変わりゆく世界
休憩
風の季節前期月、二週五日。
午後の二の鐘が鳴る前、王城の王太子の執務室をセイジェが訪れた。
「兄上。少し休憩されませんか?」
セイジェが、執務机に向かったままのエルノートに言う。
借りていた資料を返すついでに、一緒にお茶でもどうかと用意させた。
以前は、ほぼ毎日柑橘系のお茶を飲んでいたエルノートだったが、毒を盛られて以降は、すっかり午後の休憩をとらなくなってしまった。
お茶の用意をしたワゴンを、侍従が運んで来たのをチラリと見て、一瞬エルノートの眉が寄った。
しかし、部屋に広かった香りに興味を引かれたのか、ゆっくり顔を上げる。
「セイジェ、これは何の香りだ?」
「フルデルデ王国の香辛料です。メイマナ王女に教えて頂いた飲み方なのですが、なかなか味わい深くて美味しいですよ。兄上にも飲んで頂こうかと」
侍従が、ソファーの前の低いテーブルに用意を始める。
鼻孔をくすぐる香りに惹かれ、エルノートは久し振りにこの時間に席を立った。
エルノートがソファーに腰を下ろすと、セイジェも嬉しそうに向かい側に座る。
小皿の上に、指の長さ位の細い木の枝のような物が置かれてあって、ガラスの小さな器には、焦茶色の砂糖が入っていた。
普段飲むお茶よりも、数段濃く入れられた
カップの底の花模様も、薄っすらとしか見えない。
その上から温められたミルクを同量入れて、香辛料の粉を振り、木の枝を添えて勧められた。
セイジェは迷わず焦茶色の砂糖を一匙入れて、小枝で混ぜている。
甘い物が苦手なエルノートは、砂糖を入れずにそのまま飲んでみた。
鼻に抜ける香辛料の香りは、以前メイマナが用意した焼き菓子と同じものだ。
濃く入れたお茶の渋みと、香辛料の刺激的な香りが、ミルクのおかげて角が取れて飲み易い。
「美味しいな」
「そうでしょう? ミルクをたっぷり入れるなんて、フルデルデ王国ならではですよね。砂糖を入れてもコクが増して美味しいです」
フルデルデ王国は酪農地帯の多い国だ。
お茶にミルクを入れて飲むのは、日常のことらしい。
エルノートの表情が緩んだので、セイジェは濃い蜂蜜色の目を細めた。
「このお茶は入眠を良くするらしいので、寝る前に飲むのもお勧めだそうですよ」
笑顔で雑談の続きの様に言ったセイジェに、エルノートは顔を上げる。
「…………心配を掛けてすまないな」
不意に兄の口から出た小声の言葉に、思わずセイジェは真顔になってしまった。
エルノートはカップに視線を落とす。
兄がまさか、他人から心配されることを、こんな風に受け止めてくれるとは思わなかった。
セイジェは嬉しさと安堵感で、脱力するように息を吐いた。
メイマナ王女との出会いが、兄に纏わりつく陰鬱とした陰に、僅かなりとも光を差し込んだのだ。
蜂蜜色の柔らかな髪を肩で揺らし、セイジェはふふふと嬉し気に笑う。
「メイマナ王女は、今どの辺りを走っておられるでしょうね」
「昨夕エスクト領に入ったようだから、今日中には我が国を出られるだろうな」
当たり前の様に答えたエルノートに、セイジェは目を丸くする。
「把握しておられたのですか?」
「国賓なのだから、無事に国を出るまでは確認するだろう」
「……そこは、『大事な婚約者殿が心配だから』と仰れば良いのに。兄上はまだまだ甘さが足りないなぁ」
エルノートが怪訝そうな顔をするので、セイジェは苦笑した。
「この分では、兄上とメイマナ王女の方が、私よりもずっと早く婚約式を挙げそうですね」
「そうだな」
メイマナは、今月中にはフルブレスカ魔法皇国から国家間婚の許可を取り付けて、年内には婚約式を挙げたいと言っていた。
国家間婚では異例の早さになるし、フルデルデ女王が許可しなければ実現しないことだが、メイマナの笑顔と行動力を見ていると、実現しそうに思える。
セイジェとザクバラ国のタージュリヤ王女は、フルブレスカ魔法皇国で国家間婚の許可は下りており、婚約者としての扱いにはなっているが、まだ正式に婚約式を挙げていない。
両国で婚約式を行うのは、エルノートの即位を待って、その後に行われる事になっていた。
内外に婚約者として振る舞えるのは、一般的に婚約式の後からなので、今はまだ宙ぶらりんの状態に近い。
「ザクバラ国王は老年で、王太子は長く患っていると聞きますし、婚約式は急ぐのかと思っていたのですが」
セイジェがもう一口お茶を飲んで言うと、エルノートが表情を固くする。
「ザクバラ国の内政に関しては、分からない事が多いな。
「どのような意図でしょう」
セイジェがカップを置いた。
「さあな。どのようなやり取りを求めても、表立って出てくるのが宰相ザールインと貴族院ばかりで、ザクバラ国王が鳴りを潜めていることも気になる」
一部で死亡説も流れているが、それはおそらく悪意のある噂だろう。
フルブレスカ魔法皇国は、従属国の独立性を鷹揚に認めてはいるが、君主の忠信は強く求める。
ザクバラ国王が崩御しているなら、数年間も放置しているはずはない。
「西部からの報告では、リィドウォル卿は更迭されたと言うし、上層部で何か起こっているのかもしれないな」
リィドウォルの名を聞いて、セイジェは軽く顔を顰める。
リィドウォルはセイジェの乳母が刺した相手だ。
何故、乳母があの場で彼を刺したのか、詳しいことは結局分からないままだったが、セイジェにとっては因縁の相手に等しい。
彼はザクバラ国王の側近だと聞いていたので、ザクバラ国へ行けば関係は避けられないかと思っていたが、更迭とは。
「せめて、そなたがザクバラへ向かうまでにはもう少し内情を探っておきたいが……」
エルノートはカップを揺らす。
僅かに残った白茶色のお茶が揺れ、カップの底で香辛料の細かな粒が見え隠れした。
「甘い物が食べたい……」
西部の拠点では、カウティスが大型テントの中でポツリと呟く。
テントの中には机と椅子が並べられ、会議が終わって皆が、席を立って出ていくところだ。
休憩を挟んで、また別の会議が残っている。
カウティスは揃えかけの書類を手放して、黒髪の頭を掻く。
朝から頭を使い過ぎて、糖分が欲しい。
「砂糖でも貰って来ましょうか?」
「欲しいのは材料じゃないっ」
ラードが器用に片眉を上げて言うので、カウティスは噛みつく。
「砂糖じゃなく、砂糖菓子が食べたいのだ」
「それは、どう違うのだ?」
笑っているラードを横目に見て、セルフィーネがカウティスの胸で小首を傾げる。
「砂糖はただの甘味料だろう。砂糖菓子は合わせた材料によって味は違うし、見た目も食感も色々だぞ。季節によって違う種類の物が出回るし……」
説明に熱を感じるのは、気のせいだろうか。
「
セルフィーネが問うと、カウティスは溜め息と共に黒い眉を下げる。
「甘味は嗜好品だからな」
拠点はあくまでも、復興を目的とする集団の場だ。
生活に必要な物は揃えてあるが、嗜好品や娯楽品はそれぞれが持ち込み、量も制限がある。
カウティスも王城へ戻る時には、厨房の製菓長に頼んで、日保ちする物を幾らか拠点へ持ち帰るが、それも数日で食べ切ってしまう。
自分だけ大量に持ち込む訳にもいかないのだ。
セルフィーネは、カウティスが子供の頃から様々な菓子を休憩で持って来ては、泉の縁に腰掛けて食べていたのを思い出す。
そういえば、紙に包んだ砂糖菓子を持って来ることは多かった気がする。
シャリシャリとくすぐったいような音を立てて食んでいる姿は、いつも幸せそうだった。
カウティスは、今もあんな顔をして食べるのだろうか。
カウティスの顔を、胸から見上げて考えていると、目が合った。
「どうした?」
「…………見てみたくて」
砂糖菓子を食むカウティスを見たいと思ったのだが、カウティスはセルフィーネが砂糖菓子を見てみたいのだと勘違いしたらしい。
パッと目を輝かせて言った。
「街に買いに行くか!」
セルフィーネと話しているのだろうと察して黙っていたラードが、カウティスの言葉を聞いて苦笑いする。
「まだ打ち合わせが残ってるんですから、今日は駄目ですよ」
「いつなら良いのだ?」
がっかりして頬杖をつくカウティスを見下ろし、ラードは予定表を捲ってみせる。
「……明日なら良いですよ。どうせならギリミナの街に行きましょう。アスタ商業連盟から別の情報があるかもしれません」
ギリミナの街は、北部の最西の街だ。
ネイクーン王国の北に位置する、アスタ商業連盟との国境に近い為、そちらからの物流も多く、城下では見ないような品を扱う店もある。
アスタ商業連盟は、大陸中の国々と交易しているので、ザクバラ国のまた違った情報が仕入れられるかもしれない。
「そなたも行くのか?」
あからさまに不満気な顔をするカウティスに、ラードは半眼になる。
「当たり前でしょう。何です? 水の精霊様とデートするつもりだったんですか?」
「そっ、そんな訳ないだろう」
慌てて否定するあたり、図星だったようだ。
「まったく。ギリミナの中心に着いたら別行動にしてあげますよ」
ラードが呆れ顔でそう言えば、カウティスは即姿勢を正して、目の前の紙束を整頓し始めた。
「やる気が出てきた」
「カウティス」
呼ばれた方を向けば、胸に添った小さなセルフィーネが、ほんのり頬を染めて見上げている。
「明日は、街へ?」
「そうだ。デートしよう」
カウティスが笑って小声でこっそりと答えると、セルフィーネの水色の髪先が嬉し気に弾んだ。
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