早朝の小さな事件
ザクバラ国の東部、国境近くの町。
古い町並みは石造りの建物が多く、所々に苔むす石段がある。
深夜、月が中天に差し掛かる頃、石段の陰になる小さな物置の側で、二人の男が話している。
一人は、短い黒のケープを纏ったリィドウォルだ。
ケープの下は黒い文官服で、緩くクセのある黒髪を垂らし、暗い瞳で向かい合う相手を睨む。
「ネイクーン王国から水の精霊を奪えないとは、どういうことだ。話が違う」
抑えた声だが、そこには憤りが滲む。
「それはこちらが聞きたい。ネイクーン王国と皇帝の間に亀裂を入れる約束だったはずだ」
リィドウォルの向かい合う相手が反論する。
その者も文官のようだが、ザクバラ国の者ではないらしく、黒髪でなく茶髪で、旅装のローブを肩に掛けていた。
国章などはつけていないが、その身なりから高官であることは窺えた。
「フェリシア皇女が無傷で
男は詰め寄るようにしてそう言うが、リィドウォルにも分からなかった。
調べでは、確かにフェリシア皇女は、ネイクーン王国で王太子エルノートに毒を盛った。
聖女のせいで命は落とさなかったが、危ういところだったはずだ。
王太子が死ねば好都合だったが、別に死ななくても構わなかった。
問題は、大罪を犯したフェリシア皇女を、ネイクーンが罰さなかったことだ。
ザクバラ国であれば、王太子の命を狙った時点で斬首だ。
皇帝の愛娘であるフェリシア皇女の骸を以て、ネイクーン贔屓の皇帝に不審を与える筈だった。
何故、ネイクーン王族は皇女を許すのか、全く理解が出来ない。
「しかも、ネイクーン王国には、オルセールス神聖王国が手を伸ばすと噂もある。北部の国々には、竜人族が制裁を下した。これでは南北の均衡が崩れるどころか……」
「リィドウォル様、人が来ます」
少し離れた所で見張りをしていた、護衛騎士のイルウェンが声を掛けた。
二人は即座に話をやめ、建物の陰を別れて去ってゆく。
物置の裏を回り込み、泊まっている宿の裏口から建物に入る。
南北の均衡など知ったことかと、リィドウォルはギリと奥歯を噛む。
世界は何時だって、何処かが争っているものだ。
彼にはそんなことよりも、水の精霊をネイクーン王国から奪い取れないことが問題だった。
八年程前、両国間の紛争が激化していた時期から、リィドウォルはネイクーン王国から水の精霊を奪い取る事を考えてきた。
古くからの契約を覆す事は容易ではない。
それでも、それこそがネイクーン王国に大きな打撃を与え、自国の遺恨を晴らす事だと信じてきた。
―――そう信じてきたのに。
リィドウォルは宿の一室に入り、窓から月を見上げる。
忌々しい程に、美しい月の光。
その青白い輝きに、水の精霊を重ねて見るようになったのは最近の事だ。
あの、清廉と輝く
全ての不浄なるものを、清め、洗い流す光。
願っても得られるか分からない、神の御力などではない。
そこに、目の前に、確かに存在する。
リィドウォルは窓を掻く。
ネイクーン王国に打撃を与える為でも、自国の遺恨を晴らす為でもない。
ただ、この詛を解く為に。
翌朝、カウティスは日の出の鐘が鳴る前に、早朝鍛練を行う為に拠点を出た。
疎らな木立を通り、川原へ向かう。
以前はこの辺りも、川の氾濫で上がってきた泥や砂が乾き、一帯が煤けたような土と石の転がる地面だった。
しかし、浄化の夜を境に下生えが広がり、木立の間も一帯が若草色だ。
深呼吸すれば、新緑の爽やかな香りと、朝の新鮮な空気が胸に広がるようだ。
川原へ出る前に、首に掛けた細い銀の鎖を引き、胸のガラスの小瓶を取り出す。
呼び出して顔を見たい気持ちを抑え、そっと握り締めると、口付ける。
「すまない、セルフィーネ。川原に姿を見せないでくれ」
手の中の、ガラスの小瓶が微かに光った。
『
イスタークはそう言った。
確かに、考えてみれば、精霊は聖職者が崇拝する兄妹神の眷族なのだから、無下にすることはないのだろう。
だが、だからこそ神聖力を持ったセルフィーネを近付けたくない。
下手をしたら、神の使いとして祀り上げられそうな気がしてしまう。
東の空にはまだ月が光を放っていて、一人で剣を振る分には充分な明るさだ。
まだ日の出より随分前だからか、川原に聖職者はいないようだった。
カウティスはガラスの小瓶を胸に仕舞いなおし、剣を握った。
無心で剣を振るつもりが、今朝は様々な事が頭の中を駆け巡っていた。
『警戒すべきは、我々ではなく、フルブレスカ魔法皇国の竜人族の方です。彼らの一部は、ザクバラ国と繋がっていますよ』
竜人族を警戒すべきなのは分かっている。
セルフィーネを確認しに来て、警告を与えたくらいだ。
だが、ザクバラ国が竜人族と繋がりを持っているというのは、どういうことなのだろう。
竜人族は、フルブレスカ魔法皇国に君臨し、他国とは直接繋がらないのだと思っていた。
しかし昨夜は、案内役の貴族院の者も一緒にいて、詳しく聞くのは躊躇われた。
王よりも先に、貴族院が多くの情報を手に入れるのは避けたい。
イスタークの方もそう思ったのか、昨夜はそこで話を切り上げてしまった。
「おはようございます、カウティス王子」
木立の間から歩いて来たのは、聖騎士のエンバーだ。
マントは着けず、銀の両手剣を握って川原に降りて来る。
挨拶を返すと、彼はカウティスが剣を握っているのを見て、特徴ある薄い白茶の目を嬉し気に細めた。
「私もここで剣を振ろうと思ったのですが。カウティス王子、よろしければ、手合わせ願えませんか」
「手合わせ? 真剣で行うには、暗いと思うが?」
カウティスは、袖で汗を拭きながら答えた。
「皇国で
エンバーは、赤い縁取りの入った白い騎士服の上着を脱ぐ。
上半身が薄いシャツ一枚になると、その体格の良さが際立った。
「視察で国を出ている間は、相手になる者がおらず、鈍ってしまいそうなのです。不敬と思われなければ、是非」
エンバーは両手で銀の剣を構える。
カウティスも、聖騎士という者がどんな剣を振るうのか気になり、長剣を右手で握り直して向き合った。
日の出の鐘の音で、二人は我に返った。
即座にお互いに数歩下がり、剣を下ろす。
汗がどっと流れ出し、身体中を血が巡り、肩で息をした。
こんな事は初めてだった。
誰かと剣を打ち合って、それ以外の全てが頭から抜けてしまうなど。
相手の呼吸を感じ、身体の動きと、剣筋しか目に入らなかった。
気持ちが昂ぶり、もっと剣を合わせていたいと思った。
カウティスは向かい合うエンバーの表情を見て、彼も同じ様に感じていることが分かった。
突然、拍手が聞こえて、カウティスは周りを見た。
いつの間にか、イスターク司教と二人の聖騎士、ノックス、ラードとマルクが川原に下りて来ていた。
カウティスもエンバーも、全く気付いていなかった。
イスタークが拍手していると、つられたように皆が続けて手を叩く。
「緊迫の手合わせでしたね。もしや、決闘かと思いましたよ」
イスタークが濃い眉を上げて目を瞬く。
ラードが緊張の残る表情で、頷いて同意する。
カウティス達は、夢中で手合わせしていただけだが、外からはそんな風に見えていたらしい。
どちらかといえば、楽しかった方だったのに。
相性の良い相手とは、こういうものなのだろうか。
高揚した様子のままのエンバーが、破顔する。
「ありがとうございました、カウティス王子。得難い体験でした」
「こちらこそ。とても楽しかった」
カウティスも、笑顔を返す。
「握手をさせて頂いても?」
エンバーが右手を差し出した。
カウティスも右手を出そうとして、ぴくりと止まった。
こちらの立場が上とはいえ、皮手袋を外さずに握手するのは礼儀に外れる。
しかし、聖紋の欠片の痣がある掌を合わせて、聖騎士の彼は何も感じないのだろうか。
左手を出し直すかと逡巡した瞬間、ダプンと水音がして、川から拳大の水球が幾つも幾つも投げ付けられた。
「わっ!」「うわっ」
突然の事に、皆その場で腕で防ぐ。
水球は、カウティスとエンバーを中心に投げ付けられ、二人は頭からずぶ濡れになった。
周りの人々にもいくつか当たり、服などが多少濡れた。
水球が飛んでこなくなると、全員呆然と川を見たが、そこには何もなかった。
この感じは覚えがある。
以前、ザクバラ国と共同で堤防建造作業を始めた時に、騒然とした場を収めるため、セルフィーネが水を掛けた事があった。
それに似ている。
では、カウティスが握手をしないように止めたのだろうか。
そう考えたカウティスに掛けられた声は、思いもしないものだった。
「……もう、いや」
小さな声が、胸の辺りから聞こえて、カウティスは俯いた。
カウティスの左胸には、見たことのない表情をした、小さなセルフィーネがいた。
怒っているようでいて、今にも泣きそうに眉を寄せ、何かに耐えているように、薄い唇をキュッと引き絞っている。
「セルフィーネ、姿を見せるな」
イスタークから見えないように、思わず身体を捻ったカウティスの横顔に、もう一球、水球がぶつかった。
「わっ」
「いや!」
反射的に目を閉じて、再び開けた時には、セルフィーネの姿はなかった。
「……セルフィーネ?」
困惑したカウティスの背中に、笑いを含んだイスタークの声が掛かる。
「水の精霊って、怒るんですねぇ」
「は?」
振り返るカウティスに、イスタークは同情の籠もった瞳を瞬いて見せる。
水の精霊の声が聞こえず、訳の分からない者を残し、マルクだけがイスタークに同意して苦笑いした。
「怒ってましたね。……というか、拗ねてたのかも?」
「拗ねた!?」
カウティスは思わず銀の細い鎖を引いたが、服の中から取り出したガラスの小瓶は少しも反応しなかった。
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