不安

離宮の中庭で行われていた園遊会は、予定時刻よりも遅く終了した。

主役の王太子エルノートが席を外し、終了時刻の午後の二の鐘半になっても戻ってこなかったからだ。


遅いことを案じた王が、侍従に様子を見に行かせると、熱いお茶が掛かって軽い火傷があるという事で、念の為薬師が処置をしているということだった。

メイマナ王女の失態だと呟きが漏れ始めた頃、着替えをした王太子が戻ってきた。

そうして、招待客達は最後の挨拶を交わし、園遊会は無事に幕を閉じた。





招待客が次々と会場を後にし、メイマナの下にも案内係がやって来た。

侍女のハルタと共に、係の後に従って中庭を出ようとして、声を掛けられた。

「メイマナ王女」

声を掛けたのはエルノートだ。

着替えをして、今は濃青の詰襟に白いマントを着けた彼は、足早にメイマナの方へ近付く。

メイマナの前まで来ると、几帳面に一礼した。


メイマナは、彼の顔色がマシになっていることに安堵した。

さっきは目の前で、一瞬にして紙のように白くなったので、園遊会が終わるまでには戻れないのではないかと心配していたのだ。



「メイマナ王女。先程は醜態を晒し……」

「申し訳ございません、王太子様! 王太子様があれ程に甘い物が苦手だとは思わず、己の基準であれもこれもと勧めようとした私が浅はかだったのです。さぞご気分が悪くおなりだったのでしょう? 慌ててお茶まで掛けてしまい本当に申し訳ございません。今のご気分は? もう平気でございますか?」


さっきの醜態をどうやって言い繕うか、どうやって謝罪するか、それだけで頭がいっぱいだったエルノートは、メイマナの畳み掛けるような言葉に圧倒されて、二の句が継げなかった。

「……メイマナ様、王太子殿下が困っておられます」

「あら? 私ったら、また」

ハルタの声に、メイマナは頬を赤らめ、周りにいる者達をチラリと見遣った。


その視線で、エルノートは気付く。

何とか自分を取り戻し、園遊会を無事に終えるために戻ったが、余裕がなく周りを見ていなかった。

近くには片付けに向かう給仕や侍女もおり、メイマナとエルノートの会話が終わるまで、端に控えて頭を下げている。

中には、エルノートの気分が悪くなった現場を見た者もいるだろう。

こんな場で、一体何を言い繕おうとしているのか。

メイマナ王女は、自分のせいで王太子の気分が悪くなったのだと、それで収めようとしてくれているのに。


「……もう、気分は良くなりました。……大変、失礼致しました」

それ以上の事は言えず、エルノートは口を噤む。

メイマナは微笑み、小さく頷いた。




日の入の鐘が鳴った後、エルノートは自室で、深く溜め息をついた。

今日は、とにかく疲れた。

ソファーに深く沈み込み、目を閉じてこめかみを揉む。


改めて侍従から話を聞くと、園遊会でエルノートが醜態を晒した後、場を収めたのもメイマナ王女だという。

王太子が甘味を苦手とすることを知らず、強引に勧めて気分を悪くさせ、慌ててお茶を溢したと説明していたらしい。

それであの後、王も深く追求してこなかったのだ。



あの時、メイマナがお茶と蜂蜜の話をしただけだったのに、エルノートの脳裏には、驚くほど過去が鮮明に甦った。

酸味のある琥珀色のお茶。

匙から垂れる、トロリとした黄金色の蜂蜜。

清涼感のあるハミランの香り。

微笑む真っ赤な唇。

そして、胃をねじられるような痛みと、無理矢理生命を削り取られるようなおぞましい感触を。


身体がブルと震え、再び喉元に込み上げそうになるのを、キツく目を閉じ、深く呼吸して止める。

夜中に悪夢を見る以外で、突然こんな風に思い出すなど、今迄なかったことだ。

昼間にまで今日のような事が起きれば、どうすれば良いのだろうか。

こんな事で、王太子として、王として正しく国を導いて行けるのだろうか……。


エルノートは不吉な考えを消すように、強く首を振った。

弱気な考えが過る事が増えた。

そんな自分自身が許せない。


そうして、自分で自分を追い込んでいることに、彼自身が気付いていなかった。





同じ頃、西部国境地帯では、拠点に戻ったカウティス達が、打ち合わせを終えて大型のテントを出て行く。


明日の午後に、ザクバラ国との話し合いを再開する為の、事前の打ち合わせだった。

ネイクーン王国側は、ほぼ予定通り堤防建造作業が進んでいる。

ザクバラ国側が落ち着いて、当初の通り作業を進めるということならば、ベリウム川の両側で建造をしていく事になる。



「川に行かないで下さいよ」

建物に入り、自室として使用している部屋に向かおうとしたところで、カウティスはラードに念押しされた。

「分かってる。行かないから何度も言うな。小舅みたいだぞ」

鼻の上にシワを寄せ、カウティスが言う。

ラードはカウティス以上に鼻の上にシワを寄せた。



ガラスの小瓶の魔石は、一晩しっかり月光を当てても、一日保たない。

セルフィーネは、堤防建造現場を見て終わる頃には、カウティスの胸から姿を消してしまった。


人形ひとがたが消えても一緒にいることは出来るが、陽光の下では消耗するらしく、マルクが見たところでは上空にいるようだった。

大気に溶けているのが、一番自然な精霊の姿だとマルクは言うが、カウティスには受け入れ難い。

カウティスにとっては、王城の泉に佇んでいる姿こそが、セルフィーネの自然な姿なのだから。


部屋に入り、魔術ランプに明かりを灯す。

下働きの者が、机の水差しに水を入れてくれているのを確認した。

「セルフィーネ」

「……いる」

声だけが聞こえる。

姿が見えないと切ない気持ちが増し、止められていても川に降りたくなってしまう。


司教達は去り、聖職者達もこの辺りにはいないようだ。

だが、今日のセルフィーネの様子を見るに、意図せず神聖力を発現してしまう程不安定なら、ザクバラ国側から丸見えの川原には行かない方が良い。

それで、ラードも念押ししていたのだ。

聖職者達が、せっかく神の奇跡を主張してくれている。

セルフィーネの神聖力は隠しておきたかった。


カウティスは、水差しからグラスに水を注ぎ、窓際に置く。

月光冴え渡る夜だ。

小さくてもセルフィーネの輝く人形ひとがたを見たかった。

しかし、セルフィーネは姿を現さず、声だけが聞こえた。

「カウティス、抱き締めて欲しい」

カウティスは一瞬息を詰めたが、寝台に腰掛けて両腕を広げた。

「いいよ、おいで」

感触なく両腕で抱くが、今朝拾ったあの赤い実の、リグムに似た青い香りがするのは気のせいだろうか。

「……カウティスの腕の中は、とても気持ちが良い」

セルフィーネの声が僅かに聞こえて、カウティスの鼓動は早くなる。

姿が見えなくて良かったかもしれない。

姿が見えれば、きっと衝動を止められずに、触れてしまいたくなるだろう。



「神聖力を制御するのは、難しいのか?」

カウティスの言葉に、セルフィーネは身体を縮めた。

「私には難しい。魔力とは、似ていても全く異なる力だ。……司教の慣らしでは上手くいったが……」

正直、一人でまた同じ様に神聖力を制御出来るのか、セルフィーネには自信はなかった。

気持ちの揺らぎで湧き上がる光を、どうすれば良いのか、不安が募る。


「慣らしが何度か必要だと言っていたが……」

セルフィーネとイスターク司教が二人だけで通じていたようなあの状況を、再び目にするのかと思うと、カウティスの胸の奥はチリチリと焼けて、落ち着いていられない。

どうしても必要なことなのだろうか。

知らず知らずの内に、カウティスの眉根が寄る。


「あれは……嫌だ」

セルフィーネが小さな声で言った。

今日、イスタークが行った“慣らし”は、魔力干渉のように、ほんの少しだが

カウティス以外の誰にも触れられたくない。

セルフィーネは怖気に、身震いした。


「俺も嫌だ。ものすごく」

カウティスが強く言って、セルフィーネはドキリとして、彼を見上げた。

眉根を寄せて、拗ねたように口を歪めているのを見て、怖気を忘れる。

カウティスが妬いてくれている。

それを感じると何だか頬が熱くて、彼女の胸の奥が疼いた。





翌朝、離宮のメイマナの下に、贈り物が届いた。


ハルタが笑顔で運んできたそれは、大柄を複雑に編み込んだ、レースの肩掛けだった。

薄い橙色で、所々に長い房が下がっている。

「まあ、素敵ね! こんな複雑な柄は初めて見たわ」

目の前で広げられた肩掛けを見て、メイマナは目を瞬く。


フルデルデ王国では、薄布を何重にも使って衣装を作る。

布自体に透かしを入れることはあるが、レースは殆ど使わない。

ネイクーン王国からの輸入品で、レース編みは人気だが、こんなにも大きくて複雑に編まれた物は初めて見た。

「エルノート王太子殿下からですわ。昨日、メイマナ様の衣装を汚したお詫びだそうですよ」

「お詫び?」


テーブルの嘔吐物を拭ったことだろうか。

真面目そうな王太子のことだ。

大方、侍従にでも聞いて、気に病んだのだろう。

気にしなくても良いのに、と言っても無理な話だろう。

侍従に口止めしておけば良かったかもしれない。


そう思いつつも、頬が緩む。

男性から個人的に贈り物が届くなど、婚約破棄になってから初めてのことだ。

「ハルタ、今日はこれを着けてみたいわ」

「はい、メイマナ様。どの衣装と合うでしょうね」


メイマナは、ハルタと侍女達と楽し気に笑った。


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