。……身に着けられて、良かったですね」
マルクは、まるで自分の事のように嬉しそうに言った。
セルフィーネの紫水晶の瞳が、大きく揺れた。
え、と驚いて目を丸くしたマルクの前で、みるみる内にその瞳に涙が溜まっていく。
表情の無かった美しい顔が、くしゃと歪むと、セルフィーネはポロポロと涙を零して少女のように泣き出した。
「っ……ふ……」
「セルフィーネ!」
二人のやり取りを黙って見守っていたカウティスが、急いで間に入った。
「どうした?」
顔を覗き込もうとすると、セルフィーネはカウティスの胸に顔を隠してしまった。
皆に見られている状態で抱きしめるのは初めてで、カウティスはセルフィーネの背に腕を回しながら、見るなと表情で牽制する。
ラードとマルクは目を逸らしたが、ハルミアンは楽しそうに近付いた。
「安心したんだよね」
「安心した? そんな泣き方ではないぞ」
カウティスが怪訝そうに言うと、ハルミアンは形の良い眉を下げる。
「誰も彼もが、恐れを含んだ目で彼女を見るんですよ。それは、針の
カウティスは息を呑んで、腕の中のセルフィーネを見た。
セルフィーネは、カウティスと二人でいる時には表情豊かであるのに、今も、王城で皆の前に立った時も、ずっと無表情だった。
「我慢していたのか……?」
カウティスが優しく言うと、彼女はより顔を
「マルク、やっぱり君はカウティス王子の側にいるべきだよ。水の精霊にも、君は必要だと思うな」
ハルミアンの言葉に、マルクはカウティスとセルフィーネを見遣った。
まだ戸惑ったようなマルクと、カウティスは真剣に向き合った。
自分以外の者が、セルフィーネに必要だというのは歯痒いことだったが、それでも、ハルミアンの言うことは正しい。
「……マルク、頼む。正式に私の側に付き、私とセルフィーネを助けてくれ」
マルクは、二人の言葉に堪らず膝をついて、
「勿体ないお言葉です! 必ずお役に立てるよう、誠心誠意努力致します!」
「だから、力み過ぎだって」
隣でラードが小さく苦笑した。
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