王女の呪文

イスターク司教の率いる視察団は、出発した。

彼の意志は変わらなかった。

おそらく、数日中には管理官を連れて戻って来るだろう。


王太子エルノートは、馬車が去った前広場の門を見つめる。

昨夜、禁書庫で夜を明かし、頭痛と共にここにやって来た。

人間は、神聖力に頼らねば健やかに生きていけないだろうと嘲笑されたようで、忌々しい思いだった。




エルノートは、神殿に隣接する治療院と孤児院に向かう。


以前から季節に一、二度は訪れていたが、毒に倒れてからは一度も訪れることが出来ていなかった。

代わりにセイジェが視察に出て報告を受けていたが、せっかく城下に降りたのだから、久しぶりに直接様子を見に行きたかった。


「王太子様、ようこそお出で下さいました」

出迎えてくれた女神官から挨拶を受け、近況を聞きながら治療院へ向かう。

「王太子様もお出で下さるとは。子供達も喜びます」

女神官の言葉に、エルノートが足を止める。

「今日は、私の他に誰か来ているのか?」

セイジェが視察に出るとは聞いていない。

女神官は満面の笑みで答える。

「メイマナ王女様です。先程、治療院から孤児院に向かわれました。珍しい菓子をお持ち頂いて、皆喜んでおります」

エルノートは目を瞬く。

メイマナ王女が城下へ降りていたとは知らなかった。

昨日、離宮の厨房で焼いていた菓子は、この為だったのかと納得する。

「……先に、孤児院へ向かおう」

城下の孤児院や治療院にまで慰問に訪れているのなら、礼を述べておくべきだろう。




神殿を出て、住居棟に隣接する孤児院へ向かう。

建物の中に入る前から、子供達の楽し気な笑い声が聞こえてきた。

空気を通す為に開け放たれていた窓の横を通れば、仄かに甘く香ばしい香りが鼻をくすぐった。


食堂を兼ねた広間で、子供達が配られた茶色の小さな焼き菓子を、嬉しそうに頬張っている。

大事そうに、一つをゆっくり味わっている子もいる。

その横で、年長の子供達とメイマナ王女が共に座り、談笑していた。


エルノートは窓の外で足を止め、その様子に見入った。

話している年長の子供達は、相手が王女だからか、やや緊張も見えるが嬉しそうだ。

メイマナの表情も、エルノートとお茶をしていた時のように楽し気で、時に朗らかに笑って笑窪が見えた。


「……王女は、治療院でもあのように?」

中の様子から目を離さず、エルノートが問うと、女神官は笑みを深めて大きく頷いた。

「はい。患者の背をさすり、横になった者には顔を寄せてお話になり、励まして下さいました」

エルノートは小さく息を呑む。


メイマナ王女の慰問は、物品を配り、形式的な挨拶と様子見で終わる、貴族的なものではない。

エルノートが目指しているが、思うように辿り着けないもの。

そこにいる人々と同じ目線で話を聞き、共に笑い、共感し、労り、励ますものだ。



「王太子様だ!」

座って菓子を食べていた子供が、窓の外にいるエルノートに気付いて声を上げた。

皆が一斉に視線を向け、菓子を置き、立ち上がって礼をする。

しかし、年少の子供達は転がるように外に駆け出て、エルノートの側に寄ろうとした。

近衛騎士が間に入り、女神官が子供達を止めるが、エルノートは久し振りの子供達の笑顔に安堵する。

「皆、久し振りだ。元気にしていたか?」

近衛騎士を下がらせて子供達の手を取ると、純白のマントを揺らして、一緒に建物の中に入って行った。


中に入ると、フルデルデ王国の鮮やかな色合いのドレスを着たメイマナが、美しい所作で立礼する。

その所作に、側にいた年長の子供達が見惚れた。

「王太子殿下。殿下の視察日とは知らず、勝手をして申し訳ありません」

錆茶色の眉を下げるメイマナに、エルノートが微笑む。

「殿下はおやめ下さい、メイマナ王女。視察日ではなく、偶然立ち寄ったのです。我が国の民に寄り添って下さり、感謝致します」

王太子と王女のやり取りを、年少の子供達は目をパチパチと瞬いて見ていた。



エルノートは孤児院の子供達と、和やかに話している。

年少の子供達は早々に菓子を食べる方へ戻ったが、年長の子供達は、久し振りに会う王太子に、嬉し気に近況を話していた。

「筆記具は足りているか? しっかり勉学の時間を取るのだぞ」

「はい、王太子様」

年長の少年が一人、おずおずとエルノートに声を掛けた。

「あの、王太子様は、もうお加減はよろしいのですか?」

その言葉に、周りにいた年長の子供が、エルノートを心配そうに見つめる。

「……大丈夫だ。皆が心配するようなことはない」

一瞬間を空けてエルノートが微笑み、少年の肩を優しく叩いた。


メイマナは、エルノートと子供達の様子を見て、内心驚いていた。

王太子は、菓子の粉の付いた子供の手を全く気にする素振りなく握り、子供達と近い距離で話し、肩を叩く。

そしてその笑顔が、王城で見るものよりも柔らかい。

子供達は、王太子を羨望と愛情の籠もった目で見つめ、彼の体調を気遣っている。

一朝一夕で出来上がる関係ではないように見えた。




子供達に近況を聞き、勉強の進め方の助言をして、そろそろ治療院の方へ移ろうとエルノートが立ち上がる。

メイマナに挨拶をしようと思い、彼女を目で探す。

食事時に使う大きなテーブルの側で、メイマナが年少の子供達に囲まれて話していた。


「毎晩、怖い夢を見るんだってさ」

少年の声に、エルノートは近付こうとしていた身体を強張らせた。


身体の小さな少年が、涙目で足をモジモジとさせながら、メイマナの前に立っている。

もう少し大きな少年が、彼を小突いた。

「だから眠るのが怖いんだって。いつも泣いて、困ってるんだ。どうすればいいのかなぁ」

エルノートの背に、冷たい汗が流れる。

歩き出そうと思うのに、足が動かない。


「まあ、それは辛いわね。でも、貴方は良く頑張っているのね。えらいわ。」

メイマナが柔らかく言って、涙目の少年の頭を撫でた。

思わぬところで褒められて、少年は目を丸くしてメイマナを見上げた。

「頑張ってる? コイツ毎日泣いてるのに?」

小突いた少年は不満気だ。

「怖い夢を見たくて見る人はいないでしょう? でも毎晩耐えているのだもの、頑張っているわ。そう思いませんか?」

そう言われると、と子供達は素直に考え始める。


「でもね、どんなことにも必ず終わりがあるものです。怖い夢は、昨日でもう、お終いだったかもしれません」

メイマナの言葉を聞いて、子供達はキョトンとする。

「でも、毎日見るんだ。きっと今夜も見ちゃうよ」

「そうですか? 今夜はもう見ないかもしれませんよ? もし今夜見たら、それが、最後かもしれません。明日はもう見ないかも」

笑顔で呪文を唱えるように言うメイマナに、涙目の子が聞く。

「もし、明日も見たら?」

「それが最後かもしれません。明後日は見ないかも」

「そんなの、分からない」

顔を顰めた大きな子に、メイマナは笑って子供達が手に持っている菓子を指した。

「そう、分かりませんね。初めて見るお菓子を今日食べられると、昨日の貴方は知っていましたか?」

子供達は一様に首を横に振る。

「そうやって、先のことは誰にも分からないのですもの。今夜見るかもしれないけれど、見ないかもしれない。それならば、見ないと信じてごらんなさい」


メイマナは、いつの間にか涙の乾いている小さな子を、柔らかな腕でそっと抱き、背中をポンポンと優しく二回叩いた。

「そして、もしも見てしまったら、『今日も良く頑張った。これでお終いだ』と唱えるのですよ」



エルノートは、強張りの取れた足を動かした。

メイマナに挨拶もせず、逃げるようにその場から立ち去る。

慌てて近衛騎士が続いた。


あれは一体何だ。

あんなものは、子供騙しだ。


そう思うのに、頬が熱い。

エルノートは口元を右手で強く覆った。

あの慈愛の微笑みが、柔らかいかいなが、まるで自分を包んだように感じられて、彼は激しく動揺したのだった。





カウティスとラードは、国境地帯の拠点から、馬を乗り継いで王城を目指していた。

この分なら日の入りの鐘までに、間に合うだろう。

「今月は、行ったり来たりですね」

馬を乗り換えるため、括り付けてあった荷物を外しながらラードが言った。


来週、六週一日はカウティスの誕生日だ。

誕生祭が執り行われる為、元々、明後日には王城へ戻る予定だった。

ザクバラ国との話し合いは一先ず終わっているし、堤防建造作業も順調だ。

二日早くなる程度では調整もさほど難しくはなかったはずだが、毎回調整と各種手配を行うラードは大変かもしれない。


「……感謝している」

「……何です? 急にしおらしくされると、むず痒いですが」

呟くカウティスに、ラードが器用に口の端を上げる。

カウティスは半眼で馬に乗る。


「では、神聖王国から無事に水の精霊様を守り抜いた時には、従者から側近に昇格して下さいよ」

荷物を括り付け終わって、ラードが腰に手を当てて笑って言った。

カウティスは軽く口を歪ませると、黙って馬を蹴る。

「あ、ちょっと待って下さいよ、王子!」

ラードは急いで馬の背に乗って、後に続く。



もう、とうに側近のつもりだったとは、悔しいので言わずにおいた。



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