決別の儀式

「…………ん」

セルフィーネの極小さな声が聞こえて、カウティスは目を開け、急いで力を緩めた。

気持ちが先に立って、腕に力を込め過ぎてしまった。


「すまない。痛かったか?」

少し身体の間を空け、焦って聞くと、セルフィーネは不思議そうな表情をして、自分の左鎖骨の辺りを撫でた。

「何か固い物が当たって……。ここが、なんだか……」

カウティスの右胸の内ポケットに入れていた物が、ちょうどセルフィーネの鎖骨に当たっていたようだ。

サラリとした細い髪の隙間から、彼女の白い肌の鎖骨部分が赤くなっているのが見え、思わず喉が鳴ってしまった。

「……それは多分、“痛い”ってことだな。すまない。いつ渡せるかと思って、入れたままだった」

白い首元から急いで視線を逸し、カウティスは内ポケットから厚みの薄い小箱を取り出す。


セルフィーネの手を取り、その薄い掌に、レースの白いリボンが掛かった小箱をそっと置いてみる。

魔力干渉中なら、物も持てるだろうか。

「持てるか?」

「……カウティスが離れないでくれたら、大丈夫かもしれない」

セルフィーネは僅かに形の良い眉を寄せ、難しい顔をした。

カウティスには分からないが、不安定さを感じるのだろうか。

「くっついておけば良いのか?」

彼女が頷くので、カウティスは片手で彼女の肩を抱いてから、小箱からゆっくりゆっくりと手を離す。



小箱はセルフィーネの掌の上から落ちなかった。


自分の掌の上に小箱がある事が不思議でならないようで、彼女は大きく開いた紫水晶の瞳を、しきりに瞬いている。

「セルフィーネ、開けてみて」

カウティスが優しく促すと、セルフィーネは細い指先でレースのリボンの端を摘み、頼りなげな動きでそっと引いた。

スルリ、とリボンの結び目が緩むと、セルフィーネは、いつの間にか息を詰めていた事に気付き、小さく息を吸った。


カウティスは、彼女の小さな反応が全て愛おしく、静かに見守りながら、頭に軽い口づけを落とす。

セルフィーネは不安と期待が混じったような顔で、一度カウティスを見上げた。

カウティスは彼女を安心させるように、頭に、額に、目尻に、口付けをする。

セルフィーネは僅かに微笑んだ。


固まったように手が止まったままのセルフィーネに向かって、カウティスは小さく笑う。

「まだ開いてないぞ」

セルフィーネは視線を戻し、再び指を動かす。


指先が箱の蓋に触れると、ピクリと震えた。

初めての“痛み”、初めての“物に触れる感触”に、セルフィーネの心は否応もなく揺さぶられて、知らず知らずの内に息が浅くなった。

箱を開けたいのに、指が震えて上手く蓋を持てない。

「ゆっくりで良いよ」

耳元で優しく囁かれ、彼女は小さく頷き、震える指先で、ようやく小箱を開く。

「開いた……」


感極まったように、薄い淡紅色の唇を歪ませたセルフィーネが、カウティスを再び見上げた。

「カウティス、開いた。私が開けた……」

「まだだ。ほら」

箱の中にある薄布で包まれた物を、カウティスが指差した。

セルフィーネは細い指先で布越しに何度かそっとなぞると、コクリと小さく喉を鳴らし、おそるおそる開いていく。


中から現れたのは、ギリミナの街で買ったバングルだ。

「そなたへ、俺から初めての贈り物だ。着けてみても良いか?」

「…………着けられるのだろうか」

「箱が持てたんだ。きっと、着けられる」


カウティスが薄い飴色のバングルを手に取った。

反対の手でセルフィーネの手を取ろうと思ってから、『離れないで』と言われたことを思い出す。

両手を使ったら離れてしまうかと、カウティスはセルフィーネを引き寄せて後ろを向かせると、背中を抱き込んだ。

首を傾げるようにして、彼女の背中越しに左腕を取ると、鼻先を滑るように髪が撫で、朝露のような蒼い香りがして、鼓動が早くなる。

抱き込む腕に力を入れそうになって、はあ、と息を吐いた。

そして一度息を吸うと、その細い手首に、バングルをゆっくり挿し込む。


そっと手を離せば、繊細な彫りのバングルが、セルフィーネの白い手首で得意気に揺れた。




「……指輪にすれば良かったかな」

そんなことを言いながらも、贈り物が彼女の身を飾った事に満足して、サラリと流れる滑らかな髪に頬擦りすると、セルフィーネが小さく肩を揺らした。

カウティスは顔を離し、横からセルフィーネの顔を覗き込む。


彼女は泣いていた。


「また泣いてるな」

カウティスは軽く揶揄するように笑った。

感情をはっきりと表すようになってから、セルフィーネはとても泣き虫だ。

きっとまた、嬉し泣きするんじゃないかと思っていた。


しかし、今日はその泣き顔に、嬉し涙とは違うものを感じて、カウティスは顔色を変えた。

「……セルフィーネ、どうした?」

セルフィーネの目線は、確かに左手首に揺れる優美なバングルに向かっている。

それなのに、何故か悲しいような、寂しいような表情で、静かに涙を零している。

「気に入らなかったのか? それとも、着けたくなかったか?」


確かにセルフィーネが気に入った品を購入したはずだ。

嬉しそうにしていたと思う。

だが、そういえば、欲しいとも着けてみたいとも聞いていない。

彼女に贈り物をすることで悦に入って、本当の彼女の希望を聞かなかったのではないだろうか。


「すまない。そなたの気持ちをもっと聞けば良かった」

カウティスは一人狼狽えて、セルフィーネの頬に流れていく涙を指で拭う。

セルフィーネはようやく首を動かし、カウティスの方を見た。

涙で潤みきった瞳はどこか虚ろで、透明の雫が次々と溢れ出して、カウティスの指を濡らしていく。

「セルフィーネ、何か言ってくれ……」

心配そうに眉を寄せ、壊れ物を触るように頬に触れるカウティスに、彼女は呟く。

「…………嬉しくて……」

「そうではないだろう? 一体どうしたんだ……」

「違う、本当に、嬉しい。……分からない。でも……どうして……」

セルフィーネはさめざめと涙を零し、手首で揺れるバングルを呆然と見つめる。

「セルフィーネ……そんな風に泣くな」

セルフィーネが涙を流す姿が胸を締め付け、カウティスは彼女をそっと抱きしめた。


カウティスの厚い胸板に頬を寄せ、小さくしゃくり上げると、更に切なさが胸から込み上げて、セルフィーネはとうとう嗚咽を漏らした。

凭れ掛かったまま、ただ泣き続ける。

「泣かないでくれ……頼む……」

カウティスはどうすることも出来ず、胸の中で泣き続ける、彼女の細い髪を撫でていた。




白い手首で、小気味良く揺れる細いバングル。

私の為にカウティスが用意してくれた、初めての贈り物。


嬉しくて、嬉しくて。


それでも精霊である自分には、決して着けられないと思っていたのに、カウティスの手で挿し込まれたバングルは、あっさりと手首で揺れた。


そして、唐突に気付いてしまった。

魔術で創られたドレスではなく、真実人間の手によって作られた品物バングルを身につけられた自分は、以前とは変わってしまった。

世界を支える精霊とは、もう別の物になってしまったのだと。


それはまるで、決別の儀式のようだった。


カウティスと共に生きる為ならば、例え精霊でなくても構わないと誓った。

今もその気持ちは変わっていない。

ただ、言い様のない喪失感が広がり、痛い程の寂しさが込み上げて、胸を深く抉った。

悲しい、苦しい。

感情が渦を巻き、何もかもが綯い交ぜになって、止め処無く涙が溢れ続けた。



カウティスに添って、泣きながら身を任せている内に、唐突に魔力干渉が途切れた。

その瞬間、飴色に鈍く輝くバングルが、セルフィーネの手首をすり抜けて、足元の水面にトプンと落ちた。





扉の外からカウティスに声を掛けても、一向に反応がない為、ラードは扉を開ける。

そして無人の部屋と、開け放したままの窓を見て、軽く舌打ちする。

「あんの脱走王子め」

急いで建物の外へ出れば、マルクとハルミアンが、月の存在薄い空を見上げていた。


ラードは二人の表情を見て、カウティスと水の精霊が、また何かをやらかしたのかと思った。

「マルク、何かあったのか?」

マルクの肩を掴んで聞けば、彼も戸惑った様子でラードと空を交互に見る。

「あの、私にも良く分からないんです。精霊達がざわめいていて……」

「何だそれ。何故そんなことが?」

ラードにはさっぱり分からないことで、思わず灰色の眉を寄せる。


「凄いやぁ」

ハルミアンがマルクの横で、空を見上げたまま呟いた。

二百年近く生きているが、精霊がこんな風に騒ぐのは初めて見る。

きっと、水の精霊との近付く決別を悲しんでいるのだ。


「もしかして、僕は物凄い瞬間に立ち会っているのかな」

ハルミアンは深緑の瞳を輝かせた。



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