二人の聖女
自己犠牲
翌朝、日の出の鐘と共に、東の空で月が太陽に替わると、その陽光で照らされた国境地帯の光景に、誰もが言葉を失くした。
美しく見えてはいても、今まで生き物の姿は殆どなかった川の中には、光を弾いて泳ぐ魚たちが見える。
サラサラと柔らかな音を立てて穏やかに流れる川面には、何処からか白い水鳥が降り立ち、その長い足を優雅に踊らせながら、川底をついばむ。
灰色の石が転がるだけだった川原は、所々に短い草が顔を出し、疎らに生えていた木立の間は、下生えの緑で覆われ、頭上からは楽しげな鳥の歌が響いた。
朝の大気は清浄で、それすらも輝いているかのようだった。
長年、人間と魔獣の血と怨恨で穢され続けてきたこの一帯が、一晩で浄化された。
国境地帯にいた両国全ての者が、昨夜この地で奇跡が起きたのだと感じていた。
「王子、帰城命令が出ました。帰城して、詳しく報告せよと……」
マルクが広間に入って来てそう言ったのは、昼の鐘が鳴る前だ。
「早いな……」
カウティスが渋面を作る。
「いや、遅いでしょう」
ラードは半眼で、椅子に座ったカウティスを見下ろす。
狂った精霊が鎮められた事実は、日の出の鐘と共に王城に報告した。
王城の魔術士館は、各地の魔術士ギルドからの通信でパンク状態だった。
昨夜、各地の魔術士達は、空を覆う水の精霊の魔力の変化を感じ取ったらしい。
魔術素質の高い者には、水の精霊の魔力に、一時青銀の魔力が混じったのが見えたとか。
おかげで、水の精霊に何かあったのかと、次々に通信が入ることになったらしい。
今日は、土の季節後期月の三週二日。
五日の収穫祭に聖女の護衛任務がある為、カウティスは明後日の四日に帰城する予定だった。
「せめて今日一日は、この一帯の様子を見たいが。ザクバラ国の方からも、昨夜のことについて何か言ってくるだろう」
「既に、橋までは一度早馬が来たようですよ」
ラードはいつの間に動いたのか、イサイ村や近隣の村の話も聞き集めていた。
イサイ村の北の橋には、早朝にザクバラ国から早馬がやって来て、昨夜の浄化の光はネイクーン王国の仕業かと見張り兵に尋ねたらしい。
「我が国も今のところ何も分からず、突然の光に混乱している状態だと答えたようです」
ラードが腕を組みながら言った。
昨夜、あの一帯の光は、あれから四半刻程かけて薄れていった。
一帯に光が満ちている間に、カウティスはラードに拠点に連れ戻された。
光が薄れる頃には、どちらの川原にも大勢人が出てきていて、あちこちで騒ぎになっていたが、光の出所は分かっていないようだった。
「今のところ、王子の話はされていないようですが、水の精霊様が守って下さったのではと、漠然とした噂はされています」
確かに、今朝は兵士や作業員達から、『水の精霊様が浄化して下さったのですか』と何度も聞かれた。
カウティスは、『水の精霊はいつでもこの地を守っているが、昨夜の浄化には関係ない』と答えた。
しかし、次から次へとやって来て同じように質問されることに辟易して、今、建物の奥に引っ込んでいる。
「王子が落ち着いてここにいるよりも、急ぎ王城に戻った方が、こちらも混乱している様に見えて都合がいいかも知れません。戻られては?」
ラードの意見にマルクも賛成する。
「幸い、月光神の魔力が介入したのは、魔術士達も見たはずですし、王子は関係していないということにした方がいいと思います」
奇跡の技は、“偉大なる神の御力”の賜物ということにした方が良い。
「……分かった。ラードは予定通り明後日まで残って、こちらの状況を見ていてくれ。王城へは別の者を供にする」
ラードがあからさまに嫌そうな顔をする。
「そんな顔をするな。そなたが一番適任だろう」
「もう一声欲しいですね」
ラードが器用に片眉を上げる。
その目はどこか楽しそうだ。
カウティスは一瞬言葉に詰まったが、口を尖らせるようにして言った。
「……ラードにしか、任せられない」
「そこまで仰るなら、信頼にお応えしなければ」
ラードは満足気に頷き、オールバックにした灰色の髪を撫で上げたが、今度はカウティスが嫌そうな顔をした。
セルフィーネは魔力を消耗し過ぎた。
マルクが見たところでは、月光神の青銀の魔力がなければ消滅したかもしれないという。
昨夜、拠点に戻った時には、月光を当てたガラスの小瓶に姿を現しても、霞のような姿だった。
セルフィーネに言いたいことはたくさんあったが、部屋に入って最初にカウティスの口をついて出たのは、安堵の声だった。
「無事で良かった……」
その後で、その今にも消えそうな姿に、安堵に別の感情が混じる。
「しかし、何故あそこまで無茶をした!?」
「止め方が分からなかった」
セルフィーネは申し訳なさそうに言う。
カウティスとマルクは、呆気に取られて口を開けた。
ラードだけ意味が分からず、二人を見比べている。
「……止め方が分からなくて、あんな、物凄いことに……?」
思わずマルクが呟いて、セルフィーネは小さく頷く。
ラードも意味が分かったようで、額に掌を当てて天を仰いだ。
「すまない」
三人の様子に、セルフィーネは少し俯く。
「起こってしまったものは仕方ない。明日、明るくなってから状況を見よう。今確認は無理だ」
カウティスが小さく首を降ると、セルフィーネは、難しい顔をしている彼を見上げた。
「でも、これできっと魔獣は出なくなる。皆が苦しむことは、少なくなるだろうか?」
カウティスが目を瞬いてセルフィーネを見下ろす。
彼女は消えそうな儚い姿で、細い髪を揺らしている。
はっきりとは見えないが、その目は真剣にカウティスを見上げているのが分かる。
「カウティスが辛い思いをすることは、減るだろうか?」
カウティスは息を呑む。
カウティスを見上げる小さなセルフィーネを見て、皮手袋を着けた右手を握る。
「…………そうだな、これで魔獣は出現しなくなるかもしれない。皆、安心するだろう」
セルフィーネはほっと表情を緩めた。
「だけど、俺は、そなたにもしものことがあったら、聖紋を重ねた自分を決して許せなかっただろう」
カウティスは左手で、胸の辺りを強く握った。
その顔が苦しげに歪む。
セルフィーネは驚いたように目を見開いた。
「そなたが、もし消えたりしていたら、俺は……」
「カウティス……」
カウティスは、喉の奥から絞り出すように言った。
「セルフィーネ、そなたは自分を軽んじ過ぎる。俺は、それが辛い」
帰城する準備をしていたカウティスは、首に掛かった細い銀の鎖を引く。
緩めた襟元から、ガラスの小瓶を引き出すと、掌で優しくそっと握り締めた。
「セルフィーネ」
呼ぶと、ほんの僅かに小瓶が光を弾いた。
昨夜、カウティスの言葉に、セルフィーネは狼狽えたように顔を背けた。
すまない、とだけ呟き、当分の間は魔力回復に努めると言って、逃げるように消えた。
セルフィーネが自己犠牲的なのは、きっと精霊だからだ。
使われることが当たり前のことだと思っている。
だが、彼女は何も感じない訳ではない。
他者に使われれば使われるほど、心はすり減るのではないだろうか。
だから、気付いて欲しかった。
セルフィーネが苦しんだり傷付いたりすれば、カウティスも苦しいのだと。
彼女がカウティスに辛い思いをして欲しくないと思うように、カウティスも又、セルフィーネに辛い思いをして欲しくないと思っているのだと。
カウティスは、ガラスの小瓶を握って小さく溜め息をつく。
姿を見られないと、彼女を失うかもしれないと恐怖した瞬間を思い出す。
抱き締めたあの滑らかな肌に、今すぐ触れられたら良いのに。
そして、決して側から離れないと、何度も言わせたかった。
カウティスは、もどかしい思いを小瓶と共にそっと胸にしまい込むと、帰城する為、支度を整えて部屋を出た。
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