胸の痛み

土の季節、後期月五週五日。


日の出の鐘が鳴る前、カウティスは愛用の長剣を持って、泉の庭園にやって来た。

魔術ランプは持って来ていたが、今朝は雲もなく空が澄んでいて、日の出前の薄い月明かりだけでも鍛練には問題ない。


「セルフィーネ」

カウティスが呼んでみても泉の水は立ち上がらず、中央の細い噴水が、サラサラと涼し気な音を立てているだけだ。

何の反応も無いことを確かめると、カウティスは溜め息をついてから剣を握った。



昨夜ここで呼んでみても、今のように何の反応もなかった。

南部エスクトに向かうと聞いたのは、昨日の日の入りの鐘よりも前だった。

アナリナに会ったら帰って来るのだと思っていたが、一向に戻って来ない。

まさか国境を越えるところまで見送ってから帰るのだろうか。

そうだとしても、何の反応もないのはおかしい。


セルフィーネの神聖力は安定し、カウティスが手助け出来ることはもうない。

しかし、周りに聖職者が付いているアナリナの元に、行かせるべきではなかったのだろうか。

心の内の漠然とした不安を払うように、カウティスは剣を振る。





日の出の鐘の音で、寝台に座ったエルノートは、今朝何度目かの溜め息をついた。

寝台から降りて、侍従が運んできた盥の水で、手と顔を洗う。

殆ど眠っていない頭には、冷たい水が心地良かった。


一昨日良く眠れたのはたまたまか、昨日は殆ど眠れなかった。

悪夢は見なかったが、寝台で横になっていても僅かしか眠れず、すぐに目が覚めてしまった。


そして、メイマナ王女を思い出す。


カウティスは『良く考えろ』と言ったが、眠れない夜の間考えていても、良く分からなかった。

確かに彼女のことは、好ましく思っている。

王太子妃候補であった令嬢達と比べても、立場や振る舞いは上回るし、民を思う気持ちや行動力も問題ない。

王太子妃に迎えるのに充分だと思う。

それだけでなく、彼女の笑顔や心根に、心惹かれる自分を感じている。


しかし、求婚は断られた。

正式な手続きを踏んだものではなかったにしろ、本人がはっきりと断ったのだ。

元々、メイマナ王女は正妃になることを望んでいない、という話も聞いていた。

これ以上どうしろというのか。

求婚相手に断られた後の事など、帝王学でも学んでいない。



着替えをしている間にも何度か溜め息をつくエルノートを心配し、侍従が詰襟の前ボタンを留めながら、躊躇いがちに口を開いた。

「メイマナ王女様を、側妃にお迎えするのはどうでしょうか」

「……側妃だと?」

侍従は慣れた手つきで、内ボタンを留め終わると、外側のボタンに取り掛かる。

「はい。元々はフルデルデ王国側から、側妃候補にという話だったようですし、それならば、どなたかをまず正妃にお迎えしてから……」

頭上から降りてくる冷やかな気配に、ボタンを留め終えた侍従が恐る恐る顔を上げた。

表情こそ変わらないが、エルノートの薄青の瞳が冷たく怒気を孕んでいる。

「そんな話は聞いていない。詳しく話せ」

「……く、詳しくはわかりませんが、メイマナ王女様の慰問のお話と一緒に、側妃候補の件も使者殿が持って来たと……」


エルノートは眉を寄せる。

会う前から側妃になるつもりであったのに、お互いのことを知り始めた今、妃になることを断る。

それは、エルノートの人間性を良しとしなかったからなのだろうか。


エルノートは無意識に左手を強く握って、傷の痛みに顔を顰めた。

「王太子様」

「平気だ。……午前にマレリィ様に面会を申し入れろ」

掌の傷よりも、何故か胸の方がズキズキと痛んだ。





日の出の鐘が鳴り、カウティスは剣を下ろした。

流れる汗を袖で拭こうとした時、突然、頭から冷たい水が掛けられた。

「わっ!」

驚いて口を開けてしまい、水が入った。

それと同時に、僅かに身体が引かれるような、覚えのある感覚があって、瞬時に服も身体も乾いている。

「ぐっ、ごほっ……、セルフィーネ!」

喉に入った水までは無くならず、少し咳き込んでカウティスは泉に向く。


泉には、淡く輝くセルフィーネが佇んでいた。

細く長い水色の髪を涼しげに揺らし、ドレスの襞も美しく揺れているが、どこかその表情は虚ろだ。


「……戻った」

そのぼんやりとした様子に気付き、カウティスは突然水を掛けられた事に対して言おうとしていた文句を飲み込む。

「セルフィーネ、心配したぞ。どうした? 何かあったか?」

近寄って彼女の白い頬に手を伸ばす。

セルフィーネは、カウティスの身体を頭の先から足の先までゆっくり眺めた。

「……きれいになったか?」

「汗のことか? ああ、さっぱりはしたが……」

とりあえず、水を飲んだことは後回しだ。

「良かった。いつも通りに動けるようだ……」

どこかほっとしたように言って、セルフィーネはカウティスの胸に、甘えるように頭を寄せた。


カウティスはドキリとしながら、彼女の身体に腕を回した。

セルフィーネの髪が、腕の中で揺れる。

「どうしたんだ? アナリナに会いに行ったのだろう?」

「行った。アナリナに“慣らし”をしてもらって……」

「“慣らし”!?」

カウティスが驚いて俯くが、セルフィーネはカウティスの胸に頭を寄せたままで、その表情は良く見えない。

「……何だか、身体中魔力を掻き回されたみたいで、おかしな感覚だ」

「か、掻き回されたって、何だ!? 大丈夫なのか?」

聖職者の“慣らし”は、結局カウティスには理解出来ず、混乱するばかりだ。


「カウティスの胸は落ち着く。お願いだ。暫くこうしていて欲しい」

細い声で言って、セルフィーネはカウティスの胸に手を添える。

これ以上聞いても、カウティスにはきっと理解出来ない事が増えるだけなのだろう。


だから、とにかく望み通り、カウティスは彼女を抱き締めていることにした。





側妃の執務室側にある応接室では、マレリィとエルノートが、ソファーで向かい合って座っている。

二人の間のテーブルには、フルデルデ王国からの親書が広げられていた。


いつものように、艷やかな黒髪をキツく結い上げたマレリィは、背筋をピンと伸ばし、涼しげに座っている。

対してエルノートは、ひどく難しい顔をしていた。

「フルデルデ王国に問い合わせて分かったことは、それだけです」

マレリィがお茶のカップに手を伸ばし、一口飲んだ。



メイマナ王女は過去の婚約破棄から、結婚や男女間の縁には消極的だったという。

娘を心配した女王は、慈善活動を未婚の理由にしてはならぬとし、婚姻を結んでも活動を続けられるよう、慈善事業に重きを置く、ネイクーン王国隣国の王太子に側妃として嫁ぐよう宣告したらしい。


メイマナ王女が正妃を望まないと使者から告げられた後、マレリィはフルデルデ王国に親書を送った。

貴国が側妃にと推す第三王女が、正妃の地位を望まぬのは何故か。

こちらが望めば、王太子妃として迎え入れることは出来るのかという、いわば質問状だ。

それに対しての女王からの返答は、先の理由と共に、『望まれるのならば是非にも』というものだった。



「……つまり、望んで私の側妃になろうとしたわけでもなければ、そもそも誰かの妃になりたくはなかったと」

エルノートは唸るように言った。

「そういうことになります。しかし、王太子様とは相性が良さそうですし、縁を繋ぐことも考えられては?」

エルノートが肩布を贈ったり、二人でお茶をした事などは、既にマレリィの耳に入っているようだ。

「……既に求婚し、断られました」

「まあ、そうなのですか?」

どこか楽しそうにマレリィが微笑むので、エルノートは苦々しい気分になった。


「それで、どういたしましょう」

「どう、とは?」

エルノートは訝し気に尋ねるが、マレリィは平然とした様子で答える。

「フルデルデ女王陛下は『是非にも』とご返答下さいましたので、王太子様がお望みなら、政略婚として話は進められますわ」

「断られたのですよ?」

「個人的に求婚なさったのでしょう? まだ何の手続きもしていないのですから、問題ではありませんよ」


エルノートはぐっと息を詰めた。

フェリシア皇女も政略婚で夫婦となった。

王太子妃候補だった令嬢も、エルノートが選べば政略婚として成るはずだった。

王太子の位に就いた時から、それが当たり前だと思っていたはずだ。

それなのに、メイマナ王女と政略婚をと言われると、どうしても頷く気になれない。



マレリィは、エルノートが膝の上で握り締めている左手を見る。

「……私は貴方の母ではありませんが、貴方とセイジェ王子を、我が子同様に見守ってきたつもりです」

静かに語るマレリィの声で、エルノートは顔を上げる。

マレリィの漆黒の瞳はどこまでも穏やかで、心の奥にまで語りかけるようだ。


「エレイシア様と共に貴方に望むのは、ネイクーンの立派な王になる事以上に、幸せな人生を求めて欲しいという事です」

困惑するようなエルノートの顔を見て、マレリィは紺のドレスの胸に手を当てる。

「王太子殿下、ご自分の胸が何を望むのか、お考え下さい。自分の一番の望みは、自分で思うほどはっきりとは分かっていないものです」


エルノートは視線を逸らす。

「……カウティスと、同じ様なことを仰るのですね」

「あの子は十三年余りもの長い間、自分の胸の内に向き合ってきました。ですから、自分が何を望み、それでどんなに困難な道を歩むことになるのか、良く理解しているのですわ」

マレリィは、ふふと嬉しそうに笑った。



エルノートは、躊躇いながら自分の胸に手を当ててみる。


ネイクーン王国の為、民の為の王となること。

間違いなく、それが自分の一番の望みだ。

ちゃんと分かっている。

それなのに、胸の内の痛みが消えないのは何故なのだろう。




その時、ノックをして侍従が応接室に入って来た。

「エルノート様、オルセールス神聖王国の管理官から、謁見要請があったようです」




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