怖れ

翌日、土の季節後期月、四週四日。


オルセールス神聖王国からやって来た視察団は、イサイ村の近くの開けた場所に野営の陣を敷いている。

聖騎士のエンバーは、日の出の鐘が鳴る前に、早朝鍛練を行おうと川原に降りた。


昨夜イサイ村に泊まったはずのカウティス王子が、今朝も早朝鍛練に出てきていないかと見回す。

昨日の手応えが忘れられず、今朝も手合わせ願いたいと思っていた。

しかし、川原にカウティスはおらず、彼の従者の男がいただけだった。



「あの脱走王子め、また一人で消えたな」

川原を見回してブツブツ溢しているのは、ラードだ。

濃い灰色の髪をガシガシと掻いて、はあと溜め息をついたところで、声を掛けられた。

「カウティス王子が、どうかされたのか?」

ラードが声のした方を向けば、聖騎士のエンバーが銀の両手剣を持って近付いてくる。

ラードは姿勢を正して一礼した。


「今朝は、王子は?」

周囲を見回すエンバーに尋ねられて、ラードは軽く顔を顰めてみせた。

「外出されたようです。あの方は長く辺境においでだったので、一人で出歩くことに抵抗がないもので」

困ったものです、と付け加えるラードに、エンバーが色素の薄い目を細めて笑った。

「その割には、貴公は楽しそうに見えるが?」

カウティスを探しているラードは、ブツブツ言いながら、何処か楽しそうだ。

ラードは苦笑して肩を竦めた。

「確かに、くさくさして縮こまっているよりは、王子らしくて良いですね」





カウティスは馬に乗り、一人で朝駆けに出ていた。

日の出前の今は、東の空にまだ月が姿を見せている。

太陽と替わるまでの残り時間を惜しむように、今朝は強く光を降らせているように見える。

昨夜は雲ひとつない空で、月光は今以上に眩しかった。

きっとセルフィーネの回復は進んだはずだ。


日の出の鐘が鳴る前は、早朝鍛練を行うのが日課だ。

しかし今朝は、昨日の早朝鍛練の時に水球をぶつけられた事を思い出し、剣を握るのを止めた。

体調も悪くなく、場所も時間もあるのに、鍛練を行わないなど初めてのことかもしれない。

 


昨夜、ラードに『頭冷やして下さい』と言われ、ようやく落ち着いて一晩考えた。

正直、セルフィーネが『いや』だと言った理由は、まだよく分かっていない。

分かっていることは、セルフィーネは何時だって、大切だと思うものを守るために一生懸命だということだ。


この国の水源を保つ為。

民の暮らしを守る為。

精霊を鎮める為。

―――そして、カウティスの為だ。


消える前の、セルフィーネの顔を思い出す。

怒っているようでいて、今にも泣きそうに眉を寄せ、何かに耐えているように、薄い唇を引き絞って震わせていた。

会いたいのを我慢していて、拗ねたとか、そういうことではないように思った。

思い出すと胸が苦しい。

彼女に向き合わなければ。

例えどんなに怒らせて、どんなに泣かれても。


カウティスは、変化があればすぐに気付けるように、服の中から出して下げているガラスの小瓶を優しく握り込む。

「セルフィーネ」

どんな表情でもいいから、顔が見たい。

しかし、目を閉じている彼女には、カウティスの声が届かない。

どうすれば届くのだろう。

考えながら、馬が進むに任せて手綱を握っていた。


イサイ村を出て、特に何も考えずに拠点に向かう街道を駆けてきたが、気が付くと街道から外れて、川とは反対側の林の方へ入っていた。


この辺りの林には、踏み入ったことがなかったが、下生えの緑は濃く、所々に小さな花も咲いている。

既に馬が走れる程度に明るくなっているので、頭上で小鳥達が楽し気に歌い始めていた。

この光景も、浄化の夜からなのだろうか。

以前のこの辺りのことはよく分からないが、きっと、これ程のどかな光景ではなかっただろう。


そんな事を考えていたカウティスの頭に、コツンと小さな何かが落ちてきた。

大した衝撃もなく、彼の頭で跳ねて、地面に転がったそれを目で追う。

親指の先程の、真っ赤な実が転がり、緑の草の上で止まった。

鳥に突付かれたらしく、赤い実には掘られたような穴が空いていた。

見上げれば、同じ赤い実を付けた木が何本もある。

カウティスの知らない実だったが、鳥が突付いているということは、食用になるのだろうか。

月光を弾いてツルリと光った赤い実を見て、子供の頃に食べた棒付きの飴を思い出した。


棒付きの赤い飴……。


カウティスは馬を止め、腰の長剣を抜いて、赤い実のついた細い枝を一本切った。

それを持ったまま、馬首を反し、川原へ走る。

川原で馬から跳び下りると、穏やかに流れるベリウム川へ、枝ごと赤い実を投げた。



水の精霊の存在すら知らなかった、幼かったあの日。

偶然泉に投げ入れた、棒付きの赤い飴が、二人を出会わせた。

空中で弧を描き、川面に実が落ちるのを見て、カウティスは叫んだ。

「セルフィーネ!」




昨朝、寂しくて、怖くて、悲しくて、セルフィーネは意識を広く広く伸ばした。

何も感じたくなくて限界に広げた結果、魔力の回復が追い付いていない彼女は、気付かぬうちに水の底で目を閉じてしまっていた。


揺蕩う水の流れだけが、セルフィーネを満たしている。

国中の水が、豊潤と満たされ、正常に流れているのをただ感じていた。



ふと、極小さな波紋を感じた。

気に留める程のものでないのに、何故か彼女の心の奥から、それを見よと急き立てる声がする。

それで、水の流れから身体を持ち上げるように、目を開けてその波紋を見た。


真っ赤な何かが、月光を弾いて水の中に落ち、小さく波紋を広げてゆく。

泉の水に落ちてきた、あの日の赤い飴のように。


「セルフィーネ!」


気が付くと、セルフィーネはその赤い実を細い指で受け止めていた。


川面に水柱が立ち上がり、月光を吸い込むようにして、輝く人形ひとがたが姿を現す。

彼女が紫水晶の瞳を開くと同時に、抱き竦められた。

「セルフィーネ」

耳に掛かる愛おしい人の声に、一瞬で何もかもが攫われる。

「カウティス……」

セルフィーネは彼の胸に顔を埋めた。




「そなたがまた、長く眠ってしまうのかと心配したのだ。……目を閉じてしまう程いやだったのか?」

ようやく身体を離し、左手をセルフィーネの頬に添えて、カウティスが心配そうに顔を覗き込んだ。

「…………私は目を閉じていたのか?」

目を瞬くセルフィーネに、カウティスは愕然とする。

「もしかして、気付いていなかったのか? 何度呼んでも返事をしないから、てっきりそなたが怒って目を閉じてしまったのかと……」

「そんなことはしない! カウティスといたいと、一緒にいると約束した」

セルフィーネは強く首を振った。

どうやら目を閉じていたのは、無意識にそうなったことらしい。

カウティスはようやく安堵して、長い息を吐いた。

人騒がせな事だが、今はもうどうでもいい。

カウティスはもう一度、セルフィーネを抱き締めた。


「……セルフィーネ、俺は多分、そなたが何故『いや』だと言ったのか、分かっていないのだ」

言いながら、自分が情けなくなる。

いつも自分の気持ちばかりで、子供のようだ。

「教えてくれないか? また同じ様に、そなたを悲しませたくない」

真っ直ぐ真剣に向き合うカウティスに、セルフィーネの紫水晶の瞳が揺れる。


「……手合わせが……怖くて」

「怖い?」

思ってもみなかった言葉に、カウティスは小さく首を傾げる。

セルフィーネはゆっくり頷いた。


離れているのは寂しかった。

それでもカウティス達が懸念していることは理解出来たし、離れても見ていられたので我慢できた。

しかし、昨朝、カウティスが聖騎士と真剣で手合わせを始めて、セルフィーネの心は乱れた。

訓練場で騎士と行う手合わせとは、かけ離れていた。

あれは訓練用の木剣ではなく、真剣だ。

肌に触れれば、皮膚を裂き、肉を突く。

それなのに、何故彼等はあんなにも激しく剣を交わすのか。


セルフィーネは激しく狼狽えた。

カウティスが、誤って血を流したら?

清められたこの地が、最初に吸うのがカウティスの血であったら?

想像して大きく震えた。

急いでカウティスの名を呼んだ。


カウティス、カウティス。

やめて、お願いだ。やめて!


ガラスの小瓶から、どれだけ声を掛けても、カウティスと聖騎士は完全に二人の世界に入っていて、気付いて貰えなかった。

水を掛けて気付かせようとも考えたが、二人の手合わせがあまりに激しく見えて、セルフィーネにはどのタイミングで水を掛ければ良いか躊躇われた。

下手に掛けて、彼等の手元が狂ったら?


いよいよパニックになりそうな頃、マルクを含む数名が、川原に降りてくるのが見えた。

助けを求めようと思った瞬間、日の出の鐘が鳴ったのだ。


会えなくて寂しくて。

二人の手合わせが怖くて。

声が届かなかったことが悲しくて。

『いや!』

セルフィーネは叫んだのだ。



「……俺は、そなたの声に気づかなかったのか」

カウティスは愕然とした。

目を伏せて長いまつ毛を揺らしているセルフィーネを見て、胸を突かれる。

イスタークが『決闘かと思った』と評した手合わせだ。

セルフィーネは、さぞ怖かっただろう。

更に、彼女に血を連想させ、カウティス自身の身を案じさせたことが心苦しい。


「すまなかった。本当に……、すまない」

両手で彼女の頬を包み、上を向いた彼女の額に、己の額を合わせ、強く目を閉じる。

“怒った”とか、“拗ねた”とか、そんなことではなかったのに。

「……すまない」

「カウティス……」

呼ばれてカウティスが目を開く。

目の前には、潤んだ紫水晶の瞳が彼を見つめている。

「……私はまだ、カウティスの側にいては駄目なのだろうか?」

彼女の切な気な心細い声に、小さく息を呑む。

「側にいてくれ。何処にも行くな」

カウティスは、セルフィーネの淡紅色の唇に口付けた。


感触のない口付け。

それでも唇を離して再び瞳を覗くと、トロリと潤んだ紫水晶の瞳に、密かな熱が灯っている。

感触はなくても、節の立つ指で頬の曲線をゆっくりとなぞれば、彼女の白い肌が薄い桃色に色付いていく。

それが確かに一緒にいるのだという証で、胸は痛い程に強く打った。

「何処にも行くな、セルフィーネ」

心の内から溢れる想いが、熱い吐息となって吐き出される。

セルフィーネの細い肢体を掻き抱き、カウティスはもう一度口付けた。





イサイ村近くの川原で、剣を振っていた聖騎士のエンバーが、剣を下ろして空を見上げた。

「これは……」

日の出の鐘間近で、光を失いつつあった月が、突然青銀の細かな粒を振らせている。


視察団の野営地でも、神聖力を持った聖職者達が空を見上げ、月に向かって祈りを捧げ始める。

イスタークは焦茶色の大きな瞳を細めた。

「……何時までも隠してはおけませんよ、カウティス王子」



小さく呟いた彼の目には、輝きを増す水の精霊の魔力に、青銀の光が交じって見えていた。



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