消された記憶
約三十年前、ザクバラ国王の姪であるマレリィは、フルブレスカ魔法皇国の仲裁で決まった政略婚で、ネイクーン王国へ輿入れすることが決まった。
両国間のわだかまりを考慮し、婚約式は皇国の神殿で行われた。
通常、婚約が正式に成った後は、母国で一、二ヶ月過ごして相手国へ向かう。
だが、マレリィの父と兄リィドウォルは、必要な諸々の手続きと準備を、ほぼ半月で終えさせた。
そして今日、慌ただしい別れの時間を経て、17歳のマレリィが出発しようという時、王からの
カラン、と高い音を立てて、薬湯の入っていた黄銅の器が石床の上に落ちた。
深く濃い茶色の液体が、床の上に散る。
薬湯を持って来た薬師は、マレリィに飲ませるはずの薬湯を払い落とされ、困惑して器を払い落としたリィドウォルを見た。
そしてその目を見て、ガクリとその場で膝をつく。
「……マレリィは薬湯を飲んだ」
抑揚なく言ったリィドウォルは、高位魔術士の紋章を付けた黒いローブを纏い、肩上に切り揃えた、緩くクセのある黒髪を僅かに揺らす。
薬師は、自分を見下ろすリィドウォルの紅い右目から、目が離せなかった。
「リ、リィドウォル様……お止め下さいっ」
懇願する薬師の青ざめた姿を前に、リィドウォルの右目には紅い光が濃く滲む。
「マレリィは薬湯を全て飲み干した」
紅い光が妖し気に揺れると、膝をついた薬師の目が虚ろになり、アウアウと赤子が喋るように口を動かす。
マレリィは目の前で起こっている事の意味が分からず、ただ青ざめて目を見開き、側の侍女に縋っているだけだった。
ただ、兄が薬師に恐ろしい魔眼の力を使っている事だけは分かる。
気付けばリィドウォルの侍従が床を清めて終わり、何でもなかったかのように、薬師が運んで来た盆に空の器を置いている。
「……それは何? 陛下に何を
侍従は答えない。
「マレリィ様、お手を」
兄の前に膝を付いていた薬師が、いつの間に正気を取り戻したのか、当たり前のようにマレリィの脈を見ようと腕を取った。
リィドウォルはその後ろに立ち、暗い目をして黙ってそれを見つめている。
「……緊張しておられますね。明日には月のものがきますが、痛みが普段よりは強いかもしれません。鎮痛剤を処方しておりますので、我慢できなければお飲み下さい。色が黒っぽいのは薬のせいですから、ご心配なさらずに。来月以降は殆ど出血は無かろうと思いますが……」
薬師が淡々と説明するのを聞きながら、マレリィは血の気が引くのを感じた。
王が自分に与えたのは、不妊毒だと気付いたからだ。
王は、ザクバラ国外に“
その停戦破棄に繋がる事実と、姪である自分に向けられた非道の行為に愕然とする。
「……注意事項は以上です。質問はございますか?」
薬師が尋ねるが、マレリィは口を開けない。
質問はないのだと受け取って、薬師は立ち上がり立礼する。
そして別れの挨拶をし、盆に乗った空の器を持って退室して行った。
「リィドウォル様、大丈夫ですか?」
侍従が兄を気遣う声で、マレリィは我に返った。
「……記憶操作は苦手だ。壊す方が余程楽だ」
リィドウォルが、疲れたように額を押さえている。
緩くクセのある黒髪が、指の間から垂れて揺れる。
「……兄上様」
呆然と呟いたマレリィを見て、リィドウォルは手を下ろした。
「急ぎ出発せよ。薬師の混濁がいつ暴かれるか分からぬ」
マレリィは息を呑む。
兄は国王の命令で不妊毒を持って来た薬師を、魔眼の力で謀ったのだ。
「兄上様、こんな……。こんな事をしたと知れたら、兄上様は……」
「私は良い。……マレリィ、陛下は既に詛に侵され始めている。今は政変の後始末と停戦処理に追われているが、落ち着けばどうなるか分からぬ」
リィドウォルはマレリィの肩を持つ。
兄が近付いて、魔眼の右目がはっきりと見える事に怯え、マレリィは無意識に身体を固くした。
マレリィの反応に気付き、リィドウォルは手を離して視線を逸した。
「今の内にネイクーンへ行け。王太子の世継ぎを産み、そなたが両国間の距離を縮めるのだ」
「そのようなこと……! 私にはそのような自信はありません」
「だが、
マレリィは口を押さえる。
兄は、自分とエレイシアがフルブレスカ魔法皇国での学園生活の間に、何を調べ、何を望んでいたか知っているのだ。
だが、そこには自らがネイクーン王族に嫁いで、世継ぎを産むなどという望みは含まれていなかった。
「両国が争って、苦しむのは民だ。そなたは両国の希望にならねばならん。私は陛下の下を離れられぬ。だから、マレリィ……」
「出来ません! それに、父上様は? 兄上様は? 陛下の意志に背けば、皆どうなるか……」
マレリィの留学中に行われた政変で、王太子以下、穏健派の貴族院やそれに連なる者達はことごとく粛清された。
マレリィとリィドウォルの兄と母も、裏で関わっていたと断定されて処刑されている。
皇国から母国に戻り、幼い頃から刷り込まれてきたザクバラの教えと、肉親を殺されたことによる恐怖が、マレリィを再び支配しようとしていた。
「無理です、兄上様。このままネイクーンへ行くなど、出来ません!」
「マレリィ!」
「嫌です! 怖いのです! 出来ません、兄上様!」
憎き敵と教えられてきた隣国へ嫁ぐこと、絶対君主の国王に背くこと、何もかもが恐ろしく、マレリィは竦み上がった。
「これ以上騒いでは、人が来ます」
侍従の緊迫した声に、リィドウォルは鋭く舌打ちする。
マレリィの両腕を荒く掴んで、黙って控えていた侍女を睨んだ。
彼女は、マレリィに付いてネイクーンへ行かせる為に、リィドウォルが選んだ者だ。
「マレリィの防護符を外せ!」
侍女が頷き、マレリィのドレスの内に忍ばせてある防護符を素早く外す。
「兄上様!」
「もう良い。覚悟が出来ないなら、そなたは全て忘れて行け。ただ大人しく両国を繋いでいれば良い」
リィドウォルの右目が妖しく紅い光を滲ませる。
「ひっ……!」
逃れようと身を
「……兄上……さま……」
「…………忘れろ、マレリィ」
最後に目に映った兄の顔は、苦し気に歪んでいた。
「精神系の魔術でしょうね。記憶操作なのかな」
ハルミアンが立ち上がって言う。
魔術師長ミルガンも同じく立ち上がり、頷いた。
謁見の間でマレリィが倒れ、薬師が呼ばれたが特に身体には異常はなかった。
ハルミアンが、魔術に関係するかもしれないと言うので、ミルガンとハルミアンがマレリィを診立てた。
「記憶操作だと?」
マレリィの手を握った王が、二人を見上げて不快感に強く眉を寄せた。
「そのようです。部分的に消したか、蓋をしたように感じます」
ミルガンの言葉に、王がギリと歯を鳴らす。
「誰がそのようなことを!」
「おそらく、兄君のリィドウォル卿でしょうね。高位魔術士か魔法士でなければ、記憶に手を加えることは出来ません。リィドウォル卿は魔眼の持ち主ですし、さっきマレリィ妃が倒れる時に『兄上様』と仰いましたから」
耳の良いハルミアンには、あれだけ離れていても聞こえたらしい。
確認するように、王がカウティスの顔を見る。
「はい。そのように聞こえました」
カウティスは神妙に答えた。
「今までにこのような事は?」
「昔から軽い頭痛はよくあるようだった。……婚前の話をした時、強い頭痛を訴えたことがあった。輿入れした頃も頭痛は多かったが、環境が変わったことによる心労だろうと……」
王が心配そうに、目を閉じたマレリィを見る。
「先程倒れられたタイミングに加え、婚姻前後に原因があるならば、ザクバラ国の情報を持ち出させない為に、記憶操作を行ったと見るのが無難かと思いますが」
ミルガンがハルミアンに意見を求める。
「そうですね。
そんな情報を、ハルミアンは一体どうやって仕入れたのか気になるが、今は後回しだ。
「ザクバラ国から、付いて来た者はいなかったのですか?」
ハルミアンが問うが、王は首を横に振る。
「侍女が一人いたが、随分前に亡くなった」
「この魔術は解けないのですか?」
エルノートの問いに、ハルミアンは小さく首を傾げる。
「出来ない事もないですが、下手をすれば脳に損傷を与えるのでおすすめしません。どうしてもと仰るならやってみても……」
「やめてくれ」
王が苦々しく吐いた。
半刻もすれば、マレリィは目を覚ました。
不調はなかったが、倒れる直前の事を話せば、再び頭痛を訴えた。
王は、ザクバラ国の詛について、マレリィに詳しく尋ねることも、話すことも禁止した。
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※不妊毒に関しては、気分を害された方がおられたら申し訳ありません。
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