魔術士達
風の季節前期月、四週三日。
ネイクーン王城の魔術士館では、最奥の魔術師長室で、魔術師長ミルガンとマルクが向かい合って座っていた。
ミルガンが手づから淹れてくれたお茶が、薄い湯気を揺らす。
マルクはそれに手を付けられずにいる。
カウティスの指示で、マルクが西部から王城に戻ったのは昨日の日の入り前だ。
そして今日、朝から魔術士館に呼び出され、ミルガンから来年の昇級試験を受けるように言われた。
ネイクーン王国の魔術士達には、毎年光の季節の終わりに、試験が行われる。
王城勤務の者は、去年と同等、又は成績を上げなければ王城からは外され、別の領での勤務になる。
他の領の魔術士ギルドでも同様の試験が行われ、成績が良い者は王城勤務に推薦してもらえる。
そして、その試験と同じ頃行われるのが昇級試験だ。
本人の希望と上司の推薦があれば受けられ、合格すれば階級が上がる。
つまり、マルクは合格すれば、最上級の濃緑ローブになる。
「……私は、今のままで充分です」
マルクは固い声で言った。
「しかし、私はマルクに魔術師長補佐の役職に就いて欲しいと思っている。今後、魔術士館を牽引する者の一人であって欲しい」
「無理です! 私はそんな役には就けません」
ミルガンの希望を、マルクは青ざめて打ち消す。
「私は平民出ですよ。今でさえ、快く思わない者も多いのに、昇級試験なんて受けたら……」
緑ローブを着たマルクを、快く思わない貴族出の魔術士も多い。
それでも、辺境警備に派遣されていた頃は、魔獣討伐という過酷な役割を与えられたマルクに、同情的な魔術士が殆どだった。
だが今は、以前と同じ様に辺境にいるとはいえ、社交界に正式に復帰した第二王子の側だ。
しかも、正式に側付きに任命されているのはラードだけであるのに、彼に近い扱いを受けている。
王城の魔術士館に帰れば、居心地の悪い思いをするのは目に見えていた。
ミルガンは肩を落とすマルクを見る。
「しかし、クイードの魔術符理論を魔術士館で一番理解しているのはお前だ、マルク。更に発展させるためには、今のままの階級では……」
「私は今のままで良いのです。少しでもカウティス王子や水の精霊様のお役に立てて、嬉しく思っています。やり甲斐もあるし、このまま西部で復興のお手伝いが出来れば、充分なんです」
マルクは両手を膝の上でギュッと握り締め、固い表情で
「水の精霊様は、妖精界で変化をしているのではないか?」
「……は……、え? あの、それは……」
あまりにも突然の問い掛けに、マルクは心臓が跳ねて、頭がついていかず、ろくな返事が出来なかった。
「やはり、お前も気付いていたか」
「あ……」
『何のことか分からない』と返事をするべきだったのに、濁すことも出来なかったマルクは青ざめた。
「先日、ハルミアン殿が魔術士達に使い魔を見せて下さった。その際水の精霊様は、おそらく使い魔に触れておられた。妖精界の使い魔に触れられるのは、妖精界で実体を持つ者のみ。……水の精霊様は、妖精界で実体を持とうとされている。そうだな?」
ミルガンが形の揃わない口髭をしごきながら言った事を、マルクは否定出来ずに青い顔のまま口籠る。
窓際に置かれた銀の水盆を見つめ、ミルガンは深く息を吐く。
魔術師長室には、有事の際に水の精霊の声が聞けるよう、小さな銀の水盆がある。
そこには、常にベリウム川の水源から引かれた水が張られてあった。
「あの場で気付いたのは私だけだったようだが、その内に他の者も気付くかもしれない」
ミルガンは口髭から手を下ろす。
「……水の精霊様の変化を、止めるべきだ」
「何故ですか!?」
マルクが思わず食い付いた。
「水の精霊様が妖精界で実体を持てば、それは間違いなく進化だ。それは、精霊ではなくなるという事」
ミルガンは一度ゆっくり呼吸する。
「……我が国は水の精霊を失うという事だ。そして今度は、中傷ではなく本当に、カウティス王子はネイクーン王国から水の精霊を奪った王子になってしまうだろう」
マルクは息を呑んだ。
王子と水の精霊が、そんな未来を望むとは思えない。
しかし、進化は神の域の現象だ。
人間がその速度に関与できるものだろうか。
「でも、私達人間が、水の精霊様の変化を止めることなど出来ません……」
マルクが呆然と呟けば、ミルガンは灰色の瞳を向ける。
「そうだな、それは神の領域だ。関与できても極僅かなこと。進化の流れは変えられないだろう。どう
ミルガンは細い目を更に細めた。
「ネイクーン王国の為に、カウティス王子と水の精霊様の為に、お前はどうする?」
ミルガンの問い掛けに、マルクの脳裏に、過去の様々な事が
幼い頃、国を潤す水の精霊の声を聞いてみたくて、王城の魔術士を目指した。
水の精霊が眠っている間、水の精霊に代わって火の精霊の影響を防ぐ為、魔術士達で様々に奮闘した。
西部で、王子と水の精霊を近くで見て、この二人を見守っていきたいと思った。
『 ありがとう……マルク 』
初めて水の精霊に名前を呼ばれたあの日、自分の持ち得る限りの魔術と魔力で、二人の尊い関係を守ろうと、水の精霊の存在を守る為に力を尽くそうと誓った。
――――そうだ。
これからも、力を尽くす。
マルクは膝の上で拳を握ったまま、顔を上げる。
「……魔術士の私に出来ることをします。例え水の精霊様が変わられても、
そしてきっと、どんな存在になっても、水の精霊を守る。
「そうだ。その為にも、お前は上の立場を目指すべきだ。お前の思いを実現するために、お前自身が力をつけねばならない」
ミルガンが再び水盆を見る。
そこには水が張られているだけで、水の精霊はいない。
これを使わずに済むようにすることが、魔術士館の役割の一つだ。
「マルク、昇級試験を受けなさい。平民出でも、貴族出でも関係なく、お前の水の精霊様を守ろうという思いで、魔術士館を牽引する一人になって欲しい」
マルクは奥歯を噛み締める。
まだ躊躇いはあった。
それでも、己を奮い立たせて口を開いた。
「…………受けます」
魔術師長室を出たマルクを待っていたのは、ハルミアンだった。
壁に凭れて腕を組み、首を傾げて一人立っている。
「やっぱり、魔術士同士は話が早いや。水の精霊の変化も、世界の進化として受け入れられる」
小さく笑うハルミアンに、マルクは顔を
「……聞いてたの?」
「午後に王城を出るから、ミルガン殿に挨拶に来たら、聞こえちゃったんだもの」
ハルミアンは尖った耳を指す。
耳の良い彼には、扉の外にいても会話が拾えてしまったようだ。
「怖じ気付く王子より、マルクの方がよっぽど頼りになるよ」
何処となく皮肉な笑いを浮かべるハルミアンに、マルクは眉を下げる。
「カウティス王子と何かあったの?」
「進化の話をしたら、余計なことをするなと言われたのさ。王子も結局は、人間だね。精霊なんかより、自分が大事さ」
「そうだよ。私達は人間だ。王子も、魔術士も同じだよ」
マルクの声に、ハルミアンは顔を上げる。
「躊躇って、怖がって、迷って。何度も間違えて……でも、大切なものの為には己を奮い立たせる力を持ってる。……ねえ、ハルミアン、エルフだって同じじゃないの?」
ハルミアンは強く不快感を表し、表情を歪ませた。
「人間とエルフが同じだって?」
「迷いながら生きていくのは同じだって言ってるんだ。……ハルミアン、種族の別にこだわっているのは、君の方だよね?」
小さく息を呑んだハルミアンから、マルクは目を逸らさない。
「大丈夫、カウティス王子は、必ず水の精霊様の全てを受け入れるよ」
そう言ったマルクの目には、確信のようなものが浮かんでいて、ハルミアンは反論を口にすることが出来なかった。
フルデルデ王国の王都は、宮殿を中心にして広がる。
宮殿に程近い場所には、王国で一番大きなオルセールス神殿があった。
宮殿から近いので、メイマナは成人前から、時間が出来ると神殿に隣接した孤児院や治療院に通っていた。
風の季節前期月、五週一日。
メイマナは、ネイクーン王国に出発する日を明日に控え、通い慣れた神殿に最後の挨拶に出向いた。
司祭や神官達は、オルセールス神聖王国の指示で国を移動するが、申請して許可が下りれば、一箇所に留まることも可能だ。
現在の太陽神の司祭は、メイマナが子供の頃からずっとこの神殿にいる者で、彼女のことをとても可愛がってくれた。
ネイクーン王国から戻って、ネイクーンへ嫁ぐ事になったと報告した時は、我が事のように喜んでくれた。
孤児院へ向かう途中で、司祭が目尻にシワを寄せ、優しく微笑む。
「メイマナ様が隣国へ嫁がれると知って、子供達は大泣きしたのですよ。でも、聖女様がよく宥めて下さったのです」
「聖女様が? こちらに戻って来られたのですか?」
司祭が頷いた。
聖女アナリナが、ネイクーン王国からフルデルデ王国へ巡教に訪れたのは約一ヶ月前だ。
一度王都の神殿に入り、女王と謁見はしたが、二つ離れた領に急ぎ神降ろしを乞う貴族がいた為、王都を離れていた。
ネイクーン王国へ慰問に出ていたメイマナは、まだ一度も会ったことがなかった。
孤児院に着くと、扉を開ける前に、裏庭から子供達の歓声が聞こえた。
メイマナは司祭と顔を見合わせて、裏庭へ回る。
裏庭では、子供達が地面に石で線を引き、陣取り遊びをしていた。
片足で跳ねては、出会った相手を押し合っている。
その度にキャーキャーと騒いで笑って、楽しそうだ。
その中に、一際輝く髪色の小柄な女性がいた。
太陽の光を弾く、無造作に纏められた青銀の髪。
薄衣の袖を
二人掛かりで押され、両足を地面につくと、あ~っと残念そうに顔を
「聖女様」
司祭が笑い含みに声を掛ければ、彼女はこちらに気付き、顔を上げた。
輝く黒曜の大きな瞳に、風で青銀の前髪が揺れる。
健康そうな腕に小さな子供が縋ると、嬉しそうにワシワシとその頭を撫でた。
ネイクーン王国からフルデルデ王国に移動した、聖女アナリナだった。
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