告白
魔術士館の奥は、祭りの声も届かない。
静かな部屋の中で、窓際の水盆に陽光が差し、反射して壁に映った光が、ゆらゆらと不安気に揺れている。
「今、薬学を学んでいるのだ。知っているか? 薬剤の基本表記は、竜人語なのだよ、セルフィーネ。薬学を深く学ぶには、竜人語も学ばなければならないのだ」
セイジェの言葉を聞きながら、目を見開いたまま、セルフィーネは荒く息をする。
「……竜人の忠告、兄上には言ったのか?」
セルフィーネが狼狽えたように、目を逸らした。
セイジェは蜂蜜色の眉根を寄せる。
「言わずに、西部であんな大事を? もしそれでそなたが消滅したら、兄上がどんなに悲しむか考えなかったのか? そなたは、何故兄の気持ちを無下にするような行いをするのだ」
その苛立ちが混じった声音に、セルフィーネはビクリと身体を震わせた。
セイジェは、水盆に立つセルフィーネを見下ろす。
整った顔立ち、輝く紫水晶の瞳、細い指先、髪の一筋さえも見事に造り込まれた、儚く美しい姿。
しかし、セイジェには心を寄せる対象とは全く思えない。
どれ程美しく映っても、それは偽りの姿。
彼女は人間の命とは全く違う、精霊という魔力の塊に過ぎない。
それなのに、兄は……。
セイジェは拳を握る。
「……そなたは、この十三年半、兄上がどれ程苦しい思いをしたか知らないだろう」
国難を呼び寄せ、水の精霊を失った王子。
その風評で、心身共に追いやられた。
それでも水の精霊を待ち続ける兄に、セイジェは、『苦しいなら忘れてしまえば良いのに』と言ったことがある。
それでも兄は、『忘れる方が苦しい』と言った。
「どれ程苦しくても、兄上はそなたを待った。それどころか、先日はそなたとの関係を『恵まれている』とまで言われた」
セルフィーネは目を瞬く。
「そなたは、それ程想われているのに……」
セイジェは腹立たしさに端正な顔を歪めた。
そして、強く力を込めて言った。
「それなのに、精霊だからと一線を引くのなら、いっそ関係を断て。断てないのなら、私が兄をザクバラ国に連れて行く。再び私の兄に、あのような苦痛を与えることは許さない!」
セルフィーネは、己の震える両手を見つめる。
―――カウティスと、関係を断つ。
そう聞いただけで、震えた。
彼女は首を振った。
何度も首を振り、広がる水色の髪が波のように畝ると、両手で顔を覆った。
「……いや」
離れるなんて、出来ない。
セルフィーネは水盆から駆け上がり、窓の外へ飛び出す。
王城の人々の、喜びと祈りの中を駆け、城下を目指した。
関係を断てと言われて、初めて心の内にある、隠された願いが暴き出された。
カウティスが老い、ただ一人になって後悔したとしても、私だけが側にいたい。
彼が逝く最後の時に、共に消えたい。
ネイクーン王国が私の居場所だ。
それを知って、心から嬉しく思った。
でも、今や私にとってネイクーン王国は、カウティスのいない国では意味のないものになってしまった。
こんな自己中心的で、我儘な自分は、もう精霊ではなくなってしまったのかもしれない。
セルフィーネは泣いた。
泣きながら駆けた。
どうして涙が溢れるのか分からないまま、ただカウティスの下へ駆けた。
城下の裏通りで、カウティスはアナリナと向き合っていた。
花屋の店員が、二人の様子を窺いながら花の世話をしている。
暫く間を空けて、カウティスが小さく首を振った。
「……私の心は、セルフィーネにしか向いていない。知っているだろう」
「知ってます。……でも、恋心は勝手に育ってしまうものですから。そうでしょう?」
アナリナは肩を竦める。
確かにそうだ。
カウティスにも覚えがある。
淡い気持ちが、いつの間にか大きくなって、自分の心の中を占めてしまうのだ。
アナリナが歩き出す。
カウティスは、少し間を空けて付いて行く。
裏通りを抜けて、また大通りに合流する。
その先に、赤い煉瓦造りの鐘の塔があった。
アナリナは立ち止まり、鐘の塔を見上げる。
「『聖女様』って皆が持ち上げてくれるけど、誰も彼も必要なのは“聖女”で、神聖力のない田舎娘の“アナリナ”なんて興味がないんです。……この数年間、どんどん心がすり減っていくみたいでした」
風が通りを抜けていく。
何処からか、子供達の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「でもカウティスは、そんな私の心を、何回も掬い上げてくれた……。嬉しかった」
アナリナは、斜め後ろに立つカウティスの振り返り、見つめる。
「出来ることなら、南部に行った時みたいに、これからもずっとカウティスに一緒にいて欲しいです」
カウティスは目を逸らさず言った。
「一緒には行けない。私はネイクーン王国の王子だ」
「そうですね。でも、私がオルセールス神聖王国に、カウティスの聖紋を報告したら?」
カウティスが眉間にシワを寄せた。
アナリナは真剣な表情で続ける。
「そうしたら、管理官が必ず聖紋を確認に来るでしょう。カウティスの国籍が抜かれて、聖騎士に任命されれば、私の権限であなたを私の騎士に出来ます」
「アナリナ」
カウティスの声に険が籠もる。
アナリナは小さく笑って、鐘の塔の方へ歩いて行く。
「独りぼっちで旅を続けるのは寂しいんです。カウティスに一緒にいて欲しい。そう思ってはダメですか?」
終わりが見えない苦難を、ひとりで耐え続ける寂しさは、カウティスにも理解できる。
一時的にでも、誰かに添って欲しいと思ってしまう気持ちも。
「一緒には行けない。私のこれは聖紋じゃない」
カウティスは皮手袋の右手を握り締める。
「……そうですね。それは欠片で、本当に聖紋を持ってるのは、セルフィーネだもの。では、セルフィーネの聖紋を報告しましょうか? 神聖王国はどうするでしょうね。ネイクーン王国は水の精霊を失うのかも」
カウティスは鋭く息を呑む。
アナリナはカウティスの青空色の瞳を覗き込む。
「どうしますか、カウティス」
アナリナは、セルフィーネのことを持ち出せば、カウティスが怒るだろうと思っていた。
しかし、カウティスは暫く黙ってアナリナの瞳を見つめていた。
そしてゆっくり頭を振る。
「一緒には行けない。私の心は、セルフィーネのものだ。どういう状況になったとしても、それだけは変わらないだろう」
「……それでもいいから、一緒にいて欲しいと言ったら?」
カウティスは目を逸らさない。
「行けない。アナリナが本当に求めるものは、私が側にいても叶うものではない。私が君の為に出来るのは、いつか君が役目を終えて故郷に帰る時の為、あの地を整え、両国の関係をより良くしていくことだけだ」
アナリナは目を見開く。
「……それだけだ、アナリナ」
カウティスは一度もアナリナから目を逸らさなかった。
突然、カウティスの服の下で、ガラスの小瓶が光を放った。
布越しに僅かに光が漏れ、朧気な姿のセルフィーネがカウティスの左胸に姿を現すと、彼にしがみ付くようにしてアナリナを見上げた。
その瞳から涙が零れ落ちる。
「セルフィーネ!」
カウティスが驚いて、思わずセルフィーネの姿に右手を添える。
「……すまない、アナリナ。こんなつもりでは……私……、でも」
セルフィーネが弱々しく首を振ると、次々と大粒の涙が零れ落ちる。
「セルフィーネ、どうした。何があった?」
カウティスが焦るのを押さえて、アナリナが顔を近付けて首を傾げた。
「落ち着いて、セルフィーネ。ゆっくりでいいわ。どうしたの?」
セルフィーネは、涙に濡れた瞳でアナリナを見上げる。
「…………嫌だ、アナリナ、連れて行かないで。……カウティスを、連れて行かないで……」
お願い、と消え入りそうに言うと、セルフィーネは顔を伏せる。
カウティスは息を詰めた。
「セルフィーネ、……待て、泣くな」
セルフィーネの様子に、途端に狼狽え始めるカウティスを見て、アナリナがふと表情を緩めた。
「大丈夫よ、セルフィーネ。私、今振られたところなの」
セルフィーネが僅かに肩を震わせる。
細い水色の髪の間から、涙に濡れた頬が見えた。
「今日はちゃんと気持ちを言えたわね。それでいいのよ。……もう、セルフィーネったら、いい子過ぎよ。欲しいものは欲しいって、嫌なものは嫌って、言っていいの」
アナリナはそっと手を伸ばして、小さなセルフィーネに触れる。
まるで、小さな妹の面倒をみる姉のようだ。
「言わないと、伝わらないの。それでどうするかは、言われた相手が決めることよ」
アナリナが上目にカウティスを見た。
さあ、とアナリナに促され、セルフィーネは顔を上げる。
止まらない涙に頬を幾筋も濡らし、セルフィーネはカウティスの服を掴んで言う。
「……カウティス、行かないで欲しい。……誰のものにもならないで……。何処にも行かないで」
「っ! 何処にも行かないっ、……そんなことになるわけないだろう」
カウティスの声が上擦った。
右手でそっと、服の上からガラスの小瓶を包む。
こんな風にセルフィーネに懇願されるなんて。
胸の奥が痛い程に熱い。
「ふふ、いいもの見せてもらいました」
アナリナが楽しそうに言った。
耳の赤いカウティスが目線を上げると、アナリナはひとつ息を吐いて、ぺこりと頭を下げた。
「意地悪なことを言ってごめんなさい。二人の聖紋のことは、誰にも言いませんから」
アナリナは頭を上げ、満足そうに笑った。
「本気で答えてくれて、ありがとう、カウティス」
カウティスは、私の気持ちを無下にせず、真摯に答えてくれた。
それで充分だと、アナリナは自分に言い聞かせた。
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