神話の世界
マルクの言葉に、部屋の空気が一変した。
「っ……」
カウティスの放った怒気が首を締め、マルクは息を詰めて喘いだ。
「いや!……絶対に、嫌だ」
セルフィーネの固い声が聞こえ、僅かにカウティスの怒気が薄れて、マルクは浅く呼吸をする。
カウティスはセルフィーネの方を見て、左手を彼女の
「大丈夫だ、セルフィーネ。絶対にそんなことはさせない」
カウティスは剣呑な視線をマルクに向ける。
「……マルク。一度だけ聞く。セルフィーネが私にとってどういう者か、そなたは知っているはずだな?」
剥き出しの怒りを感じ、マルクの背に冷たいものが走る。
無意識なのか、カウティスの腰の長剣の柄に右手が添えられていて、マルクの血の気が一気に引いた。
言葉も出ず、口を開けたまま浅い呼吸を繰り返す。
水の精霊から、口付け云々を聞いた時に気付くべきだった。
王子の魔力干渉は、
二人が魔力干渉で本当に触れ合っているのだとしたら、それは恋人同士が肌を合わせる行為に等しいのかもしれない。
二人の不思議な魔力干渉の実態を解明することに気を取られ、その可能性を失念していた。
しかも、ずっと西部で気兼ねなく接している内に、カウティスが王族であることの意識が薄れていた。
この場で不敬罪で斬られたとしても、おかしくないのだ。
カウティスの青空色の瞳に、濃い怒りを見て取り、マルクは堪らずその場に膝をついた。
「お許し下さい! 決して、決して他意はございませんっ!」
上擦った声で言って、跪礼する。
カウティスは暫く静かに見下ろしていた。
「……二度目はないぞ」
その一言と共に、周囲の圧が下がって、マルクはようやく震える息を腹から吐いた。
「
セルフィーネが一言呟いて、姿を消してしまった。
「申し訳ありません……」
力ないマルクの声と、項垂れた栗色の頭を見下ろし、カウティスは大きく溜め息をついた。
「マルク。私はそなたを信用している。興味本位であんなことを言うような者ではないはずだ。……何か理由があるのか」
カウティスに『信用している』と言われて、マルクは反射的に顔を上げた。
カウティスから怒気は消えていたが、その瞳は固い。
自分でも日々感じていた王子との信頼関係を、不用意な言葉で損ねてしまうところだったのだと、悔いる気持ちが湧く。
マルクはこれ以上失態を犯さぬよう、決意して慎重に口を開いた。
「……王子と水の精霊様の魔力干渉に不可思議なことがあり、仮説を立てました。その検証をしたいと考えたのです」
「検証? どういう事だ?」
カウティスが怪訝そうな顔をした。
マルクは一度深呼吸する。
「水の精霊様から、魔力干渉で『息が苦しかった』と聞きましたが、カウティス王子もそれを知っていましたか?」
思わぬ問い掛けに、一瞬カウティスが口籠ったが、頷く。
「では、やはり、水の精霊様は呼吸しているのですね?」
「それがどうかしたのか」
「魔力干渉で触覚が刺激されるとは聞いたことがありませんが、水の精霊様のように強い魔力なら、もしかしたらそう感じることもあるのかもしれないと思いました。しかし、呼吸は別です」
「なぜ別なんだ?」
「“息をしていないと苦しい”ということは、生物でなければ有り得ない事だからです。生命活動をするものでなければ、呼吸はありません」
「生物?」
カウティスはその言葉が呑み込めずに、呆然とする。
「……私達と同じように、セルフィーネが生きているというのか? 実体がないのに? 触れたくても触れられないのに、一体何処で生きているというのだ!?」
混乱に、自然とカウティスの声音が荒れる。
マルクはそれに引きずられないよう、極力落ち着いて声を出すよう心掛ける。
「神話をご存知ですよね?」
「神話?」
全く別の話に変わったようで、カウティスは深く眉を寄せた。
偉大なる太陽と月の兄妹神は、七つの世界を創り、それぞれに別の生き物を育てた。
それぞれが進化した頃、神は七つの世界を融合させて、一つの世界にしようとする。
一つは融合出来ずに消滅し、一つは部分的に融合し、残りの五つが溶け合い、融合した。
それがこの大陸である。
以前、アナリナが南部巡教の際にも子供達に語っていた。
聖職者によって語られる事が多い神話だが、神々の存在が近いこの世界では、子供の頃から昔語りのように耳にする。
「魔術士の間では、神話はほぼ事実だと言われています。人間の世界は融合した五つの世界の内の一つです。消滅した世界に関しては分かりませんが、部分的に融合した世界は魔界とされ、魔獣が現れるのはそこからだと解明されていて……」
「マルク、ちょっと待て!……一体何の話が始まった? セルフィーネの話だったろう」
カウティスは掌を広げて、マルクの前に付き出す。
「関係のあることです」
マルクは至極真面目な調子で頷いた。
カウティスは暫く考えていたが、数度瞬いて聞く。
「……セルフィーネに関係があるのだな?」
「おそらくは」
カウティスは手を下ろして、椅子に座り直す。
「続けてくれ」
「私達の住む世界は一つのようで、実は五つの世界が層になって重なっていると言われています。例えて言うなら、この布の様な物です」
マルクは部屋の端に歩いて行き、置かれている衝立の布を取って机の上に広げる。
衝立の布は、この建物が建つ前、大型のテントで寝泊まりしていた頃に、仕切り布として使用していたものだ。
風通しが良いように、目が荒く織られた柄違いの薄い布を、三枚重ねて縫い合わせてある。
三枚合わせることで複雑な模様に見え、目隠しにもなる一枚の丈夫な布になる。
「机が大地、布が私達です。竜人界、鳥獣界、節足界、妖精界、人間界の五つの
カウティスは深く眉を寄せたまま、黙ってマルクの話に聞き入る。
「異種族で同じ世界に存在していますが、実のところ私達はそれぞれ別の世界に生きています」
マルクは縫い合わさった布の、薄い一枚を摘む。
布は三層に分かれるが、マルクが手を離せば重なって机の上に落ちた。
「同じ
「はい。例えば人間は馬に乗り、馬の息も汗も感じますが、厳密には馬は鳥獣界におり、人間界の私達とは別の
カウティスは更に困惑する。
「だが私達は、家畜や魚を殺し食べるぞ。別の世界だと言うなら、それはどうなる?」
マルクは手近にあったペンで、机の上の布を突く。
目の荒い布は、易々とペンの先を通した。
「殺傷なら、このように層が別でも出来ます。そして、精霊を通さず、私達が他の世界と交わる方法は、正に
あまりにも規模の大きな話に戸惑い、カウティスはこめかみを押さえた。
目の前に広がる当たり前の世界が、揺らぐ気がする。
精霊は、この世界を支えている。
それは全ての世界を融合させているのが彼等だからだ。
部分的に融合している魔界からは、精霊がバランスを崩し魔力が歪むと、そこから魔獣が湧き出て来る。
「……ならば、水の精霊であるセルフィーネは、世界を繋げるものの一部か」
カウティスが固い声で呟くと、マルクが難しい顔をする。
「そのはず、でした。……しかし、水の精霊様が呼吸をして生きているとすれば、それは何処かの世界に存在する生命体だということになります」
「……生命体」
カウティスがゴクリと喉を鳴らす。
「近い例では、二百年程前に世界に出現し始めたドワーフです。彼等はエルフと同じ妖精界に住まう種族で、妖精界の進化と共に生まれ、出現する前の何十年間は、各地で実体のない幻の様な姿を度々目撃されました」
実体のない幻の様な姿と聞いて、カウティスは息を呑む。
「……つまり、セルフィーネは何処かの世界で進化の途中の生命体だと、そう言いたいのか?」
「あくまでも、仮説と可能性の話です」
マルクは深く息を吐く。
「……それで、それを確かめようと魔力干渉を提案してしまいました。本当に、申し訳ありません」
最後の方は声が小さくなった。
カウティスは呆然とする。
最後のマルクの謝罪は、頭に入ってこなかった。
セルフィーネが生命を持ち、ドワーフのように実体を現すようになるかもしれない。
それはカウティスにとって、胸の内を掻き乱す内容だった。
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