出来ない約束
カウティスは拠点へ戻るとすぐに、部屋でセルフィーネを呼ぶ。
まだ日の入りの鐘が鳴っておらず、月が出ていないので、机の上に置かれた水差しに向かってだ。
アスクルの町にいる間に、月光の魔力が切れて、セルフィーネはガラスの小瓶から姿を消していた。
「セルフィーネ」
「……いる」
一拍おいて返事が返ってきた。
カウティスは水差しに向かって、寝台に腰掛ける。
「説明しろ。今日のあれは、神聖魔法だろう」
カウティスは左手の甲を水差しに向ける。
血管の浮いた、何の傷もない大きな左手。
今日アスクルの町で火傷を負ったはずだったのに、セルフィーネが一瞬で治してしまった。
「……怒っているのか?」
「怒ってない。ただ確認しているんだ。聖紋を合わせていないのに神聖魔法を発現出来たのか?」
考えているのか、少し間があった。
「カウティスの側にいたら、出来たようだ。聖紋を合わせたような感覚があった」
確かにあの時、右手の痣がチリと痛んだ。
「一体いつからそんなことが出来るようになったのだ」
「アナリナに“慣らし”をしてもらってから、神聖力が自在に動くようになった。それからかもしれない」
遠くから日の入りの鐘が鳴るのが聞こえた。
カウティスは、窓際に移動して空を見る。
ちょうど、西の空で太陽が月に替わったところだ。
土の季節も終わりで、月が出たばかりでも空はもう暗かった。
青白い月光が降るのを確認すると、カウティスは首から銀の細い鎖を引いてガラスの小瓶を服の中から取り出し、窓際に置く。
セルフィーネが水差しから移動して、ガラスの小瓶の上に姿を現した。
カウティスと目が合うと、彼女がふわりと微笑むので、カウティスも自然と笑顔になったが、咳払いして頬を引き締める。
「セルフィーネ、俺の火傷を心配してくれたのは分かっているが、無闇に神聖力を使うな。せっかく神聖力がないことを証明したのに、聖職者に見られたら厄介だ」
「分かった。気を付ける」
彼女は神妙に頷く。
セルフィーネだって、二度と神殿に据える等と言われたくないのだ。
カウティスは小さく息を吐く。
セルフィーネの神聖力は、今までは二人の聖紋をぴったり合わせなければ発現出来なかった。
カウティスが聖紋さえ合わせなければ、今後セルフィーネが一人で神聖力を暴走させることはないと高を括っていたが、これからはそうもいかないかもしれない。
神聖力について真剣に考えているのに、窓際の机の上から見上げているセルフィーネは何故かふわりと笑んだままで、カウティスは軽く首を傾ける。
「どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」
指摘されて気付いたのか、セルフィーネは少し恥ずかしそうに頬を押さえた。
「……今日は嬉しい事ばかり言われたから……」
「嬉しいこと? 俺は何か特別な事を言ったか?」
頬を染めるセルフィーネにドキリとしたが、セルフィーネが喜ぶような事を言っただろうか。
当たり前のことしか言わなかった気がするが。
「……そういえば、『小動物みたいで可愛い』と言われていたな」
「それじゃない」
からかうつもりで言ったのだが、セルフィーネは怒ったように言って、僅かに薄い唇を尖らせる。
初めて見るその仕草が可愛くて、カウティスの頬が緩む。
「……可愛い」
思わず思ったことが口から漏れると、セルフィーネの頬がみるみる染まり、尖らせていた唇をもとに戻してしまった。
セルフィーネは落ち着かない気持ちになって、片手で胸を押さえた。
自分では何とも思わないが、おそらく人間の美的感覚で言えば、この
歴代の王族に“美しい”と称されたことは数え切れない。
別にこの姿を気に入っているわけでもなかったが、カウティスに『美しい』とか『可愛い』と言われると、何故か頬が熱くなり、どうしたら良いかわからなくなるのだ。
「セルフィーネ、約束して欲しい」
胸の高鳴りに戸惑っているセルフィーネの耳に、カウティスの真剣な声が聞こえた。
セルフィーネは顔を上げる。
カウティスは窓際の椅子に座り、セルフィーネを真っ直ぐに見ていた。
「約束?」
「その先どんなことがあっても、
カウティスは拳を握り、セルフィーネに真剣に向き合う。
神聖力を自在に使えるようになれば、何かを救うために、セルフィーネは今まで以上に自分を犠牲にしてしまうのではないかと思った。
二度と、霞のようなセルフィーネの弱った姿を見たくない。
セルフィーネは胸を押さえていた手をギュッと握った。
「……嫌だ。約束出来ない」
「セルフィーネ!?」
カウティスは黒い眉を寄せて机に手を置く。
セルフィーネの顔から、サァと血の気が引いていく。
「どんなことがあってもなんて、約束出来ない。もしもカウティスの身に危険が迫ったら。もしもあの時のように、カウティスが追い詰められたら……」
「あの時……?」
「あの時私に
セルフィーネの握った手が小刻みに震えている。
カウティスは息を呑む。
十四年近く前の、全てが変わってしまったあの日。
大人になったカウティスでも、未だ時々胸を痛めるあの事件は、ずっとフォグマ山で眠っていたセルフィーネにとって、つい最近の出来事なのだ。
「自分を軽んじてはいけないと、理解した。でも……、でも、もしも……またカウティスに何かあったら、私は持てる力を全て使う。例え消えても」
突風が吹いたように、セルフィーネの水色の髪がぶわりと舞い上がる。
水差しの水が不自然に揺れ、カタカタと鳴ると、ピシとガラスにひびが入る音がした。
「セルフィーネ!」
セルフィーネが小瓶の上から姿を消す。
カウティスの胸で一瞬空気が揺れた気がして、まるで泣きそうな小さな声がした。
「いや、絶対に。そんな約束は出来ない」
「分かった。分かったから……」
カウティスはそれ以上何も言えず、見えないセルフィーネを抱きしめた。
風の季節、前期月初日。
午前の二の鐘が鳴る頃、カウティスはメイマナ王女と拠点近くの川原にいた。
「本当に美しい景色ですね。聖職者でなくても、神の奇跡を信じてしまいます」
澄んだ空気を深く吸い込んで、メイマナが言う。
メイマナは今日もズボンを履いて、帯から緑色の薄布を垂らし、錆茶色の髪をきっちりと編んでいて、動きやすそうだ。
彼女は今日は午後から、もう少し内地の町の治療院へ慰問に向かうらしい。
午前に余裕があるからと、ここまでなんと馬に乗って来た。
メイマナの護衛騎士は慣れっこのようだが、王太子が付けた護衛騎士は、随分ハラハラしたようだ。
何となく顔色が悪い。
「私、ずっと婚姻はしないつもりだったのです。慈善活動に生涯を捧げようと、救護にも参加できるように乗馬も覚えて」
「そうなのですか?」
王女が救護の現場に出ようと考えるとは、相当な覚悟だ。
驚くカウティスに、彼女は少し恥ずかしそうに笑う。
「それなのに、まさかネイクーン王国の王妃になる決意をするとは、自分でも驚きます。縁とは、不思議なものですね」
メイマナの言葉に、カウティスも真剣に頷く。
数え切れない程の人間の中、出会う人々。
更にその中で縁が繋がるのは、奇跡のようなものだ。
「まだまだ先のことですが、ネイクーン王国へ嫁ぐ日が楽しみです」
白いふっくりとした頬をほんのり染めるメイマナの横顔は、輝いている。
「私も、“王妃様”とお呼び出来る日が楽しみです」
婚姻を結ぶよりもエルノートの即位が先ならば、メイマナは王太子妃にはならずに、王妃になる。
笑い掛けるカウティスの方を向いて、メイマナは微笑んで小首を傾げる。
「カウティス王子は、“義姉上”とは呼んで下さいませんの?」
カウティスは少し困ったような顔をした。
皇女フェリシアには、側妃の息子に“姉”と呼ばれるのは不快だと遠回しに伝えられ、ずっと“王太子妃様”と呼んでいた。
「私は側妃の子ですので……」
「まあ! マレリィ様は立場は側妃でも、ネイクーン王国を支える立派な妃ではございませんか。そのように仰らないで下さい」
当然のようにメイマナに言われ、カウティスの方が面食らう。
そして、そう言ってくれる彼女が王家に入ってくれることが嬉しくなった。
「ありがとうございます。母も、メイマナ王女が我が王家に入って下さると喜ぶでしょう。来年はきっと、誕生日の園遊会も華やかになります」
「マレリィ様のお誕生日には、宴でなく園遊会なのですか?」
メイマナが不思議そうに尋ねるので、カウティスは小さく苦笑いする。
「そうです。エレイシア王妃が崩御されてから、宴は行わなくなりました」
マレリィの誕生日には、国民への顔見せはない。
嫁いで来てすぐは、敵国の人間として反発も強く、貴族院がこぞって反対し、マレリィも望まなかった。
エレイシア王妃のはからいで夜に宴だけは行われたが、それも最初の頃は、本人にとっては気の重いものだったようだ。
その宴すら、エレイシアが亡くなってから行わなくなった。
喪が明けてから、名目上は誕生祭として昼間に園遊会を行っているようだが、カウティスが参加したことはない。
「そうなのですね。マレリィ様のお誕生日はいつですか?」
「風の季節前期月の一日です」
「風の季節……んん?」
日付を反芻するメイマナが、眉を寄せて目を瞬く。
「…………それは、今日なのでは?」
「はい」
当然のように答えたカウティスに、メイマナは目を剥いた。
「では、王子はなぜここにいらっしゃるのですか!?」
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