望み
カウティスとラードが王城を出た後、フルデルデ王国のメイマナ王女を乗せた馬車の一団が、西部を目指して王城を出発した。
側妃マレリィの執務室では、午前の執務時間の終わらない内に、珍しく王が訪ねて来ていた。
国家間婚を担当する文官も交えて、王太子エルノートとメイマナ王女の婚約について話し合っている。
どちらかといえば、王の要求について検討しているようなものだが。
「婚約期間は勿論置けばよいが、せめてエルノートの即位前には、我が国に滞在してもらいたい」
「しかし、陛下。それでは国家間婚の手順を守れなくなります」
王の言葉に、控えめに文官が反論する。
「手順通りに進めていては、メイマナ王女が我が国に来るのは、エルノートの即位後になってしまうではないか」
王が不満気に言う。
口を尖らせるようにして、まるで子供が我儘を通そうとしているようだ。
マレリィが、駄々をこねる子供を見るような目をして、小さく溜め息をついた。
「後継を望む陛下のお気持ちも分かります。けれどお二人は、お心を通わせ始めたばかりです。あまり性急に事を進めなくても良いではありませんか」
「だからこそだ」
王が言って、ソファーに座っている身体を前のめりにする。
「“条件が合えば誰でも良い”という態度だったエルノートが、それを覆して自分から求婚したのだぞ。心を通わせ始めたばかりだというなら、それこそ長い間離れ離れにするのは忍びないだろう」
前のめりで言い募る王に、マレリィは少し上体を引く。
確かに、昨夜の夕食会でも今日の見送りでも、二人の遣り取りは微笑ましく、これから育んでいくであろう関係を想像すると温かい気持ちになった。
惹かれ合い始めた二人を離さねばならないのは、こちらも心苦しい。
「……それに、エルノートの心身の為にも、その方が良いのではないだろうか」
王は前のめりだった体勢を戻し、一つ息を吐く。
「陛下……」
マレリィが躊躇い気味に王を見ると、王は軽く顔を顰めた。
「エルノートの気力が落ちていたことくらいは、私にも分かっている」
その原因が、おそらく毒殺未遂事件にあるだろうことも、想像はできた。
「あれは、何でも頑なに自分で解決しようとする。だが、自分では身動きが取れず、周りが力を貸そうとしてもどうにもならなかったところに、メイマナ王女はスルリと入ってしまったではないか」
彼女を見るエルノートの目を見れば、それは明らかだ。
「王女なら、エルノートを支えてやれる気がする。そなたも、そういう意味で王女を正妃にと推したのではないのか?」
王は真剣な表情でマレリィを見る。
随分白いものが増えた眉を寄せる王の姿は、いつまでも子供が心配な親のものだ。
「……そうではございますが」
マレリィは小さく頷く。
メイマナ王女の心根に救いを求めたのは事実だ。
だが、それはあくまでもこちらの都合だ。
王女からすれば、これから他国の王妃にならねばならず、彼女こそが誰かに助けを求めたい程心細くなるかもしれない。
王太子を支えてくれと頼られても、戸惑うのではないだろうか。
目を伏せ気味に思いに耽るマレリィの前に、王は手近にあったペンを転がす。
突然の悪戯に目を瞬くマレリィに、王は苦笑いする。
「考え過ぎだマレリィ。どうせそなたのことだから、頼られても王女が困るかもしれないと思っているのだろう」
「……何故分かったのですか?」
「何年一緒におると思っているのだ」
王は呆れ顔だ。
「助けてくれと縋る訳ではない。惹かれ合っている者を、共にいられるよう手助けするだけだ。その後は、当人同士が支え合うのを見守れば良い。上手く添えるかどうかは、二人の努力次第だろう」
王は、側の小さなテーブルを見る。
「エルノートとメイマナ王女は、まだ良い。共にいたいと思えば、そうする道はある。……どれだけ望んでも、ずっと共にいさせてやれない者達もいるのだ」
マレリィは王の視線を追う。
視線の先には、小さなテーブルに置かれた美しい水差しがある。
「……フルデルデ王国へ婚約の申し入れを送る際に、婚約が成るとすれば、婚約期間を王女がネイクーンで過ごすことができるか、問い合わせてみましょう」
マレリィが一つ息を吐いて言った。
「うむ!そうしよう!」
王が破顔して手を打つ。
「先ずは問い合わせからですよ」
苦笑しながら漆黒の瞳で軽く睨み、マレリィが言う。
「分かっている。だが思い返せば、そなたが輿入れする時も、婚約期間は殆ど我が国で過ごしたのだ。出来ぬことはないだろう」
「……そう……でしたね」
マレリィは今思い出したように、目をゆっくり瞬いた。
そういえば、何故か頭から抜けていた。
マレリィは、ザクバラ国から政略婚でネイクーン王国へ輿入れした。
国家間婚では婚約が正式に成った後、通常母国で一、二ヶ月過ごし、相手国で同じ程度の期間を過ごす。
だがマレリィは、婚約期間をザクバラ国で半月、ネイクーン王国で三ヶ月過ごして終え、そのままザクバラ国には一度も帰らず式を挙げた。
何故、母国をすぐに離れたのだったろう。
『…………忘れろ』
「っ!」
突然目の奥から頭に鈍く痛みが広がり、マレリィはこめかみを押さえて身体を折った。
「マレリィ!」
王が立ち上がり、駆け寄る。
「急ぎ薬師を呼べ!」
王の言葉に、侍従が急いで部屋を出て行く。
「……大丈夫でございます、収まりました」
肩を抱きかかえて助け起こす王の手に、マレリィが手を添えて答えた。
「駄目だ、薬師に診せるまで動くな」
さっきまで見せていた子供のような顔を消し去り、王は固い顔をして、マレリィの肩を抱いたまま彼女の頭を胸に凭れさせた。
一筋落ちた黒い髪を、撫で付ける手が冷たい。
そのまま、王は押し黙ったまま薬師を待つ。
マレリィの耳に聞こえる、王の鼓動は早い。
王妃エレイシアを亡くしてから、きっと王は死というものが、置いていかれることが怖いのだ。
「……大丈夫でございます。簡単には陛下を一人には致しませんわ」
マレリィは王を見上げて微笑みかける。
ぎこちなく笑顔を返す王を見ながら、マレリィは耳に残る声を反芻する。
『…………忘れろ、マレリィ』
あの声は、いつ聞いたものだろうか。
思い出そうとすると、頭の中に霧がかかるようで、それ以上考えようとすると、再び鈍い痛みが寄せた。
一つだけ分かるのは、その声が、兄リィドウォルのものだということだけだった。
フルブレスカ魔法皇国の王宮。
竜人ハドシュは、皇帝の管轄区域の中庭にある、渡廊を歩く。
現在の皇帝が華美なものを好む為か、渡廊に続く柱は、一本一本が優美な彫刻を施され、所々には彩り鮮やかな花が刺されていた。
ふと、前から歩いて来ていた黒髪の男が、ハドシュに気付き、端に寄って立礼した。
ハドシュは一瞥をくれて、そのまま通り過ぎた。
男とすれ違ってすぐ、竜人族の管轄区域である王宮最奥に入る手前で、竜人シュガと出会う。
ハドシュよりは小柄だが、身体は筋肉質で大きく、指には大きな爪がある。
ハドシュと同じ白茶色の髪は、短く切り揃えられ、のっぺりと白い肌にはあまり鱗も見えない。
「ザクバラのリィドウォルが来ていたな。また、嘆願か?」
「そうだ」
ハドシュが尋ねると、シュガは頷く。
渡廊ですれ違った黒髪の男は、ザクバラ国のリィドウォルだ。
「あの者も憐れだな。何年も掛けて貴族院に根回しを終え、年が明けたらようやく水の精霊をネイクーンから奪えるはずだったのに、ここに来て皇帝が心変わりとはな」
犯罪者として扱われるのが当然だったフェリシア皇女を、ネイクーンは無傷で皇国に帰した。
それによって、皇帝のネイクーン贔屓が増し、貴族院が水の精霊をネイクーンから引き離すことを決定していたのに、覆した。
「それで、何と言っておいたのだ」
ハドシュが聞くと、シュガはフンと鼻を鳴らす。
のっぺりとしていて、口しか動いていないハドシュに比べ、シュガは僅かながら表情がある。
「当初の予定通り、年明けまで待てと伝えた。思うところは多いだろうが、飲み込んだようだ。あの者は良い人材であるのに、ザクバラも酷い使い方をするものだ」
「そう思うなら、皇国に召し上げればどうだ」
シュガは竜人族で唯一、皇帝の側で国政に関わっている。
王宮最奥にいる竜人族と、人間達の間に立つ、ただ一人の者だ。
「無理だな。
「それで、月光神の援護を受けているという、ネイクーンの水の精霊はどうだ。円卓様は何と?」
シュガが不自然な笑みのようなものを向けると、ハドシュは淡々と答える。
「皇帝を挿げ替えたら、年明けにザクバラとフルデルデに分け与える事になるだろう」
ふと、ハドシュはネイクーンの国境付近で見た、空に漂う水の精霊の魔力を思い出した。
月光神の魔力が混じるように、青銀を散りばめた美しい魔力。
果たして、あれを切り分けて良いのだろうか。
「何だ? まさか躊躇っているのか?
くく、とシュガの喉の奥で笑う音がする。
「これは面白い。リィドウォルに続いて、鋼鉄の兄者まで籠絡するのか、ネイクーンの水の精霊は」
僅かに深紅の瞳を細めるシュガを、ハドシュは相手にしない。
「リィドウォルが籠絡されたとは? あの者は、常に自国の利にしか興味がなさそうだったが」
「……まあ、今でも自国の利を見ているとも言えるが。リィドウォルの望みは、
シュガがつまらないことのように言う。
「あの者は、ザクバラの詛を解きたいのさ」
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