初めて知ること
「慌ただしい一日だったな」
カウティスは王城の泉の縁に座り、深く息を吐く。
「カウティスは、大体いつも慌ただしいと思うが」
「何だ。俺が落ち着きのない奴みたいじゃないか」
側に座るセルフィーネに言われて、カウティスは顔を
今日、カウティスはマレリィに直接祝いの言葉を伝える事が出来た。
照れはしたが、会いに行って良かったと思う。
だがあの後、セイジェと王に相当
少し離れた所で貴族院の者達と話していて、カウティスとマレリィのやり取りを全部見ていたらしい。
気が付かなかったのは不覚だった。
そしてエルノートは、二人に弄られるカウティスを見て思い切り笑っていた。
「笑われる為に帰って来たようだ」
カウティスは不満気に口を歪ませる。
「皆が楽しそうで良かったではないか。それに、マレリィ妃はとても嬉しそうだ。今も、カウティスから贈られたオルゴールを聴いているぞ」
「覗くな」
硬質な瞳になって、遠くを見るように言うセルフィーネを、カウティスは照れ隠しに軽く睨んだ。
今夜も月は、青白い光を降らせている。
風の季節に入って、さすがに夜は少し肌寒く感じる。
これからはネイクーン王国でも朝晩は寒さが増していく。
「人間とは、とても情の深い生き物なのだな」
セルフィーネが月を見上げたまま、ポツリと呟いた。
カウティスは隣に座るセルフィーネを見た。
「親は子を、子は親を。夫婦や恋人、兄弟や友人まで、皆互いに情をかけ合う。私は何百年も存在していたのに、全く理解していなかった」
セルフィーネは軽く首を振る。
水色の細い髪がサラサラと揺れ、彼女の白い腕の上を流れていく。
「カウティスと出会ってから、新しく知ることばかりだ。……世界を支えている精霊だと言われても、私は本当は何も知らなかったのかもしれない」
カウティスはセルフィーネの頬に手を伸ばす。
「俺だってそうだ。そなたと出会ってから知ったことがたくさんある」
自分だけが特別でありたいと思う気持ち。
大切なものを奪われる苦しみ。
会いたくても会えない寂しさ。
想いが繋がる幸せも、触れ合える喜びも。
「俺はそなたと出会って、こんなに誰かを愛しいと思えるなんて、初めて知ったよ」
カウティスが顔を近付けると、セルフィーネはそっと瞳を閉じる。
彼女の長いまつ毛が僅かに震えるのを見ながら、カウティスは唇を軽く重ねた。
顔を離して目を開ければ、彼女は潤む紫水晶の瞳を細め、頬を染める。
セルフィーネは深呼吸するように胸を張り、目を閉じた。
「……なんて気分だろう。不思議だ。月光さえも、初めて浴びる光のようだ。とても気持ちが良い」
目を閉じたまま顎を上げると、細く長い髪が肩から滑り落ち、後ろへサラリと流れた。
空から降る青白い月光が、淡く輝く彼女の身体に降り注ぐ。
普段なら美しいと見惚れる姿に、僅かに青銀の輝きが混じった気がして、カウティスは反射的にその細い肩を掴もうと右手を伸ばしたが、実体のないセルフィーネの肩はすり抜けた。
驚いたようにセルフィーネは目を開き、そして不思議そうにカウティスを見つめる。
「カウティス?」
「あ……いや、すまない。そなたが、月光に溶けてしまいそうに見えて……」
狼狽えたように言葉を濁して腕を下ろすカウティスに、セルフィーネは微笑みかける。
「溶けたりしない。私はカウティスと共にいる」
言って白く細い指で、カウティスが泉の縁に下ろした右手を撫でた。
カウティスは彼女を見つめ、その手を握る。
「セルフィーネ、そなたに触れたい」
セルフィーネの紫水晶の瞳が揺れる。
カウティスの澄んだ青空色の瞳に見つめられると、彼女の胸の奥が小さく疼く。
「……触れて」
呟くように言うセルフィーネの周りに、薄っすらと魔力の美しい層が見え始めると、カウティスはその感触を確かめるように、右手の中にある彼女の細い手を握り直した。
僅かにひんやりとした滑らかな指が、カウティスの手を握り返す。
「……好きだ」
母にはなかなか言えない自分の気持ちが、セルフィーネの前では止められずに溢れ出てしまう。
「好きだ、セルフィーネ」
右手で彼女の左手を握ったまま、左手を水色の細い髪に差し込む。
手首にサラリと流れる、絹糸のような感触に胸を掴まれ、堪らず引き寄せて抱き締めた。
腕に、頬に、鼻先に、その細く柔らかな髪が触れ、一瞬、朝露のような蒼い香りが鼻孔をくすぐった。
「私も、好きだ」
セルフィーネの優しい声音に、鼓動が早くなる。
カウティスは、今度こそ衝動のままに彼女を傷付けまいと、一度深呼吸した。
そのまま薄い唇を
「鼻で息をしろよ」
時折頬をくすぐるセルフィーネの鼻息が、カウティスの心を揺さぶる。
固く繋いだ掌と、重ねた柔らかな唇。
抱き寄せた細いしなやかな身体。
全てが愛おしくて、抱き締める腕に力が入ってしまう。
それでも、唇の間から漏れたセルフィーネの熱い吐息に、僅かな息苦しさを感じ取り、惜しみながらそっと身体を離した。
セルフィーネは潤みきった瞳を切な気に閉じて、頭をカウティスの胸にコテンと倒した。
「……やっぱり溶けてしまうかも……」
消え入るような声が聞こえると、カウティスは笑って彼女の髪を撫でた。
翌日、朝の一の鐘より早く王城を出て、昼の鐘が鳴る頃に直接イサイ村に入った。
午後の一の鐘半から、ザクバラ国側の新しい代表との顔合わせを兼ねた、会談が行われる事になっていたからだ。
ネイクーン側の代表団は、カウティスとラードが昼食を摂っている間に拠点から到着した。
準備はマルクが整えてくれていて、堤防建造も順調で、特に心配事はないはずだった。
「何なんだ、アイツは。阿呆なのか?」
ザクバラ国側の代表団がイサイ村を去り、その姿が完全に見えなくなると、カウティスの口からそんな言葉が飛び出した。
「意図的に演技しているのでなければ、間違いなく阿呆ですね」
ラードもうんざりしたような表情だ。
リィドウォルと交代でザクバラ国の代表となった貴族は、ペッタリとした口髭を撫でつけながら登場し、
そして話し合いが始まると、開口一番、堤防建造計画をやり直したいと言い出した。
その理由が、美しくなったベリウム川周辺の景観を損ねるからだという。
水の精霊が戻って川の氾濫がないなら、川原が広く緑の多い辺りは、堤を一部切りたい等ととんでもないことまで言う。
ベリウム川を挟んで両国で堤防を築く事は、休戦協定に明記されている事を指摘すれば、形や大きさまで揃える決まりはないと、唾を散らして喚き、終いにはネイクーン側にだけオルセールス神聖王国が肩入れするのはズルいと言い出す始末だ。
手元のペンを投げ付けたい衝動を抑えた自分を褒めたい。
リィドウォルが代表だった頃から、話し合いの場に参加していた職人や兵士長は、困惑したような、うんざりしたような、何とも言えない表情だった。
とにかく、建造物の構造は職人でないと分からないのだから、自国の職人達の意見も聞いてよく話し合うように勧めた。
本当に計画を変更するのなら、両国の最初の取り決めから見直す必要まで出てくる。
どうにも納得した様子には見えなかったが、今日のところはネイクーン側に主張を伝えて満足したのか、彼等はそこそこ大人しく撤収したのだった。
「リィドウォル卿は、何故あんな男を後釜に据えたのだろうか。確か、リィドウォル卿は堤防建造には積極的だったのだろう?」
カウティスが椅子に座ったまま、イライラと指で腕を叩く。
国境地帯が浄化され、カウティスが王城に戻っている時、リィドウォルは、魔獣が出なくなったのなら即作業を再開したがっていたと聞いたはずだ。
「魔獣討伐に自ら出向いていたくらいですから、国境地帯を早く落ち着かせたかったのだと思いますが」
ラードも難しい顔で溜め息をつく。
「この交代は、リィドウォル卿が望んだ事でしょうか?」
「どういうことだ?」
マルクが栗色の眉を寄せて言うので、カウティスは顔を上げる。
「私達には信じられない話ですが、ザクバラ国には、国境地帯が浄化された事を良く思わない者もいると聞きました。もしそれが本当なら、リィドウォル卿はそういう者に担当を外されたのではないでしょうか」
カウティスは目を
確かにそれなら、あの阿呆が後釜なのも頷ける。
「……だが、確かリィドウォル卿はザクバラ国王の側近だったはず。そんな者を、本人の意思に関係なく外せるのか?」
休戦協定を結ぶ為に使節団の主使としてネイクーンを訪れた時は、そういう立場だったはずだ。
ラードは軽く首を振る。
「現在も側近なのかどうかは分かりませんよ」
そして、更に難しい顔をした。
「仮に、リィドウォル卿が国王の側近のままだとしても、あまり嬉しい状況じゃないですね」
カウティスは唇を噛む。
リィドウォルが国王の側近であったなら、それを簡単に移動させられるのは、国王、又は宰相や貴族院の重鎮だろう。
側近の地位を追われていたとしても、彼を追いやれるのはそういう者達のはずだ。
つまり、国境地帯を落ち着けたくない者が、ザクバラ国上部にいるという事なのではないだろうか。
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