心の在り様

王と向かい合って座るマレリィは、手にしたカップに視線を落とした。

揺れる琥珀色の水面を見ながら、ゆっくり口を開く。

「カウティスが生まれた頃の事です。エレイシア様が、フレイアに言って下さった言葉があります」

思い出すのは、今でも柔らかく笑い掛ける、友の優しい声だ。




その頃、マレリィの第一子、フレイア第一王女は6歳だった。


第二子のカウティスが生まれ、まだ床上げしていないマレリィが浅い眠りから覚めた時、寝台の上から幾重にも掛けられた薄布の天蓋の向こうで、フレイアの涙声が聞こえた。



「カウティスも黒髪だったのです。きっと私と同じ様に、敵国の子だと言われるのだわ」

その言葉に、マレリィは胸を突かれた。

フレイアはマレリィと同じ、黒い瞳と黒い髪を持って生まれた。

だが、それを気にしているようなことを、マレリィに言ったことはなかったように思う。

しかし、影では心無い言葉を掛けられ、辛い思いをしたことがあったということだ。


「フレイア、貴女の髪も瞳も、マレリィと同じでとても美しいわ。月光神が御座す、夜空の色ですね」

エレイシア王妃の柔らかな声が聞こえ、布の向こうでフレイアと話しているのが、彼女だと知る。

「今にも月光神の御力ひかりが降りてきそうです。私はとても好きですよ。フレイアは、どうかしら?」

「…………私も、母上の髪はすべすべで、いい匂いで、大好きだけど……。でも、敵国の髪色なのでしょう?」

フレイアが鼻を啜る音がする。

二人の他に、人の気配はない。

人払いされてあるのだろうか。

二人の抑えた声に、マレリィはただ耳を傾ける。

「……確かに、貴女の母上が生まれた国と、このネイクーン王国は昔から争ってきました。でも、それでフレイアが責められるのは、とてもおかしな事ですね」

静かな室内に、衣擦れの音が密かに響き、フレイアの鼻を啜る音が止まった。

どうやら、エレイシアがフレイアの顔を拭いてやったようだ。

「おかしい事なのですか……?」

「ええ。フレイアとカウティスは、両国が歩み寄った証なのですもの。宝物のようだと思いませんか?」

「宝物……」


「フレイア、私が好きな本に書いてある、素敵な文があるのです。貴女に教えてあげましょう」

エレイシアの声は優しい響きだ。


『人間は、親も、生まれる場所も、姿形も選ぶことは出来ない。

選ぶことができるのは、ただひとつ。

自分の心の在り様だけ』


「……心の、在り様?」

「そうです。フレイアがこの国の王族に生まれたことも、この容姿で生まれたことも変えられません。でも、これから貴女がそれらをどのように思い、考え、行動していくか、それを決めるのは全て貴女ですよ。“フレイア王女”という宝物をどのように輝かせていくのか、決められるのは貴女の心だけなのです」




マレリィは、手の中のカップを軽く揺らす。

「フレイアが様々な事を学び、魔術素質を伸ばす努力を始めたのはその頃からです」

フレイアは元々活発な子供だったが、その時期を境に、自らもっと王城の者達や、民に関わるようになった。

ザクバラ国の血が混じることを臆することなく話題にし、いつも笑っていた。


マレリィは琥珀色の水面に、その頃のフレイアが映っているかのように、愛おしそうに微笑む。

「そのようなことが……」

王も全く知らなかったことだ。

二人は暫くの間、この場にいない二人を思い出すように、黙っていた。


「それで、その話とメイマナ王女は、どう繋がるのだ?」

ふと、最初の疑問を思い出し、王が尋ねた。

マレリィは、顔を上げる。

「メイマナ王女は、エレイシア様と同じことを仰っていたのです」




五年前、フルデルデ王国の第四王女の結婚式と、第一王女の立太子の祝祭が続けて行われ、マレリィは公賓として出席した。


フルデルデ王国は母系制を重んじ、代々女王が治める国だ。

現女王は、フルデルデ王国民に多い健康的な濃い肌色の、体格の良い気の強そうな美人だ。

反して彼女の王配は色白で、全体的にぽってりとした印象の体格と、柔らかい笑顔と性格の持ち主だった。

第三王女メイマナと末の王子は、王配に良く似ており、後の四人の王女は、女王にそっくりだった。



マレリィがそこに出くわしたのは、偶然だった。

開けた中庭の一角で、泣いているまだ幼い王子を、メイマナ王女が慰めていた。

どうやら容姿のことで、ひとつ上の姉王女から、からかわれて泣いているらしい。

どちらかといえば女性強位の国風だ。

王子であろうとも、色白で弱々しい風貌の末っ子は、何かと揶揄される対象のようだった。


「ニザル、大丈夫よ。貴方はこれから大きくなって、どんどん素敵な男性になるのだから」

メイマナが明るく言って、ニザルの顔を拭く。

しかし、ニザルと呼ばれた王子はぶんぶんと首を振った。

「姉様、でも、私は父上にそっくりだといいます。大きくなってもそっくりなのでは?」

フルデルデ王国の王配は、笑顔の素敵な男性だが、精悍で男前とは言い難い。

メイマナは眉を上げて笑う。

「あら。でも父上は、あの母上が『この人でなければ嫌だ!』と王配に選ばれた方ですよ? とても素敵な方だと思いませんか?」

ニザルは言葉に詰まるが、でも……と口を尖らせた。


メイマナは小さく息を吐き、弟の顔の前に指を一本立てた。

「素敵な言葉を教えてあげましょう、ニザル。『人間は、親も、生まれる場所も、姿形も選ぶことは出来ない。選ぶことができるのは、ただひとつ。自分の心の在り様だけ』」

「何ですか、それ」

ニザルはキョトンとして姉を見る。

「貴方の心の在り方次第で、これから生きていく全てを変えていくことが出来るということですよ。……私は、そう信じているのです」

メイマナは微笑んで、ひとつ大きく頷いた。




王が困惑気味に目を瞬いた。

「ただそれだけかと言われれば、そうなのです」

マレリィは眉を下げる。

すっかり冷めたお茶を一口飲み、カップを置く。

「根拠は弱いかもしれません。ですが私には、メイマナ王女のあの心根が、王太子を……、王太子に添って下さると思えるのです」

それでも今ひとつ腑に落ちない風の王が、腕を組んだ。


この縁は、エレイシア王妃の思いが繋いでくれたように感じてならない。

マレリィは両手を組み、目を伏せる。

メイマナ王女のあの心根が、きっと王太子を救って下さると、信じている。





イサイ村では、収穫祭を挟んでの作業状況などを、カウティス達が確認していた。


イスターク司教達四人と案内役の二人は、視察団本隊と無事に合流し、早速視察を開始した。

徒歩で川原の方へ降りて行ったまま、夕の鐘が鳴って半刻経った今も戻っていないようだが、後は案内役に任せているので、カウティスは気にしていない。

カウティスが気にしているのは、セルフィーネの事だ。

その所在を度々マルクに確認しては、首を横に振られて落胆していた。



今夜カウティスは、イサイ村の簡易宿舎に泊まる。


オルセールス神聖王国の視察団は、村の近くの開けた場所で野営だ。

拠点と同じ位の広さだが、資材が山と置かれているイサイ村では、もてなしなど出来ない。

というよりも、視察団の大型馬車は長期視察を視野に入れた装備がされているので、なまじこの村で休むよりも、野営の方が居心地が良いかもしれない。




カウティスは、夕食のパンを上の空で食べていた。

食欲がなくても食べろと、ラードに渡されたのだ。

盆の上のスープに、パン屑が降り積もるように落ちているが、気付いていないようだ。


「カウティス王子、スープが冷めてしまいますよ」

苦笑交じりにマルクが言った。

声を掛けられ、ハッとしたカウティスが、盆の上にパンを置いて立ち上がる。

そして舌打ちと共に、勢い良く黒い髪を掻き乱した。

上げていた長い前髪が落ち、青空色の瞳を隠すように額に散る。

心配と不安、寂しさと恐れが何巡にも過ぎ、ついに苛立ちが勝ったようだ。


「王子、大丈夫ですよ。きっとすぐ戻られます」

マルクが栗毛の眉を下げて言った。

セルフィーネが目を閉じていても、空に流れる魔力の見えるマルクと違って、カウティスには全く何も感じることが出来なければ、見ることも出来ない。

それが余計に不安を増長する。

「すぐって何時だ?」

「それは分かりませんけど……。会いたいのを我慢していて拗ねたのなら、会いたくて戻って来られますよ」

マルクが宥めるように言った。

「俺だって我慢していたぞ!」

苛立ちに、思わず強い声になった。


俺だって、何時だって会いたかった。

呼び出して抱き締めたかった。

どれだけ彼女を側から離したくないか。

好きで我慢していた訳でも、我慢させていた訳でもない。

ずっと側にいると言ったのに。

苦しくて、どうにかなりそうだ。


今迄黙っていたラードが、大きく溜め息をついた。

「自分が我慢しているから、相手も我慢して当然って。人間関係だと、特に男女は上手くいかないパターンですけどね。精霊相手だと、違うんですか?」

カウティスは息を呑んだ。

何の言葉も口から出てこない。

そんなカウティスを横目で見て、ラードは冷たく言う。

「頭冷やしてください、王子」

立ち上がり、マルクに合図をして二人で部屋を出て行く。




一人になった部屋で、カウティスは立ち尽くす。

頭から冷水を掛けられた気分だった。

“自分が我慢しているから、相手も我慢して当然”

そんな傲慢な考えでいたつもりはなかった。

けれど今、『俺だって我慢していた』と自然に口をついて出たではないか。

セルフィーネが、どんな気持ちで『いや』だと叫んだのか、分からないくせに……。


カウティスはドサリと椅子に座る。

目の前の机の上には、食べかけの食事と、水のたっぷり入った水差しが置かれてある。

「セルフィーネ」

声を掛けても、水差しの水は何の反応も示さない。


カウティスは額に手を当て、項垂れた。




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