企て
カウティスとラードは、日の入りの鐘が鳴る寸前で王城に着いた。
その足で、王の執務室に向かう。
相当に叱責されるものだと覚悟していたが、その多くを既に兄が受けており、カウティスに向けられたのは小言が多かった。
「申し訳ありません、兄上」
王太子の執務室に入ると早々に、カウティスが頭を下げる。
「気にするな。そなたの報告を、私の一存で止めたのだ。叱責されるのは私で当然だ。それより、セルフィーネの神聖力をそなたが安定させることが出来るのか?」
共に王の執務室から戻って来たエルノートが、椅子に座る。
机の上には、オルセールス神聖王国や、神聖魔法に関連する本が何冊も置かれてあり、既に兄が様々に手を尽くそうとしていることが窺えた。
「安定させることが出来るかどうかは分かりませんが、昨夜二人で魔力の流れを掴む作業が出来たので、何度か行えば効果があるのではと考えています」
「“慣らし”と呼ばれるものだな」
エルノートが机上の本を一冊抜き取り、パラパラと捲りながら、軽く眉を寄せる。
「確か、高位聖職者と行うと書かれてあったと思うが。そなたに出来るのか?」
「本来の“慣らし”とは違うのでしょうが、やれるだけのことは」
カウティスは表情を引き締める。
「出来る限り、急げよ」
エルノートが開けた本を置いた。
イスターク司教が管理官を連れて戻るのは、そう遠くない日のはずだ。
深夜になって、カウティスは庭園の泉を訪れた。
日の入りに王城に入り、王と王太子の執務室を続けて訪れていたら、こんな時間になってしまった。
王とエルノートには、庭園の泉で“慣らし”を行うことを伝えてある。
元々人が頻繁に訪れる庭園ではないが、念の為接近禁止令を出して貰ったので、誰かに見られる心配はない。
泉には、既にセルフィーネが姿を現し、月に向かって顔を上げ、青白い月光を浴びていた。
仄かに光を帯びるその姿は、それだけで一枚の完成された絵画のようで、カウティスは見惚れる。
やはり、この泉で見る彼女の姿が一番美しい。
カウティスが来たのに気付いて、セルフィーネがフワリと微笑んだ。
カウティスが泉に近寄り彼女の頬に手を伸ばすと、彼女は紫水晶の瞳を細めて聞く。
「王に叱られなかったか?」
カウティスはわざとらしく顔を顰めて見せた。
「叱るというより、文句だな。父上は最近小言が増えた」
ふふ、とセルフィーネが笑う。
その笑顔を見て、カウティスが眉を下げた。
「不安そうだ」
気遣うような青空色の瞳に見つめられ、セルフィーネは少しだけ目を伏せた。
「……また、皆を困らせているのかと……」
「そんなことはない。皆、セルフィーネを神殿に遣りたくないだけだ」
カウティスはセルフィーネを抱き締める。
「だから、出来るだけのことをしよう」
セルフィーネが胸の中で頷いた。
カウティスがセルフィーネの右肩下に、右掌を添える。
しかし聖紋は重なっても、何も変わらない。
セルフィーネが目を閉じて、僅かに眉を寄せる。
神聖力は、彼女の意思に反してひどく湧き上がるのに、発現させたい時には上手くいかないようだ。
これも“慣らし”を続ければ操作出来るようになるのだろうか。
「……ん」
力を込めるような声が小さく漏れると、カウティスの右掌にチリと焼けた感触がした。
その瞬間、カウティスの目には水色と薄紫色の美しい魔力が、二人を取り巻いて層になって流れているのが見えた。
昨日見た時よりも、水の魔力の流れは穏やかだ。
神聖力の発現が弱いからか、青銀の糸のような魔力は、細く切れ切れに漂っていた。
ただ、やはり明らかに水の魔力の流れには反している。
カウティスは左手でセルフィーネの右手を取ろうとして逡巡し、その手を彼女の細い顎に添えた。
聖紋が重なっている今は、お互いの感触を感じる。
顎の薄い肉の下に、細い骨までも指先に感じ、鼓動が早くなった。
彼女の顎をクイと引くと、上向きになった薄い淡紅色の唇に、そっと己の唇を落とす。
セルフィーネの薄い唇は、その見た目に反してとても柔らかで心地よく、僅かにヒンヤリとしているのに、吐息は熱かった。
カウティスは彼女の唇を、ゆっくりと、数度優しく啄んで、名残惜しく顔を離した。
「……昨日、口付けしなかったことを悔やんでいた」
熱い吐息と共に囁くカウティスの声に、セルフィーネが閉じていた瞼を開ける。
とろけるように潤んだ紫水晶の瞳が、彼を見上げた。
「…………もう一度」
囁くセルフィーネの声が、ねだるように甘く響いて、カウティスの喉元まで熱が込み上げる。
「目的を忘れそうだ……」
再び唇を近付け、今度は軽く喰んだ。
何度か柔らかい唇を味わった時、セルフィーネの身が震えた気がして、カウティスは顔を上げた。
「!」
身の周りに漂っていた水の魔力が、殆ど青銀の神聖力に覆い隠されている。
「……溢れてしまった」
頬を染めたセルフィーネが、目を逸らした。
「ははっ」
カウティスが笑って左手で彼女の右手を握り、青銀の魔力へと導く。
昨夜のように、絡まる細い糸のような魔力を、二人で少しずつ解し、流れを整える。
そうして、少しずつ、その特性を理解し制御出来るようになっていった。
図書館では、エルノートが魔術ランプの灯りの下で、本を捲っていた。
暫くすると、開いた本をそのままに立ち上がり、棚の奥へ歩いて行く。
その先は、王の許可なく立ち入ることのできない禁書庫だ。
侍従が慌てて声を掛けた。
「エルノート様、お願いでございます。今夜はもう、お休み下さい」
空の月は、既に中天を越している。
昨夜も、エルノートは禁書庫に入ったまま出て来ず、侍従と近衛騎士をハラハラさせた。
結局一睡もせず、イスターク司教に神聖魔法を施される始末だ。
エルノートは、侍従の心配そうな顔を見て、禁書庫に入るのを諦めた。
「ここにある本だけ、部屋に持ち帰る」
「畏まりました」
侍従はホッとした様子で、持ち出し記録を書付けに行った。
自室に戻るエルノートの足取りは重い。
周りの者に心配を掛けているのは、自分でも分かっている。
このままでは、王城の誰もが王太子の弱さを知るかもしれない。
それでも、寝台に横になるのが怖いと感じ、出来るだけ眠りに就く時間を少なくしようと足掻いてしまう。
あの終わりなき苦悶の時が、今夜も襲ってくるかもしれない思うと、既に胸が悪くなった。
『どんなことにも必ず終わりがあるものです。怖い夢は、昨日でもう、お終いだったかもしれません』
不意に、メイマナ王女の声が耳に甦って、エルノートは足を止めた。
『先のことは誰にも分からないのですもの。今夜見るかもしれないけれど、見ないかもしれない。それならば、見ないと信じてごらんなさい』
「……は…」
エルノートは、眉を寄せて小さく笑う。
子供騙しだと思った言葉が、しっかりと自分の中に残っている。
「エルノート様、どうかされましたか?」
居住区に入った途端に立ち止まったエルノートに、侍従が気遣わし気に声を掛けた。
「いや、何でもない。……戻ろう」
エルノートは再び歩き出した。
あの白く柔らかそうな
翌朝、王の執務室には、王と宰相セシウム、魔術師長ミルガン、エルノートとカウティスが揃う。
執務机には、美しく磨かれた銀の水盆が置かれてある。
水盆の上には、既に小さく水柱が立ち、仄かに光を帯びたセルフィーネが佇んでいた。
「神聖力の“慣らし”とやらはどうだ」
王がカウティスに視線を向ける。
「発現した後の制御は、分かってきたように思います。ただ、発現自体を止めることが……」
カウティスは水盆のセルフィーネを見た。
彼女はそっと胸の前で手を握る。
セルフィーネは神聖力の流れを掴む事が出来たようで、発現した神聖力を、一人で収めることは出来るようになった。
突然溢れた光で身を焼くような事は、もうないだろう。
ただ、発現自体を制御出来なかった。
ふとした瞬間に、胸に仄かな光が湧き出てしまうのだ。
王が小さく溜息をつく側で、エルノートが口を開いた。
「セルフィーネ、神聖力を隠すことは出来ないか」
「隠すだと?」
王が訝しげにエルノートを見上げる。
エルノートは、侍従が持っていた二冊の本の内一冊を受け取り、机に置いて開いた。
魔術に関する本のようだ。
「はい。魔術素質は生まれ持ったものですが、講義と実技の訓練を重ねることで、自在に魔術を発現出来るようになります。魔術素質の高い者は、魔術を発現する応用で、内包魔力を極めて小さく見せる事が出来るとか」
エルノートは言って、ミルガンの方を向く。
ミルガンは、頷いて疎らな口髭をしごく。
「実力を測らせないよう、隠すと言いましょうか。それなりに実力のある魔術士だと、本来の魔力よりも小さく見せることが出来ます」
エルノートは、侍従からもう一冊の本を受け取る。
ページを捲って、さっきの本の隣に並べた。
こちらは、聖職者についての本のようだった。
「ここには、『聖職者の見る精霊は、主である神の神聖力に極めて良く似ている。水の精霊と土の精霊は、主の月光神の魔力と似ており、薄い白から青銀のものがそれであるが、その力は弱い』とある」
セルフィーネは頷く。
「聖職者にはそのように見えるようだ」
魔術素質のある者には、水の精霊の魔力が水色と薄紫に見えるが、神聖力を後付された聖職者には、精霊は神の力を分け与えられた者としてしか映らないらしい。
「つまり、聖職者にとってセルフィーネの神聖力は、水の精霊の魔力自体と同じように見えるということになるのではないか?」
エルノートの言葉に、王とセシウムは難しい顔になって唸る。
「セルフィーネの神聖力を確かめに来るのは、管理官だ。管理官は魔術素質のない者しかなれないはず。そなたの魔力と神聖力をはっきりとは区別できない者だ」
エルノートは開かれた本を指で叩いて、セルフィーネを見た。
「セルフィーネ、神聖力を制御し、それを隠すのだ」
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