その存在

食事は終わり、食後のお茶が注がれる。


「では、国境地帯が神の御力で浄化されたというのは、事実なのですか」

明日には、慰問先である西部へ出発するメイマナは、カウティスに国境地帯の事を聞いていた。

「はい。王女の慰問先は国境地帯を外していましたが、作業場付近を除けば立ち入れない場所は殆どなくなりましたので、お時間があれば、あの美しい景色をご覧頂きたいと思います」

カウティスがカップに三つ目の角砂糖を入れながら言った。


カウティスとラードは、明朝に王城を馬で出発する。

同じくメイマナ達も出発するが、フルデルデ王国からの馬車で丸二日かけての移動だ。


「ぜひ見てみたいですわ。神の奇跡が起こった場所だと、噂で聞いておりました」

白い両手を合わせ、メイマナが微笑む。

カウティスは驚いて尋ねる。

「何処でその噂を?」

「母国の宮殿です。私が国を出る頃には、既に噂になっておりました」

カウティスはエルノートと顔を見合わせた。

王もやや表情を固くする。

「まだ半月程だというのに、もう隣国まで噂が流れているというのか」

「聖職者達が話していたと。詳しくは存じませんが、オルセールス神聖王国には、神殿独自の通信方法があると聞いたことがございます」

メイマナが言った。


神殿での伝達が早いのなら、神聖王国にカウティスと水の精霊のことが報告されていたのも、イスターク司教が、大陸中に散らばっている管理官をあんなに早く連れて戻ったことも頷ける。

それでは、セルフィーネに神聖力がないということも、既に神聖王国には知らされているのだろうか。



「初めに聞いた時には、ネイクーン王国の水の精霊は、土地の浄化まで出来るのかと、皆が驚いたものですが」

「水の精霊……?」

メイマナの言葉に、スプーンでお茶を混ぜていたカウティスの手が止まる。

「はい。十年以上眠っていた水の精霊が目覚めて、フォグマ山の鎮火に続き、ベリウム川まで鎮めたのだと噂されたのですが……」

「違います」

カウティスがメイマナの言葉に被せるように言った。

「あれば神の御業です」

「カウティス」

王が軽くカウティスを窘めた。


「フルデルデ王国とザクバラ国にも、水の精霊を授けられるという噂を聞きますが、実際のところはいかがなのですか?」

表情を固くしたカウティスとは対照的に、どこか楽しそうなセイジェがメイマナを窺う。

「ザクバラ国と連名で、皇国に嘆願を送ったのは事実です。近年、我が国でも砂漠化が進んでいる地域がありますので、それを抑えるには、水の精霊を授けられることが一番の近道だと聞いております」


メイマナはカップを上品に持ち上げて、一口お茶を飲む。

「ですが、それが叶うかどうかは、皇国の判断次第となるでしょうから」

フルデルデ王国の内政に関わることでもあるので、メイマナは柔らかく笑んで話を濁した。



そもそも、フルデルデ王国に水の精霊についての話を持ってきたのは、ザクバラ国だ。

縁談の為に訪れた貴族達が、フルデルデ王国の貴族院の者に、ネイクーン王国の水の精霊が、如何に強力な護国の力を持っているかを語って聞かせた。

そして、南方三国の内、ネイクーン王国だけが巨大な魔力を独占することの懸念も。

そうして、フルデルデ王国も共に、皇国に嘆願書を送ることになったのだ。


自然災害であるフォグマ山の噴火を収めるため、ネイクーン王国の水の精霊は眠ったのだと聞いていた。

今年の水の季節に、十数年ぶりに眠りから覚めた水の精霊のおかげで、ここ数年酷くなっていた火の精霊の影響が抑えられ始めたと、砂漠の国境地帯で喜びの声も聞いた。

確かにザクバラ国が主張するように、ネイクーン王国では“水の精霊”というものは特別なものらしい。


水の精霊について話が進む程、押し黙ったままのカウティスを、メイマナは静かに観察する。

第二王子は、水の精霊の寵愛と加護を受けていると聞いている。

カウティスが身に纏う、魔力の大きさと美しさを見れば、それが間違いないことは一目瞭然だ。

見れば見るほど、聞けば聞くほど、ネイクーン王国の水の精霊は、フルデルデ王国で見る水の精霊の魔力とは掛け離れている。


メイマナは、和やかに会話をしながら思案する。

ザクバラ国があれ程に欲しがる、ネイクーン王国の水の精霊とは、一体どういうものなのだろうかと。




食事会は和やかに終了し、メイマナは挨拶を終えて、エルノートのエスコートで広間を出た。

メイマナは安堵の息を吐く。

これからのことは、母国に帰国してからだ。


「緊張しましたか?」

「少しだけ。でも、皆様温かくて、安心いたしました」

エルノートに微笑み返し、メイマナはそっと胸を押さえる。

フルデルデ王国では、行き遅れの変わり者扱いのメイマナを、ネイクーン王族は王太子の正妃として歓迎してくれる。

それは自分で想像していたよりも、遥かに嬉しいことだった。



広間を出てもすぐには別れず、エルノートはメイマナを離宮まで送る。


離宮の入り口近くに着くと、エルノートは自身の近衛騎士以外の侍女や侍従に、少し離れているように指示した。

婚約の約束をしたとはいえ、まだ何の手続きも出来ていない。

あくまでも原則として、人払いをして二人きりになるわけにはいかない。


「お話しておきたいことがあります」

エルノートが言った。

メイマナは、突然のことにドキリとしたが、エルノートの真剣な表情に、出来るだけ落ち着いて向き直る。

「メイマナ王女は、我が国の水の精霊について、どのようなことをご存知ですか?」

「水の精霊ですか?」

メイマナは小さく首を傾げた。



水の精霊は、フルブレスカ魔法皇国の竜人族がネイクーン王国に譲り与えたもの。

火の精霊の影響を強く受ける土地柄から民を守る為、水源の確保に始まり、砂漠化を止める、川の氾濫を抑える、干ばつを防ぐ等、多くの恩恵を与えている。

ネイクーン王国のみを強い護国の魔力で保護する、特別な精霊。


「……そのように存じておりますが」

メイマナが説明すると、エルノートは薄青の瞳を細めた。

「それは、ザクバラ国から伝わったのでは?」

「……ネイクーン王国と交易を行っている関係で、前々から商業ギルドからも、それに近い噂話はありました。ザクバラ国からも、噂としては……。それがどうかしましたか?」


メイマナが、錆茶色の瞳を知的に光らせて、エルノートを見上げる。

さわ、と鈍く風が吹いて、まとめ髪から出た後れ毛がメイマナの白い肌を僅かに滑る。

エルノートは少し逡巡したが、口を開いた。


「……話したいことを話せないと言うのは、もどかしいものですね」

二人はまだ、隣り合った国の王太子と王女だ。

国政に関わることは、口に出せない。

エルノートは長い指で、彼女の頬を滑る後れ毛を、そっと耳に掛けた。

「……西部の慰問へ向かわれたら、おそらく弟のカウティスと、水の精霊を目にされるでしょう。我が国の水の精霊がどういうものなのか、王女の目で良く見て頂きたい」


メイマナはエルノートの目を見つめる。

おそらくは、水の精霊について何かしらの懸念があるが、ネイクーン王国の国政に関わるために言えないのだ。

そして、それ故に心配している。


エルノートが下ろそうとする左手を、メイマナは己の頬と右手で挟んだ。

まだ包帯を巻いたエルノートの左掌に、彼女の柔らかな頬の感触が伝わる。


「しっかりと見て参ります。それでどのようなものを見たとしても、王太子様が受け入れておられるものを、私も受け入れます。ですから、ご心配なさらないで下さい」

エルノートは言葉に詰まる。

彼女はこちらの意図を察して、欲しい言葉をくれる。


左手を彼女の右頰に縫い付けられたままだったので、エルノートは空いている彼女の左頬に顔を寄せて、耳の側に口付けた。

「婚約が成るまで、唇は我慢します」

低い声で囁かれ、メイマナは白い手も顔も赤くして、彼の左手をスルリと落とした。





食事会を終えて、カウティスはそのまま泉の庭園に向かった。

今夜は雲が多く、雲を流す風も殆ど無いので、月は丸い形の一部しか見えていない。


泉にはセルフィーネが佇んでいた。

細い水色の髪が、腰の辺りで毛先を揺らしている。

「セルフィーネ」

呼ぶと彼女はこちらを向き、嬉しそうに目を細めた。



「メイマナ王女はどうだった?」

泉の縁に座ったカウティスの側に、セルフィーネも座る。

「面白い方だな。雰囲気も仕草も柔らかだったが、大人しいだけの方でもなさそうだったし。何より兄上が笑っておられて、安心した」

「良かったな」

ああ、と返事をして横を向くと、セルフィーネの顔が思ったより近い位置にあって、カウティスは自然に顔を寄せて口付ける。


顔を離せば、セルフィーネの瞳が揺れて、長いまつ毛が震える。

「…………昨日の続きは?」

小さな声で聞かれて、カウティスの鼓動が跳ね上がる。

「し、しかし、そなたはとても苦しそうだったから……」


昨夜は調子に乗って、完全にセルフィーネの唇を覆ってしまった。

息が苦しくなって魔力干渉が終了するまで、彼女の自由を奪い、柔らかな唇を貪った。

彼女の滑らかな肌の手触りは、いつもカウティスの理性をあっさりと飛ばしてしまう。

心地良くて、幸せな時間だった。

だが、魔力干渉が解けた時、彼女の小振りな胸が大きく上下するほど息を詰めさせたのだと知って、反省した。


「鼻で呼吸をすれば良いと、教えてもらった」

今までドキドキとしていたカウティスが、僅かに黒い眉を寄せた。

「……誰に?」

「マルクだ」

上気した顔で言ったセルフィーネに、カウティスが更に眉を寄せた。

「そなた、最近随分マルクに頼っていないか?」

セルフィーネが困惑気味に目を瞬く。

「そんなことはない。でも、私の声が聞けて、魔力が見える者は多くないから……」


「確かに俺には魔力は見えない」

それで何度も何度も、歯痒い思いをしてきた。

「それでも、俺はそなたが俺以外を頼るのは我慢ならない」

カウティスは身を捩って、セルフィーネを抱き締める。


神殿に、ザクバラ国。

セルフィーネ水の精霊を欲しがる者が絶えず、カウティスは時々、腹立たしさに臓腑が捻れそうな気分になる。

それで、セルフィーネがアナリナやマルクに寄せる親しみの感情さえも、時に苛立ちを覚えてしまうのだ。

自分勝手で、我儘な独占欲だ。

頭ではそんなことは分かっているが、簡単には抑えられない。



「…………カウティスだけだ」

カウティスの身勝手で腕の中に閉じ込めたセルフィーネが、小さく言って彼を見上げる。


彼女は腕の中から出ようとはせず、カウティスの思うままにというように、大人しく胸に添っていた。

紫水晶の瞳は澄んだ色をしているが、その奥には仄かな熱がくすぶっていて、カウティスの胸を突き上げる。

「……私には、カウティスだけだ」

カウティスが言葉を詰まらせて奥歯を噛むと、彼女はスルリと細い腕を伸ばし、彼の耳の下を撫でた。

「ずっと、カウティスだけ」



カウティスが強張りを解き、ささくれた心が収まるまで、セルフィーネはずっとそうしていた。




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