湧き上がるもの

開いた窓から、風が入った。

内庭園の方角の窓だからか、甘い花の香りが香油の匂いと混じる。


「その後、ネイクーン王国の嘆願によって、フルブレスカ魔法皇国が仲介に入り、私は輿入れし、停戦になりました。兄リィドウォルは未だにザクバラ王の側近です」

母が話を終えるのを見て、カウティスは視線を落とした。

カップに注がれているお茶は、すっかり冷めてしまった。



「父上も王妃様も、ザクバラ国が抱える遺恨をご存知だったのですね」

「そうです。お二人は、私を迎え入れることで、両国の関係を変えたいと思っていました。フレイアが生まれ、そなたが生まれ、争うことなく年月が経ち……、私もこのまま少しずつでも、両国は歩み寄れるのではないかと思い始めていました。ですが……」

マレリィが組んだ両手を震わせる。


十四年近く前にクイードが起こした事件で、水の精霊が眠ったことにより事態は変わってしまった。

ベリウム川がひどく氾濫したことから、再び紛争が起きてしまった。


カウティスは唇を噛んだ。

その事件に自分が関わっている事が、悔しくてならない。


「結局、ザクバラ国は変われていないのです。古い因習に憑かれたまま」

マレリィは力なく首を振る。

「…………何百年も前の出来事なのです。当時生きていた者はもう一人もおらず、ただ怨恨のみが受け継がれている……」



唇を噛んでいるカウティスを見て、マレリィは苦し気に眉を寄せた。

「許して下さい。そなたを、そんな両国の間に生んだことを。重荷しか与えてやれない、この母を……。」

その声は震えていた。


「……許せなどと、仰らないで下さい」

カウティスは立ち上がると、マレリィの座るソファーの側に膝をついた。

キツく組んだ母の手を、母よりも大きい己の両手で包む。

「感謝しております、母上。苦しいお立場でも、私を生み、慈しんで育てて下さった。重荷ばかりではありません。母上は愛情も、素晴らしい家族も与えて下さった。セルフィーネのことも、大切にせよと言って下さったではないですか」

幼い頃、周りの大人の中で、母マレリィだけはカウティスとセルフィーネの関係を認め、励ましてくれた。


マレリィは目を見開いてカウティスを見る。

カウティスは母を正面から見て、微笑んだ。

「両国の血を引くからこそ、私に出来ることがあるかもしれません。大丈夫です。母上の思いも、父上と王妃様の思いも、兄上とセイジェと共に、ネイクーン王国の王子として受け継ぎます」

「カウティス……」

マレリィは側で微笑む息子を見た。

ザクバラ国との間に生まれたことで辛いことも多かったはずなのに、その運命を背負わせた母を、真っ直ぐに見て笑ってくれる。

これからの両国に希望を失わない、その澄んだ青空色の瞳。


マレリィは身体を倒し、膝の上の、力強い息子の両手に額を落とす。

「……愛しています、カウティス」

「私もです、母上」

カウティスの両手に、温かい涙が流れた。





西部国境地帯の上空で、セルフィーネは一帯を眺めていた。

日の入りの鐘が鳴って、月が青白い光を放ち始めている。



セルフィーネが泣いている間、優しく小瓶を包んでくれていたカウティスに、添ったまま離れたくなかった。

その心地良さに浸っていたかった。

我儘を言って困らせてしまってはいけないと、西部に急いで戻ったが、もう寂しい。

セルフィーネは首を振って、その寂しさを振り払った。


視界を広げ、西部の全域を見る。

ベリウム川の上流では、堤防の建造が少しずつであるが着実に進んでいる。

下流に向けて足場を組む準備もされていて、多くの木材が積み上げられているのが見えた。

イサイ村や、現場の近くでは作業員達が火を囲んで笑い合っている。

その中には、数名の黒髪の者もいて、ぎこちなくはあるが、輪の中に入っているようだった。


人間とは不思議なものだと、セルフィーネは思った。

ネイクーン王国の人間と、ザクバラ国の人間。

何が違うのだろうか。

皆、同じ人間同士だ。

こうして一緒にいれば、話したり笑ったり出来ている。

憎しみ合い、殺し合う必要が、何処にあるのだろう。


セルフィーネは視界を南下させる。

拠点を過ぎ、更に南へ進み、カウティスと遠駆けして行った小高い丘を見る。

昼間見た時と違い、風で波打つ緑は見えなかったが、ベリウム川は月光の清い光を映し、遠くには人々が灯す明かりが温かく揺れている。

丘を降りたところに見えていた壁は、薄闇の中に姿を隠していて、両国の隔たりなど感じられなかった。


今、穏やかに見えている世界が、当たり前のように続けば良い。

温かい明かりが戦禍で消え去ることがないように。

両国の人間が並んで笑えるように。

ネイクーン王族が精霊を受け入れてくれたように、どの国の人間も、互いに受け入れ合う事が出来たなら。




ふと、セルフィーネは胸の奥に、仄かに温かいものが湧くのを感じた。

目を閉じてそれを捉えようとすると、消えてしまいそうになる。

彼女は、水源の水が湧くように、その温かい何かが胸の内に湧いてくるのを、ゆっくりと想像してみた。

すると、セルフィーネの想像に従って、胸の内で温かい光が湧き上がった。

どんどんと膨らみ、彼女の体の内を、白く輝く清浄な光が満たしていく。


これがあの時の光だと、セルフィーネは気付く。

この光を放出することが出来れば、あの時の様に浄化の光となって、狂った精霊達を鎮め、魔獣を消してやれるのではないかと思った。


しかし彼女には、思うように光を外へ出すことが出来なかった。


セルフィーネの胸から膨らんだ光は、既に彼女の内を満たし、それ以上の場所を求めて熱を帯びてゆく。

光は出口を求め、内側から熱を増して彼女の聖紋を強く焼く。

「ああっ……」

あまりの熱さと痛みに、セルフィーネは仰け反って喘いだ。

広げていた視界が戻り、拠点近くの上空に戻るが、魔力のバランスを保てずに彼女は落ちた。




ベリウム川を挟んで、ザクバラ国側の川原で、リィドウォルは食い入るように空を見ていた。

ネイクーン王国の水の精霊が、今夜は一際輝いていることに気付き、見ていたのだ。

それが突然白い輝きを見せ、眩しい程に光を帯びると、ベリウム川の水面に落ちた。


リィドウォルは咄嗟に駆け出して、川に入った。

あの白い光は、浄化の光だ。

やはり水の精霊が神聖力を持っているのだ。

あの光を、あの水の精霊を、この手に……。


「リィドウォル様! お待ち下さい!」

突然川に入ったリィドウォルを、護衛騎士のイルウェンが止めた。

今は流れが穏やかだといっても、川の中程は胸の高さまで水位のある川だ。

何の準備もなく、着衣のまま入れば危険だ。

「離せ!」

暴れるように手を振り解き、尚も川の中を進もうとするリィドウォルの肩を、イルウェンが強く掴んだ。

睨むように振り返ったリィドウォルの右目が紅く光り、二人の間に衝撃波が走った。

イルウェンが携帯している防護符で、二人は弾かれて、膝ほどの深さの水の中に倒れた。

頭からずぶ濡れになりながら、尚も顔を上げたリィドウォルの目に、輝く水の精霊の魔力が眩しく映った。



ベリウム川に落ちたセルフィーネは、その場で人形ひとがたを現し、なお藻掻く。


天には月が青白い光を放っている。

その光を紫水晶の瞳に映し、セルフィーネは月光神に震える手を伸ばした。


伸ばした彼女の手を、誰か掴んだ。

実際には、実体のないセルフィーネの手を掴むことは出来ないが、彼女の魔力にその手が触れた途端、彼女の中の熱と光が霧散した。


「水の精霊様! 大丈夫ですか!?」

セルフィーネが我に返ると、目の前にマルクがいた。

脹ら脛まで川に入り、水柱の姿のセルフィーネに話し掛けている。

彼女の手を掴んだのは、マルクだった。

「…………マルク……」

「はい。水の精霊様、動けますか? 動けるなら、どうか、拠点へ移動を。ザクバラの人間が見ています」

マルクの視線を追えば、セルフィーネにははっきりと見えないザクバラ側の水の中に、リィドウォルと護衛騎士が入り、こちらを食い入るように見つめている。

リィドウォルの、その射るような目だけはくっきりと見えて、彼女は目を逸らし、マルクの言う通りすぐに拠点へ戻った。




水の精霊の魔力が、去ってゆく。


リィドウォルは、川の中に膝をついたまま、国境の向こうを見ていた。

届きそうで届かない、その白い輝きを欲して。



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