求婚 (後編)

二階のテラスに衝撃が走った。


王太子の求婚に、侍女たちの声無き悲鳴が上がる。

侍従や護衛騎士はギクシャクと不自然に目線を逸らし、ちょうど背を向けていたカウティスも、勢い良く振り向きそうになったのを、辛うじて堪えた。


皆、緊張感を漂わせて、静かに王太子と王女の気配を探る。




メイマナは頭が真っ白になって、目の前に立っているエルノートを見上げていた。

彼は、薄青の瞳で静かにメイマナを見つめている。

その表情は真剣で、これが冗談ではないことが分かった。

いや、こんな冗談を言う人でないことは、既に分かっている。


「……お返事は後日で構いません」

何の反応もないメイマナに、見兼ねたエルノートが言葉を添える。

彼も緊張しているのか、その声はどことなく固かった。


メイマナは目線を下げて、エルノートの掌から自分の手をそっと抜き取る。

「…………無理でございます」

メイマナは首を横に振った。

編んだ髪に飾られた小花が揺れて、ひとつ落ちた。

「申し訳ございません。私には、無理でございます」

メイマナは立ち上がる。

急いで礼をすると、侍従の案内を待たずに踵を返し、屋内に入る扉に向かう。

メイマナの護衛騎士と侍女達が、同様に焦って礼をして後を追った。




静かなテラスに、微風が吹く。

メイマナの髪から落ちた小花が、軽く床を転がっていく。

残された侍従や侍女達、ノックスとカウティスは、冷や汗が流れた。


エルノートは暫くそのまま立ち尽くしてマントを揺らしていたが、ふうと一息吐いて、苦笑いでカウティスの方を見て言った。

「断られたな」

カウティスは眉を下げる。

「……皆、口外禁止だ。良いな」

兄の代わりに、その場にいる者達にそれだけを告げた。





「メイマナ様、お待ち下さい」

侍女達がメイマナに静止を願ったが、メイマナは止まらず、離宮まで出来るだけ早足で戻った。

離宮の寝室へ戻ると、ヘタリと床に座り込む。

侍女頭のハルタは、他の侍女と護衛騎士を下げ、扉を閉めた。



「……メイマナ様。あのようにお断りして、よろしかったのですか」

ハルタは、床に座り込んだメイマナを立たせようとするが、彼女は立ち上がらない。

「……だって、私には無理だもの。きっとまた、恥ずかしいと……」

身体を小さく縮めて言うメイマナを前にして、ハルタは溜め息をついた。

「僭越ながら申し上げますが、エルノート王太子殿下は、あの方のような方ではないと存じます。メイマナ様のことを『恥ずかしい』などと仰らないでしょう」


“あの方”とは、メイマナの元婚約者だ。

メイマナとは従兄弟にあたる、傍系王族だった。

成人前から婚約が成されていたが、メイマナが緊張から人前で失敗したり、慈善活動で平民に深く交わる事に、徐々に忌避感を露わにするようになった。


『そなたが隣りにいると、私が恥ずかしい思いをする!』


ある時、そう痛烈な一言を浴びせ、メイマナを深く傷付けた。



メイマナは弱々しく首を振る。

「違うの、違うのよ。王太子様がそのようなことを仰らないのは、もう、とうに分かっています」

「それならば、何故ですか? 殿下は、自らメイマナ様をお望みになったのに」

メイマナは膝の上で両手を握る。

「……王太子様が仰らなくても、他の人は私を恥ずかしい王女と思うかもしれないわ。そのせいで、隣に立つ王太子様のことも恥ずかしいと思われたら?」

「メイマナ様……」

「私のせいで、王太子様が悪く言われてしまったら?……そんなこと、駄目です。私には自信がないわ。無理よ」


辛いことや、悲しい事があっても、これが後の糧になるはずだと、いつも上を向き、心を曇らせないように努力してきた。

心の在り方次第で、より良い人生を目指していけると信じて。


しかし、それは自分一人であるならだ。


謹厳実直な王太子が、隣に立つ妃のせいで評価を落とすような事があってはならない。

あの方がそのような悪評に晒されるのは、耐えられない。


「……メイマナ様」

ハルタは、メイマナの顔をゆっくりと覗き込んだ。

「王太子殿下のことが、お好きなのですね?」


メイマナは目を瞬いた。

錆茶色のつぶらな瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。


王太子の陽に輝く金に近い銅色の髪も、笑うと冷たさが消える薄青の瞳も、特別に思える。

笑いが止まらずに口元を押さえる様子も、笑いすぎて涙が滲む目元も、甘い物が苦手だと眉を下げる表情も、子供達に向ける笑顔も。

思い出すと全てが尊く、胸に刺さった。


「っ〜〜……」

両手を膝の上でキツく握り締め、メイマナは声無く泣いた。





王太子の執務室に戻ったエルノートは、普段通り、革張りの椅子に座る。

そして一度長く息を吐くと、机の上の紙束に手を伸ばした。


「エルノート様、お食事は」

今日は区切りをつけたはずの公務に手を付けようとする王太子を見て、侍従が控えめに声を掛ける。

「今は良い。後で自室で摂る」

溜め息交じりに答えて、エルノートはカウティスを見た。

「そなたも、もう良いぞ」

普段の様子とあまり変わらず、淡々とした兄の様子に、カウティスは黒い眉を下げる。

「……もう少しお側に」

「慰めるつもりか? 気を使うな」

エルノートが苦笑してそう言うので、カウティスは内心溜め息を付いた。


兄は、当たり前のように己を御する。

このまま自分が下がってしまったら、明日の朝には、すっかり何もなかったかのような顔をしているのだろう。

それは、許容できない。

「ただお側に付きたいだけです」

言って後ろ手に腕を組み、執務机から少し距離を取って立った。



「カウティス」

胸元から小さな声がして、カウティスは下を向く。

左胸の辺りに、淡く光を放つ、小さなセルフィーネがいた。

「セルフィーネ」

「……すまない。まだ公務中だったか?」

セルフィーネが言うと、エルノートが構わないというように小さく手を上げる。

「大丈夫だ。どうした?」

「アナリナがエスクトの街に入った。見送りに行ってくる」


南部のエスクトの街に着いたということは、明日にはエスクト砂漠を渡って越境するのだろう。

収穫祭の時に、アナリナには別れを告げた。

しかし、彼女がいざネイクーン王国から出て行くとなると、少し寂しいような気分になる。


「神聖力のことも、聞いてみようと思う」

「分かった。念の為、神官達には気を付けろ」

カウティスはセルフィーネに左手を添える。


セルフィーネは彼の指に手を添えて、カウティスとエルノートを見比べる。

「……良かったな」

彼女はカウティスを見上げて、薄く笑む。

昨日の一件で、カウティスとエルノートの間に溝が出来るとは思っていなかったが、側に付いているのを見て安心した。


カウティスも微笑んで頷く。

今日、更に別の問題が起きたことは、さすがにこの場では言えない。

セルフィーネは、愛おしそうにカウティスの青空色の瞳を見つめてから消えた。




カウティスが顔を上げると、執務机からエルノートが、眩しい物を見るようにこちらを見ていた。

「兄上?」

エルノートは迷ったようだったが、躊躇いがちに口を開いた。

「……セルフィーネは、そなたを見る時だけ、目が違うのだ」

「違う……とは?」

エルノートは軽く手を振って、人を下げる。


「……どう言ったものかな。……大切な物を見るようで、甘えているようで……他の王族に向ける目とは、熱が違うというか……」

エルノートは、どう表現すれば良いか分からないなと、口の中で呟くように言って、目線を彷徨わせる。

こんなに歯切れの悪い彼は珍しい。


「……メイマナ王女が私に向ける目を、時折同じように感じた。だが、勘違いであったかな」

エルノートは長く息を吐き出し、額に手をやると、革張りの背凭れに体重をかけた。

「求婚を断られることも考えていたが、こうも拒絶されると、痛いものだ……」


項垂れたような兄の様子に、カウティスは心が痛むと共に、驚いていた。

兄は、やはりメイマナ王女を特別に想い始めている。

今日の様子や会話の端々にも、王女には心を開き始めているように見えた。

だがこのままでは、兄はまた当たり前のように自己抑制し、王女を諦めてしまうのではないだろうか。

そういう兄を、見たくないと思った。


カウティスは、今日のお茶会での二人を思い浮かべる。

兄の言う通り、メイマナ王女は兄に好意を持っているように見えた。

お互いが惹かれ合っていて、他の者が間には入れないような雰囲気すらあったように思う。


「……兄上。私にも、メイマナ王女が兄上を見る目には、情が籠もっていたように見えました」

エルノートが額から手を下ろし、顔を上げる。

カウティスはエルノートの前に手をついた。

「メイマナ王女は『お断りします』ではなく、『無理です』と仰いました。しかも、礼節を守られている方が、あのように逃げるように出て行かれたのは腑に落ちません。……見当違いかもしれませんが、メイマナ王女が断られたのは、何か理由がお有りなのではないでしょうか」


カウティスの言葉を聞き、エルノートは考えるように顎に指を添えた。

「……しかし、私は断られたのだぞ」

「もう諦めるのですか?」

「諦める、諦めないの問題ではないだろう」

苦笑して首を振るエルノートを、カウティスは軽く睨んだ。

「では、どんな問題ですか? 私なら、どんなに困難でも愛しい者は離したくありません。ましてや、相手も自分を想ってくれているなら」



カウティスは身を乗り出した。

「兄上。良くお考え下さい。メイマナ王女は、兄上にとってどんなお方なのか」



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