カウティスは、夕の鐘が鳴って半刻程経って王城に戻った。

王の執務室で西部の状況を改めて報告する。



王の執務室には、王族の面々に加え、宰相セシウム、魔術師長ミルガン、騎士団長バルシャークが集まっていた。


今朝、魔術士館への通信で報告していた内容に加え、国境地帯の詳しい状況を説明する。

カウティスの口から報告される国境地帯の様子に誰もが驚き、困惑している。

一番年長のバルシャークですら、そんな美しい西部の光景を見たことがない。

それ程長い間、西部の国境地帯は不穏で血生臭い場所だった。



「信じられぬ……。しかし本当ならば、それは確かに、神の御業だな」

呟く王に、カウティスが頷いた。

昨夜の出来事は、セルフィーネの祈りに月光神が応えて起きたのだと報告してある。

それも事実に違いない。

昨夜の白い光には、途中から青銀の光が混じった。

マルクも言っていたが、月光神の介入があったのだ。

「まるで“神降ろし”のようだな」

王太子エルノートの言葉に、カウティスはドキリとした。

聖紋を刻まれたセルフィーネが起こしたのだ。

浄化の神聖魔法なのだとしても、聖人や聖女にしか行えない。

ましてやあの奇跡は、神降ろしと言った方が正しいのかもしれない。


しかし、カウティスにはどうしても、この場でセルフィーネの聖紋のことは言えなかった。


「オルセールス神殿も、西の地で月光神の奇跡が起きたのではと、朝から騒いでいる。司祭がすぐに西部へ行くと言うので、状況が分かるまでは、と留めているが……」

魔術士達にも分かったのだ、聖職者にはさぞ興奮する瞬間だったのかもしれない。

王の顔に面倒くさいと書いてあるようだ。


「西部に行かせ、騒がせてやった方が良いのではありませんか? 後々の事を考えれば、水の精霊様は関係ないと思わせる方が得策だと思います」

セシウムが生真面目な口調で話す。

水の精霊が関係ないと思わせたいのは、勿論ザクバラ国にだ。

ミルガンも口髭をしごきながら頷く。

「確かに、国内でも水の精霊様に何かあったのかという不安から、問い合わせが続いておりますから、全ては神の行いということにした方が落ち着くでしょう」


「カウティスはどう思う?」

王が、正面に立つカウティスを上目に見る。

「それが良いと思います。ザクバラ国が、どれ程誤魔化されてくれるかは分かりませんが……」

思い浮かぶのは、リィドウォルだ。


『水の精霊とそなたは、浄化の力を持っているのだろう』


ある種の確信を持って、そう言った気がする。

今回の浄化を、彼はどう見るのか。


「よし、では早々に神殿に西部行きを許可しろ。神の御業を大々的に宣言してもらおう。バルシャーク、護衛を何名か付けてやれ」

「はっ」

バルシャークが一礼する。

「これで、西部国境が落ち着くと良いが……」

王が長い息を吐いて呟く。

側妃マレリィが祈るように目を閉じた。





翌朝、日の出の鐘が鳴る前に、カウティスは泉の庭園にいた。


一昨日の夜に御力を振り撒いた代わりというように、昨夜から厚い雲に覆われて、月は殆ど見えなかった。

これではセルフィーネも回復出来ないだろう。

おかげで今朝は、カウティスがいくら待っても泉の水は立ち上がらなかった。



ランプを掛けるための支柱に、魔術ランプを掛けて、剣を振るう。

庭園の花壇の外側にある大樹は、土の季節の終わりに葉を落とす。

夜の内に落ちた葉が数枚、カウティスの足元を風で流れる。

葉を踏まないよう注意を払い、右手で一巡を終え、左手に持ち替えた時、花壇の小道の方から人の気配がした。


「熱心だな」

「おはようございます、兄上。どうされたのですか?」

小道から現れたのはエルノートだ。

彼も早朝鍛練を行うためか、手には剣を持ち、短い立て襟のシャツで、マントもなかった。

侍従と近衛騎士は、小道を出た所で待機している。

「久しぶりに手合わせでもと、訓練場に行ってみたが、そなたはもうこちらに来ていた」

カウティスは訓練場で身体をほぐして走り込みをすると、決まって泉の庭園に来る。

「相手をしてくれないか?」

エルノートが剣を持ち上げて見せた。


日の出の鐘間近で、いつもなら既にだいぶ明るくなる頃だが、今日は雲のせいで薄闇だ。

魔術ランプの光はあるが、手合わせするには光量が足りない。

宵の頃を想定しての実戦訓練には良いが、兄との手合わせには向いていないだろう。

「……訓練場に戻りますか? ここでは明るさが足りません」

訓練場ならば明かりが多く設置されているので、例え夜間でも訓練出来る。

エルノートが顎を上げる。

「この暗さでは、私に剣は振るえぬと?」

「そういう訳ではなく……、ここでは手合わせしないで欲しいと言われているので……」

カウティスが視線を小さな泉に向ける。

子供の頃に、ここで手合わせをして汚した。

セルフィーネにがっかりされて、ここでは手合わせしないで欲しいと言われたのだ。


エルノートが不可解そうな顔をするので、いきさつを簡単に説明すると、彼は堪えきれず笑いだした。

笑い出すとなかなか止まらない兄に、カウティスは話すんじゃなかったと鼻の上にシワを寄せた。

「そなた達は、十年以上も経つというのに、何というか……」

「笑い過ぎです、兄上」

まだ笑っている兄に、カウティスは顰めっ面を見せる。



「訓練場に戻りますか?」

「……いや、そなたと話したかったから来たのだ。手合わせは次の機会で良い」

ようやく笑いが収まったエルノートが、ひとつ呼吸をしてから言った。

「浄化の件で、もう報告することはないのか?」

その声に、カウティスは身体を強張らす。

「……そなたが言わぬべきだと思うのなら、聞かないが」

エルノートは薄青の瞳を向ける。

兄のその瞳に、自分に対する信頼の色を見て取り、カウティスは表情を改め、姿勢を正した。

「……兄上には、お伝えしておくべきことが」

「聞こう」


カウティスは泉を見る。

主のいない泉は、細い噴水がサラサラと水音を立てているだけだ。

「セルフィーネに、月光神の聖紋が刻まれています。西部の浄化は、確かに月光神が介入しましたが、……セルフィーネが起こした事です」

エルノートが薄青の瞳を細める。

「神聖力を得ているというのか?」

「はい。ただ、上手く制御することは出来ていないようです。あまりに不確かで、報告が遅れました。申し訳ありません」

これからこの国の王になる兄だけは、水の精霊の変化を知っておくべきだろう。

だが、口に出してしまうと、言うべきだったのかと後悔に似たものが湧いた。


「魔力量が大きすぎて制御出来ないのか、それともその内に出来るようになるのか」

エルノートが小さく呟く。

カウティスは逡巡したが、右手の皮手袋を剥ぐ。

その掌を魔術ランプにかざして見せた。

「……傷か?」

「聖紋の欠片です。これと合わせなければ、セルフィーネは神聖力を上手く発現出来ないようです」

エルノートの表情が険しくなった。

「そなたに聖紋だと? いつそんなものが?」

「西部に滞在し始めた頃です」


エルノートはカウティスの顔を見つめて、時期を考える。

オルセールス神聖王国に、これが聖紋として認識されているならば、カウティスにはもうとっくに召喚命令が出されているはずだ。

ならば、カウティスを奪われることはないだろう。


「分かった。今はここだけの話にしよう」

エルノートが小さく頷く。

「全て、そなたと私の胸に留めておこう。竜人も現れて釘を刺されたところだ。今、皆に聞かせるべき話ではなさそうだ」

兄の言葉に、カウティスはほっと息を吐いた。

「良く話してくれたな」

エルノートがカウティスの肩を叩く。

カウティスは兄に一礼する。



ふと、エルノートが泉を見た。

「そなたとセルフィーネの縁とは、一体どういうものなのだろうな。まるで、神が繋いた絆のようだ」

そういうものを、運命というのだろうか。

一つ何かが起こる度、強く強く引き寄せ合っていく。

エルノートの言葉に、カウティスが首を振る。

「……私はただ、セルフィーネが大切なだけです」



雲に隠れ、光を放てない月の影に、恨めしくカウティスは目を向ける。


神の意思など知らない。

ただ、彼女が大切で、愛おしいだけだ。


王城の鐘塔から、日の出の鐘が鳴り響いた。



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