衝動

今夜も月は雲に覆われている。

いや、その雲の厚さは昨夜以上で、今夜は月影さえ見えない。

セルフィーネは祈るような気持ちで空を見上げるが、求める青白い光は欠片も降りてこなかった。



「焦らずに、月が輝く夜を待ちましょう」

マルクが側で、慰めるように言う。

セルフィーネは、ベリウム川の水面で己の消耗を自覚してから、動くこともできず、ただ焦燥感に駆られていた。


長い年月、ネイクーン王国で役割を果たしている内に、自分の魔力が大きくなり、いつでも自由に国内を駆け巡り、多くの場所を同時に護れることが当たり前になっていた。

水盆でなくても姿を現せるようになったのも、魔力量が増えていたからだ。

多少魔力を消耗しても、いつもすぐに回復出来た。

だが、その分、限界が分からなくなっていたのだ。


セルフィーネは震えた。

本当に自ら消えるところだったのだ。


「カウティスが『軽んじ過ぎる』と言ったのは、私が限界を超えそうだったから?」

震えるような声に、マルクが眉を下げる。

「そうですね……。カウティス王子が、ザクバラ国側に魔獣討伐に行かれた時、水の精霊様はとても心配されていましたよね。王子も、同じように水の精霊様を心配して、心を痛めたのだと思います」

セルフィーネは目を瞬く。

「…………私は精霊なのに?」

「人間でも精霊でも、王子にとっては、水の精霊様はただ一人の大切な女性ひとですから」

セルフィーネは、胸を突かれたように両手で押さえて項垂れた。


カウティスは今まで、何度も言ってくれていた。

人間でなくてもいい、精霊でも関係ない。

私だけが、“特別”たと。

それ程に大切にされているのに、私は彼の前で消えかけた。

なんと酷いことをしたのだろうか。



庭園の泉から、カウティスの呼ぶ声が聞こえ、セルフィーネは弾かれて顔を上げる。

目を凝らすが、目の前の川原以外は良く見えない。

『少しでいいから、姿を見せてくれないか』

その言葉に、顔を歪め、渾身の力で手を伸ばしたが、泉の水を僅かに揺らしただけだった。


儚げに揺れる霞のような魔力に、マルクが呟いた。

「水の精霊様……」

「カウティスに……会いたい……」

闇の中、セルフィーネは両手で顔を覆い、ただ立ち尽くす。





翌日、三週四日。

昼の鐘が鳴る前に、ラードが西部から王城に戻った。

カウティスと共に、王とエルノートにも西部の状況が報告される。


ネイクーン王国側は徐々に落ち着きを取り戻した。

しかし、西部の他の地域や、北部の街からも聖職者が視察に訪れ、もしや我が国から聖人か聖女が誕生したのではと騒いでいるらしい。

収穫祭が終わっても騒いでいたら、復興の邪魔だと散らさねばならない。



「ザクバラ国は、どうも混乱が続いている様子です。ザクバラ向こうの中央には、我が国とまだ争うつもりだった連中が大多数残っているらしく、そういう強硬派が、国境地帯の浄化に難癖をつけているようです」

過去の遺恨を晴らそうと固執している者には、国境地帯が荒れている方が、ネイクーン王国を責め続けるのに都合が良いということらしい。

復興を早めたい穏健派は、今回の浄化を歓迎しているようで、その対立が混乱を増長している。


「リィドウォル卿はどうだ?」

王が聞くと、ラードは難しい顔をする。

「あの方のことは良く分かりませんが、西部が浄化されたことは喜んでいるようです。すぐにでも堤防建造を再開したいように見えました」

彼は、穏健派に近いのかもしれない。

ザクバラ国の内情はまだ良くわからないが、一枚岩でないことは確かなようだ。


そして、ザクバラ国側の方が、聖職者を煽っている印象だという。

しきりに神の奇跡だと吹聴しているようだ。

国境地帯を浄化した功績を、ネイクーン王国のものにだけはしたくないらしい。

「そこは我が国と一致しているな。神の御技の賜物にして、出来るだけ水の精霊の印象を消すようにしろ」

王が溜め息交じりに命じた。




「セルフィーネの様子はどうだ?」

いい加減休めと言われ、王の執務室からも王太子の執務室からも出されたカウティスは、自室に戻る途中にラードに問う。

ラードは灰色の眉を上げて、おどけて答える。

「さあ? 私には魔術素質がないので見えませんから」

「……茶化すな。真面目に聞いている」

カウティスの固い表情に、ラードも態度を改める。

「随分参ってるようですよ。マルクが言うには、月が出ないので回復がままならず、王城へ出向くことも出来ないとかで」

カウティスは拳を握り、奥歯を噛む。

やはり、セルフィーネは姿を現すことが出来ないのだ。


「……まあ、月が出るまでは我慢するしかないですよ、王子」

何かを堪えている様子のカウティスに、ラードが声を掛けた。

水の精霊が、カウティスに会いたいと項垂れていたらしいという話は、今は言わない方がいいだろうと思った。

明日は収穫祭で、聖女の護衛に付く日だ。

間違えても、西部に戻るとは言わせられない。




カウティスがラードにも休むよう言うと、彼はさっさと城下に降りて行った。


一人になり、時間があると、セルフィーネのことを考えてしまう。

そんな自分を持て余してしまい、結局カウティスは訓練場に出向いた。

剣を振るう間は、何も考えなくて済む。

そう思っていたのに、思った程集中出来ずに溜め息をついた。

こんなことは初めてだった。

明日の収穫祭の準備で、各所が浮き立っているというのに、カウティスの心は重いままだった。



日の入りを過ぎて、空を眺める。

恨めしいことに、今夜も風で雲が流れていて、月は時々青白い光を降ろすだけだった。

それでも全く見えなかった昨夜よりはマシだ。

カウティスは、首から下げた銀の細い鎖を引き、美しい色合いのガラスの小瓶を窓際に置いて、寝台に横になった。


浅い眠りに、何度も目が覚めた。

何度目かの目覚めで、窓の外が明るいことに気付く。

起き上がって見れば、雲はいつの間にか流れ去り、月が眩しい程に青白く輝いている。

カウティスは堪らず立ち上がり、バルコニーの手摺りを飛び越えて一階に飛び降りると、そのまま庭園の泉を目指して走り出した。




セルフィーネはベリウム川で、ようやく顔を出した月の光を浴びていた。

その染みるような心地良さに、どれ程魔力を消耗していたか思い知る。


ふと、カウティスに呼ばれた気がした。

こんな真夜中に、そんな訳はないと思ったが、顔を上げる。

気のせいではない、庭園の泉で、呼んでいる。

そう気付いた途端、セルフィーネは駆け出していた。


彼女は上空に舞い上がり、東に向かって駆ける。

カウティスに会いたい。

他には何も考えられなかった。


いつもなら難なく渡れる距離が、とてつもなく長い距離に感じた。

それでも、月光の御力を借りて駆けきる。

王城が見え、庭園の泉を捉えると、セルフィーネは迷いなく泉に降り立った。

目の前には焦がれた相手が息を切らして立っている。


「セルフィーネ」

カウティスは泉に踏み入り、立ち上がった水柱と共に、セルフィーネを抱き締めた。

その身体はすぐに濡れてしまう。

それでも、少しも身体を離さなかった。

「カウティス、会いたかった……」

セルフィーネは、ようやく会えたカウティスの胸に収まり、目を閉じた。

彼の早い鼓動を聞き、消えなくて良かったと、心から思った。


「……ごめんなさい」

暫くして、消え入りそうなセルフィーネの声が聞こえ、カウティスはようやく少し身体を離した。

腕から水が滴る。

彼女は霞のように弱々しく、儚い姿だった。

カウティスを見上げると、細い水色の髪がサラリと揺れる。

「西部に帰れるだけの魔力がない。……無理をしたと、怒らないで……」

その細い声と、『ごめんなさい』という弱々しい言葉に、弱った彼女を自分の言葉で更に追い詰めたのだと知る。

更に、回復出来ていないと分かっていながら呼んでしまった。

「……すまない、俺が悪い。どうしてもそなたに会いたくて、呼んでしまった」

己を軽んじるなと言っておきながら、無理させているのは自分ではないかと、カウティスは自責の念に駆られた。





庭園の石畳みに座り込み、泉の縁で頬杖をついて、カウティスは静かに佇んで月光を浴びるセルフィーネを見上げている。

「……部屋に戻って休まないのか?」

「ここで休んでいる」

今更部屋に戻っても、眠れるはずがない。

セルフィーネが微かに笑う。

僅かでも笑顔が見られたことに、カウティスは安堵した。



セルフィーネの姿は、向こうがはっきりと見える程透けていた。

だが、その細い肢体に揺れるドレスの襞や、長く細い髪が美しく、見惚れる。

ほっそりとした顎や、滑らかな肩の曲線を見ている内に、カウティスは立ち上がり、無意識に手を伸ばしていた。


ピクリと、セルフィーネが小さく肩を震わせた。

カウティスの右手が、彼女の頬をなぞり、耳の下を通って首筋を撫でる。

「……カウティス、待って……、魔力干渉に、なってしまう」

セルフィーネが紫水晶の瞳を逸らし、震えるような息を吐いた。

魔力量が減りすぎて抵抗がないのか、カウティスが想像したように、その滑らかでひんやりとした肌の感触を右手が感じた。

その感触に、鼓動が跳ね上がり、血が上る。


魔力干渉になるということは、こんなに弱っているのに、カウティスの周りにはセルフィーネの魔力がなくなっていないということだ。


彼女は、どれだけ俺のことを想ってくれているのだろう。


カウティスは奥歯を噛む。

無理をさせたくないと思っているのに、今すぐに掻き抱いてしまいたいと思う自分がいる。

手を離せ、と、カウティスは己を窘めた。

しかし、どうしてもその感触を手離すことが出来ない。

力一杯瞼を閉じ、震える息を吐く。


「…………すまない、止められない」


カウティスは左手でセルフィーネの腰を引き、のけ反る首筋を右手で支え、淡紅色の薄い唇に口付ける。

初めて知る彼女の柔らかな唇の感触に、我を忘れ、何度も求めた。

彼女の吐息が頬を撫で、細い指がカウティスの胸に添う。

そのどれもが愛おしくて、カウティスが更に腕に力を込めた時、右掌がチリと焼けた。



それ以上は許さないというように、その痛みが干渉を強制的に終了する。

頬を染めた腕の中のセルフィーネが、熱を帯びた瞳を閉じた。

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