西部国境の奇跡 (前編)

翌日、明るくなる頃、対岸ではザクバラ兵が魔獣の死骸を焼いていた。

担当している魔術士がリィドウォルでないことだけ確認して、カウティスは川岸を離れる。



昨夜は、村に戻ってからラードに事の顛末を話した。

魔術士は肩の骨を折っていたが、駐在の薬師が処置した。

今日、太陽神の神官に診てもらうようだ。

その後で、軽窃盗の罪で兵士達の規則に則って罰する。

怪我をさせたこともあり、カウティスが口を挟もうとしたが、彼等なりの理由があっても、けじめは付けなくては作業場が纏まらなくなると言われ、ラードと兵士長に任せた。 


そして、水の精霊はネイクーン王国から出ることは出来ないのだと、改めて周知させるよう言い渡す。

二度と、同じ様に思う者が出てはならない。


カウティスは、予定通りの仕事を終えて、出来るだけザクバラ国の預り人達の目に付かないように、イサイ村を出る。

何となくぎこちなくなってしまった彼等が、再びネイクーンの作業場で馴染めると良いが、大丈夫だろうか。

「大丈夫ですよ。皆、やるべきことが目の前にあるんですから」

心を見透かしたように、ラードが言った。




夕の鐘が鳴る前に、カウティスは拠点に戻って来た。

拠点での報告や情報共有はラードに任せ、一旦部屋に戻る。


長剣を寝台に立て掛け、机の上の水差しを見る。

下働きの者が、新しい水をいっぱいに入れてくれていた。

「セルフィーネ」

「……いる。おかえり、カウティス」

声だけが聞こえた。

「顔を見せてくれ」

カウティスの胸のガラスの小瓶に、小さなセルフィーネが現れた。

カウティスはその小さな姿に、そっと手を添える。

セルフィーネは目を閉じて、カウティスの指に頭を凭れさせた。



「止めてくれて、助かった」

カウティスの声に、セルフィーネは目を開ける。

「……そなたが止めてくれなかったら、俺は、怒りに任せて血を流したかもしれない」

カウティスは奥歯を噛む。


あの時、目の前の魔術士を斬るつもりで、剣を振り上げた。

躊躇いは少しもなかった。

鞘から剣を抜いていなかったが、振り抜けば殺していたかもしれない。

この地を鎮めようとしているのに、何をしようとしているのか。


セルフィーネはカウティスを見上げる。

「そなたの怒りを感じて、見たのだ。どうしてあんなに怒っていたのだ?」

昨夜セルフィーネは、イサイ村の方から混乱の気配を感じて視界を移した。

そして、噴き上がるようなカウティスの怒りを感じた。


カウティスは彼女の透き通る姿を見つめた。

どうして言えるだろう。

水の精霊セルフィーネを物のように扱われて、怒りが抑えられなかったのだと。

ザクバラ国の者達は、彼女を御守りのような物だと思っているのかもしれない。

そう言っても、きっと彼女は『仕方のないことだ』と言うのだろう。

そんな風に言わせたくない。


「小瓶を盗って行かれて、腹が立った。俺以外がそなたに触れたようで……我慢ならなかったのだ」

それも本当のことだ。

セルフィーネは目を瞬き、その小さな頬が薄く染まる。

「……私も、カウティス以外に触れられたくない」

カウティスの息が詰まった。

今すぐにセルフィーネを抱き締めたい。

それが叶わない事が、堪らなく口惜しい。

カウティスは胸の小瓶を掌で包み込んだ。


セルフィーネはカウティスの胸に添って、目を閉じる。

ザクバラ国の魔術士が、ガラスの小瓶を盗ったのは、きっと自国へ水の精霊を持って行きたかったのだ。

国境地帯にいるザクバラ国の人間誰もが、水の精霊わたしの護りを欲している。

ザクバラ国の中央がどういう考えなのかは分からない。

けれども、この地にいる者は皆、この不毛な魔獣との戦いを、ネイクーン王国との諍いを、収めたいと願っているのに違いないのだ。

誰もが苦しんでいる。

このまま見ていることは出来ない。



セルフィーネは白い腕をそっと伸ばす。

気付いたカウティスが小瓶を持ち上げると、彼女は小さな手で彼の頬を撫でる。

そして、背伸びをするようにして彼の唇に口付けした。

「セルフィーネ……」

初めて彼女から口付けされ、カウティスの鼓動が早くなった。

澄んだ青空色の瞳を揺らすカウティスに、彼女は薄く微笑んだ。






ベリウム川で、セルフィーネは一人佇む。

今夜の月は、彼女の決意を知っているかのように一層輝きを増し、青白い光は冴え渡る。


セルフィーネは、ベリウム川の輝く水面を見つめる。

キラキラと美しく輝く水面とは対照的に、そこに漂う魔力は歪み、濁って澱んでいる。

精霊達の嘆きの声が、聞こえた。

セルフィーネは長いまつ毛を揺らす。

狂った精霊同胞を鎮めたい。

でも、憐れんでいてはいけなかったのだ。


軽やかに空を流れ、同胞と交わり、干渉し合いながら、この世界に住まう全ての命を見守る。

そういうものに、再び戻って欲しい。


セルフィーネの胸の内に、仄かに光が灯る。


『 神聖魔法は、祈り、願うこと 』


アナリナの言葉を思い出す。

祈り、願う。

そう、何度も感じたこの光は、誰かに幸せを祈られた時、誰かの平穏を願った時に生まれた。

セルフィーネは目を閉じる。

精霊同胞達よ。

どうか、苦しまないで。

元の姿に戻って、大空に昇って。

西部の人々の、笑顔が見たい。

平和で穏やかな日々になるよう、どうか……。


彼女の中の光が増してゆく。




カウティスは拠点を出て、木々の間を抜け、ベリウム川の川原を目指す。


「王子、今は対岸の何処から監視しているかも分かりません。せめて別の場所で試した方が」

追い掛けて来ていたラードが、カウティスの前に回り込む。

「分かっているが、セルフィーネを放っておけない!」


日の入りの鐘が鳴った後、セルフィーネに川原で神聖力を試すから来て欲しいと言われ、カウティスも止めたが彼女は頑なに首を横に振った。

何度ガラスの小瓶に、呼び掛けても返事をしない。

マルクによると、やはり川原に留まっているという。


緑のローブを揺らし、二人から遅れて走って来たマルクが、息を切らしながら川原の方を指差した。

「王子、水の精霊様の神聖力が、また……」

カウティスは息を呑み、ラードを押し退けるように川原へ走った。



セルフィーネの中の光は、どんどん膨れ上がる。


『消滅したくなければ 変わるな』

不意に、竜人に言われた言葉が頭を駆け巡り、セルフィーネは怯んだ。

光が揺らいで霧散しかけ、身体を折り、震える身体を抱き締めて、必死で心を奮い立たせようとする。


「セルフィーネ!」


セルフィーネは弾かれて声の方を見た。

川原に駆け下り、真っ直ぐに彼女の方へ向かってくる、その姿。

月光に輝く、青味がかった黒い髪。

傷だらけの力強い腕が、セルフィーネに伸び、澄んだ青空色の輝く瞳が、彼女を捉えた。


カウティス。

愛おしい、ただ一人の人。

彼を守りたい。

怒りに呑まれ、辛く歪む顔をもう見たくない。

苦しい事も、悲しい事もなく、笑っていて欲しい。


『 幸せでいて欲しいと願うの 』


誰よりも、カウティスに幸せであって欲しい。



セルフィーネの中の光が、急速に膨れ上がり、彼女を満たした。

彼女を支えようと、川に走り込んで手を伸ばしたカウティスも一緒に、光の中に埋もれた。

「王子!」

ラードとマルクは、カウティスに届かない位置から、それ以上一歩も寄ることが出来ず、その激しく眩しい光に手をかざして、目を細める。


「セルフィーネ!」

仰け反るようにカウティスを見上げるセルフィーネの頬に、彼は両手を添える。

膨れ上がり、彼女の中を満たした光が、出口を求めて聖紋を焼いた。

「カウティス……お願い、抱き締めて」

苦し気に懇願され、カウティスは彼女に腕を回した。

魔力干渉の時の様に、僅かにその滑らなか肌を感じた気がして、頭から全てが吹き飛ぶ。

ただ、愛おしくて、彼女を抱き締めた。


カウティスの右手が彼女の肩下に触れ、チリと焼けたように感じると、二人の紋様が合わさり、完全な聖紋になった。


突如、二人の間から光が弾けた。

輝く白い光が、二人を起点に広がっていく。

放射状に広がりながら、次第に青白い光に変化し、ベリウム川の水面を駆け、ネイクーン王国側の岸にも、ザクバラ国側の岸にも、川の上流にも流れ、全てを覆い尽くしていく。



マルクはその光に圧倒されて、砂利の上に座り込んだ。

美しい水色と薄紫色の魔力が、目にも眩しい白い光と混ざり合い広がっていく。

川面に漂う歪み濁った魔力が、その光に包まれて洗い流されるように、瞬く間に色を正してゆく。

澱んでいた大気さえも流していき、吸い込む空気が、その清浄な光で肺を焼くようにさえ感じた。




湧き上がる眩しい光に、咄嗟に目を閉じたカウティスが、ゆっくり目を開ける。

しかし、二人の間から放出される光は、まだ消えていなかった。

眩しさに再び細めた目の前に、紫水晶の瞳を見開いたままのセルフィーネがいる。

「セルフィーネ」

彼女は人形の様に動かず、ただその身から光を放つ。

カウティスの方を向いているが、何も見ていないようだった。

彼の背に、冷たいものが流れた。

「セルフィーネ、もう充分だ!」

カウティスは急ぎ右手を引いた。

しかし、掌は固まったように彼女の聖紋から剥がす事が出来ず、どれ程力を込めても腕を引き抜く事が出来なかった。


その間も、二人の間から光は放出され続ける。

光の源は、セルフィーネだ。


「もういい! やめろ!」

カウティスは叫んだ。



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