出来ること
薄い薄い雲が、月の上を流れていく。
月光を遮る程ではなく、セルフィーネはカウティスの部屋の窓際で姿を現していた。
ガラスの小瓶の傍らには、カウティスが贈った木製のバングルが置かれてある。
青白い月光を受け、細かく彫られた鳥の羽根の模様が、より浮き出て見える。
薄い飴色が鈍く輝くのを見て、セルフィーネはほう、と小さく息を吐く。
「何度目の溜め息だ?」
カウティスに突然声を掛けられて、セルフィーネは恥ずかしそうに頬を染めた。
「とても綺麗だから」
セルフィーネ曰く、いつまでも見飽きないらしい。
「だからって、そっちばっかり見てるのはどうなんだ。俺より装飾品か?」
カウティスが口を歪ませて言うので、セルフィーネはクスクスと笑う。
「カウティスが贈ってくれた物だから、特別なのだ」
「……そんな可愛いことを言われたら、また抱きしめたくなってしまうだろう」
カウティスは手にしている確認書類を恨めし気に睨む。
自室でセルフィーネと二人の時は、極力仕事の事はしたくない。
だが、数日前に窓から脱走してからは、部屋に戻る直前にラードから書類束を渡されたり、近隣の町村の嘆願を読むようにと渡されたりする。
こっそり抜け出して、魔力干渉していた罰か。
それともただの嫌がらせか。
バングルを贈ったあの日。
ハルミアンに助けられて、セルフィーネを連れて部屋まで戻った。
その夜は、セルフィーネはずっと窓際でぼんやりしていて、何があったのか聞いても黙って首を振るばかりだった。
それでも聞こうとすれば、戸惑ったような顔で涙を浮かべたので、カウティスは急いで口を閉じた。
翌日の日中はずっと上空にいて、呼ぶまで小瓶には降りて来なかった。
カウティスが窓辺のセルフィーネを見ると、目が合い、いつものように微笑んでくれる。
今はもう、以前の様子に戻っている。
微笑みを返しながら、カウティスは考える。
精霊は嘘をつけない。
泣いている理由は『分からない』と言ったのだから、本人にもきっとよく分からないのだ。
そして、セルフィーネは、バングルを『嬉しい』と言った。
さっきの様子を見ても、贈り物を喜んでくれているのは間違いないと思う。
だが、ああして見ているだけで、再び着けてみたいと望むことも、触れることもしなかった。
それでカウティスは、あの日の話題には触れられないままでいる。
「ハルミアンを王城へ連れて行く。父上も兄上も、会ってみたいそうだ」
まだ当分の間
ザクバラ国の内情は、通信で伝えられる限りは王城に伝えてあるが、竜人の血については直接話すつもりだった。
ハルミアンが王城へ行くなら、彼の口からもう一度語ってもらおう。
「ハルミアンが西部に居着いたら、ネイクーンの建築技術は上がるかもしれないな」
セルフィーネが楽しそうに言うので、カウティスは気に入らない。
「ハルミアンを褒めるな」
「褒めた? 可能性の話をしただけだ」
「それでも、楽しそうに話すな」
あの時狼狽えるばかりで、ハルミアンに助けてもらわなければどうすることも出来なかった事が、未だに悔しい。
カウティスの拗ねたような言い方に、セルフィーネは胸がジワリと疼いた。
「……カウティス、抱きしめて欲しい。良いか?」
「勿論。おいで」
書類束をポイと机に捨て、カウティスは笑顔で両腕を広げる。
セルフィーネが窓際から姿を消すと、見えない彼女を抱きしめる。
何もないようでいて、胸に彼女の気配を感じるような気がするのは、自分の想像力故なのだろうか。
「カウティス」
側に水差しがあるからか、姿は見えなくても細く声が聞こえた。
「好きだ」
「っっ……」
カウティスは熱い息を詰める。
こんな状態でそんなことを言うなんて、ズルい。
腕に力を込めることも、口付けることも出来ないではないか。
セルフィーネを守りたい。
もうあんな風に泣かせたくない。
その為に、一体何が出来るのだろう。
「俺も、好きだ」
今出来るのは、ただこの想いを口にすることだけで、心を込めて、何度も『好きだ』と言った。
彼女が頬を染める姿を見た気がして、カウティスは熱い息を吐く。
王城へ戻ったら、泉で彼女を抱きしめよう。
そう考えて、今夜も川へ忍んで行くのは我慢した。
風の季節前期月、三週五日。
カウティスとラード、そしてエルフのハルミアンは、王城へ到着した。
現王の治世下で、王城へ公式にエルフが招かれるのは初めての事で、結局謁見の間には貴族院の面々も肩を並べ、大仰な歓迎になった。
しかし、優雅に微笑んで挨拶をしたハルミアンが、拠点に長期滞在を希望する理由を聞かれて、新しい堤防の造りが如何に効率的で画期的な物か、熱を孕んだ瞳で猛烈に語り出すと、皆のエルフへのイメージが壊れていく音が聞こえた気がした。
「いやぁ、皆さん物凄く熱心に聞いて下さるから、こちらも熱が入りました」
貴族院の面々がそそくさと退散した後、ハルミアンはすっきりした顔で言った。
あれだけ語ればすっきりもするだろう。
「そなたの勢いに、誰も止めに入れなかっただけだと思うぞ」
既に元々のエルフへのイメージを壊されているカウティスが、呆れ気味に言った。
そうかな、というような顔で首を傾げるハルミアンは、そうやって黙っていれば、物凄い美形だ。
「まあ良いではないか。ハルミアン殿のおかげで、新しい堤防が、ベリウム川の氾濫抑制に大いに役立ちそうな事は分かったのだから」
王座から、可笑しそうに笑って王が言った。
「光栄です、陛下。どうぞ、ハルミアンとお呼び下さい」
ハルミアンは微笑んで一礼する。
そして、王座とその下段に並ぶ人間を流し見て満足気な顔をした。
貴族院達が退室したので、謁見の間の王座付近に残っているのは王族の五人と、宰相セシウム、魔術師長ミルガン、騎士団長バルシャークだけだ。
「いやぁ、ネイクーン王族の方々は水の精霊で慣れているからでしょうか、
最後は独り言のように言って、ハルミアンはふふと笑う。
「ハルミアン殿は、フォーラス王国での娘を……フレイア妃を良くご存知なのですか」
王座の下段で、王太子エルノートの隣に姿勢良く立っていたマレリィが、僅かに身を乗り出した。
「はい。魔術師長と共に、親しくさせて頂いております」
ハルミアンがニッコリと微笑むと、マレリィも柔らかい表情になる。
「お時間が許すならば、ぜひフォーラス王国での娘のことをお聞かせ願えませんか?」
「喜んで……と言いたいところですが、三年程フォーラスへ戻っていないのですが、それでもよろしいですか?」
「勿論ですわ」
「フォーラス王国には戻られないのですか?」
マレリィ達より、更に下段にカウティスと並んでいたセイジェが聞いた。
「戻りたいのですが、最近皇国より北へ行く大街道や山中は物騒なのです。一人で危険を冒して襲われるより、興味のある国々をもっと回ろうかと思いまして」
「エルフを襲うのですか?」
セイジェは濃い蜂蜜色の瞳を、驚きに見開く。
「珍しくありませんよ。捕縛して、観賞用に飼おうとする人間だっています。エルフに魔法が使えても、この世界の強者は圧倒的繁殖数を誇る人間ですからね」
ハルミアンは淡々と言ったが、深緑の瞳は昏く、普段は年若く見える美しい顔は、どこか老齢の雰囲気を纏っていた。
「それで、ザクバラ国の内情についてもう一度話せば良かったのでしたか?」
空気が変わったように感じたのは一瞬で、ハルミアンは明るい口調でカウティスの方を見た。
カウティスは、ハルミアンが人間のことを“世界の強者”と呼んだ事に衝撃を受けていたが、話を振られて我に返った。
「ああ。ザクバラ国の
「詛? ザクバラ国の詛とは何だ?」
不穏な言葉を聞き、王が眉根を寄せてマレリィを見た。
「……ザクバラ国は、昔から王族に突然死や不審死が多いのです。それを民が呪いだと噂したものが、年月を重ねてその表現に定着したと聞いています」
マレリィは目を伏せ気味に答えた。
カウティスは、一段下から母を気遣うように見上げる。
やはり、母も詛の事を知っているのだ。
「そうです。そもそもその詛は、ザクバラ国が、ネイクーン王国の水の精霊以上の宝を求めた事から始まりました。フルブレスカ魔法皇国は、ザクバラ国に竜人の血を与え……」
ハルミアンは、拠点でカウティス達に話した内容を、ここでも同じ様に語る。
竜人の血が、ザクバラ国にどれ程の恩恵を与え、その後どのように“
ハルミアンの話に皆が集中する中、カウティスは母が気になってちらりとそちらを窺った。
マレリィは顔面蒼白で、目を見開いて立っていた。
その顔色に驚き、カウティスが駆け寄ろうとした時、マレリィは痛みを感じたように顔を顰め、こめかみを押さえて前のめりに倒れた。
「母上!」「マレリィ様!」
気付いて横から手を伸ばしたエルノートと、駆け寄ったカウティスとで、何とか床に倒れ込む前に身体を受け止める。
「薬師を呼べ! 母上!」
叫ぶカウティスの胸の金具に髪留めが当たり、結い上げていたマレリィの艷やかな黒髪が散った。
「……兄上様……」
苦し気に吐く息の間に、小さな声が聞こえた。
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