憤怒

月光神殿に、青白く輝く月光が降り注ぐ。


幸せを願うのだと言われ、セルフィーネは戸惑いながら胸に手を当てた。

その手の下には、アナリナの掌がある。



アナリナは、セルフィーネの右胸に浮き出ている聖紋を見る。

アナリナの肩の聖紋のように、青黒い痣のようなそれは、よく見れば不自然に掠れている部分がある。


そういうことか、とアナリナは思った。

カウティスの右掌の痣のようなものも掠れていた。

あれは絶対に聖紋だと思っていたが、セルフィーネの聖紋と重なって、初めて意味を成すものだったのだ。

まるで、月光神が二人は一対なのだと言っているようだ。


アナリナは小さく笑って首を振る。

そうじゃない。

それよりも前から感じていた。

二人の絆は特別だと。

そして、そういう二人だからこそ、自分は強く惹かれたのだ。


アナリナがセルフィーネの胸から手を引いた。

「セルフィーネ、私、あなたが大好きよ」

二人の視線が合うと、アナリナは微笑む。

「そして、カウティスのことも好きなの」


セルフィーネの紫水晶の瞳が不安定に揺れる。

サラサラと揺れていた水色の髪が、一度大きく流れた。

「……知っていた」

「え?」

「アナリナは、きっとカウティスが好きなのだろうと……」


聖職者特有の、神々の御力を薄めたような魔力。

アナリナの胸にあるその魔力は、いつでも少し怒って固まっているように見えた。

それが、いつからだったか、カウティスがいる時だけ緩むようになった。

アナリナはカウティスのことを好きになっているのだと気付き、セルフィーネは胸を震わせた。

それでも、不思議とアナリナを遠避けることが出来ない。

精霊セルフィーネの為に、竜人に怒りをぶつけるような彼女が好きだった。


「……私は、……アナリナにも幸せになってもらいたいと思っている」

アナリナは目を見開いたまま、暫くセルフィーネと向かい合っていた。

セルフィーネは目を伏せ気味に、長いまつ毛を揺らして佇んでいる。



不意に、祭壇の間の大きな扉が開いて、女神官が入ってきた。

アナリナの前で、水盆に水柱が立っているのを見て、慌てる。

「申し訳ありません、お一人かと思っていたもので……。向こうでお待ちしています」

「あら、息抜きは終わりね。セルフィーネ、もっと話していたいけど、務めに戻るわ」

何か言いたげに、セルフィーネが顔を上げて口を開きかけた。

しかし、その薄い唇は僅かに震えただけで、何も言葉を発することがなかった。

アナリナは密かに眉を下げる。


「ありがとう、セルフィーネ。私、収穫祭の日に、カウティスに気持ちを伝えるわ」





深夜、吼声が聞こえた気がして、カウティスは目を覚ました。

反射的に枕元の長剣を手に取り、身を起こす。


もう一度聞こえた吼声が近い。

立ち上がって靴を履くと同時に、ラードが声を掛けた。

「王子、起きていますか」

「起きている。近いな。まさかネイクーンこちらがわか?」

「いえ。でも、川にまで来ているようです」



二人が外に出ると、夜番に立っていた兵士達が、木立の間からベリウム川を見て指差している。

作業員達も、何事かと起きて来る者もいた。

カウティスが木立の方へ行くと、対岸で膝まで水の中に浸かって、魔獣と戦っているザクバラ兵が数名いる。


カウティスは長剣を握り、奥歯を噛み締める。

手助けしてやりたいが、川を隔てては無理だ。

「……これだけの距離なら、魔術なら届かないだろうか。援護出来るか、魔術士に聞いてみろ」

言ってラードを振り返ると、ふと、胸にいつもの感触がないことに気付いた。


身体を動かした時に、布越しにコツンと胸に当たるあの小さな感触。


吼声が近くて、急いで出て来たので、ガラスの小瓶を窓際に置いたままだった。

急に、ざわりと嫌な予感がして、カウティスは踵を返す。

突然建物の方へ戻るカウティスに、ラードが声を掛けた。

「王子?」

「すぐに戻る」


建物近くまで戻って来て、カウティスは一瞬足を止める。

寝室として使用している部屋の窓が、大きく開いている。

月光が入るだけの隙間しか開けていなかったはずだ。

窓際に駆け寄って、息を呑んだ。

置いていたはずのガラスの小瓶がない。

部屋を出て、それ程時間は経っていない。

盗った者はまだ遠くへ行っていないはずだ。

カウティスは即座に駆け出した。



作業場やイサイ村で、物が失せたり盗られたりという報告が上がったことはない。

魔獣が思わぬ近い場所で出現し、驚きと恐れでいっぱいになっている、この僅かな隙にガラスの小瓶を盗るのだ。

ただの物盗りである訳がない。

小瓶あれに水の精霊が姿を現すと知っている者が盗ったのだ。


皆が集まっている木立から少し逸れて、出来るだけ気配を殺して街道寄りの方へ走る。

木立にいる者も、村にいる者も、皆の意識はベリウム川の方へ向いている。

松明と魔術ランプの明かりを頼りに、辺りを見回しながら、川の方へ意識を向けていない者を探した。


心臓の音が、やけに耳についた。

走っているからではない、あの小瓶が盗られたのかもしれないということが、カウティスを焦らせる。

あのガラスの小瓶は、カウティスにとってはセルフィーネの分身のような物だ。




村から出てすぐ、街道沿いに北へほんの少し行ったところで、背の高い草むらの影で言い争う男達を見つけた。

カウティスは、気配を殺して素早く近付く。

「ネイクーンの奴等が言ってただろう。カウティス王子は、これで水の精霊を連れ歩いてるって」

「やめろ、また両国間が拗れるかもしれない」

「じゃあ黙って見てろって言うのか!」

二人はザクバラ国から預かった、職人と魔術士だった。

「これを持って行けば、魔獣は出なくなるかもしれないだろ!」

そう言った魔術士の手に、ガラスの小瓶が握られているのをみて、カウティスの身体中に一気に血が巡った。


草むらの中に一歩踏み出し、二人の前に姿を見せると、カウティスは左手を出した。

「……小瓶を返せ。それに水の精霊はいない」

出来るだけ、感情を抑えて言う。

「カウティス王子……」

抑えていても、カウティスの身体から漂う怒気に、職人の腰が引けた。

しかし、魔術士の方は声を上擦らせながらも負けなかった。

「う、嘘だ。これには水の精霊の魔力が籠もっている」

「魔石が入っているだけだ。水の精霊はいない。……小瓶を返せ!」

魔術素質の低い魔術士には、月光の魔力が水の精霊の魔力と同じように感じるらしい。

カウティスが魔術士の方へ一歩寄ると、魔術士は後退った。


「それなら! それなら、どうしてそんなに必死なんだ! 本当は水の精霊がこの中にいるんだろう!」

魔術士が更に後退って、ガラスの小瓶を強く握り締めた。

「水の精霊を貸してくれ! 水の精霊の護りをっ……ぐあっ!」

魔術士が言い終わる前に、瞬時に間合いを詰めたカウティスが、鞘の付いたままの長剣で魔術士の肩を打った。

骨の軋む鈍い音がして、魔術士の手からガラスの小瓶が零れ落ちる。

草むらの上に落ちる寸前で、掬い上げるように受け止めたカウティスが、左手で胸に握り込んだ。

垂れた細い鎖がシャラと音を立てる。


草むらの上で転げる魔術士が、脂汗を流しながら、尚も縋り付いた。

「……少しだけでいい。ザクバラ国なかまを助けるために、水の精霊それを……」

カウティスの剣を持つ腕に、筋が浮く。


「貸せだと? だと?」


セルフィーネは、己をすり減らすようにこの地を鎮めようとしていた。

ザクバラ国の者でも憐れんで心を痛めていた。


そんな彼女を“貸せ”と言う。


カウティスが震えるように吐いた息に、更に怒気が籠もる。

怒りに満ちた瞳は、青い炎のようだった。

「ふざけたことを……!」

カウティスは右手に握った長剣を迷わず振り上げた。


« - - ! »


左手に握り込んだガラスの小瓶が熱を持ち、乱反射するように、青白い光を振りまいた。

光が鋭くカウティスの目を刺し、咄嗟に強く目を閉じて一歩後退る。



カウティスは目を開けて、荒く呼吸した。

剣を下ろし、胸に握り込んだガラスの小瓶を見下ろす。

「セルフィーネ……」


「王子! 無事ですか!」

ラードが走って来て、ザクバラ国の二人との間に滑り込んだ。

剣の柄を強く握るカウティスと、草むらに座り込んだ二人を見比べて、眉を寄せる。

「……やっぱり……、やっぱり水の精霊を連れているじゃないか! どうして!」

魔術士が叫んだ。

「もうよせ!」

横にいた職人が魔術士を止める。


叫ぶ魔術士を置いて、カウティスは踵を返す。

「……魔獣は?」

すぐ後ろに付いて来るラードに聞く。

「ザクバラ兵がとどめを刺しました。一体、何があったんですか?」

ラードが眉根を寄せて問うたが、カウティスは険しい顔で、黙って細い銀の鎖を首に掛ける。

そして、そのまま足早に村に戻った。




はっきり声が聞こえた訳ではない。

でも、セルフィーネに『だめ!』と言われたのが分かった。

彼女が止めてくれなかったら、どうなっただろうか。

カウティスは、怒りに飲まれ、我を忘れて剣を振ろうとした自分を恥じた。


セルフィーネは、イサイ村に来てはいけないと約束したから、来ない。

「セルフィーネ」

分かっていても、カウティスは小瓶を握って名を呼んでいた。




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