ネイクーン王国の水の精霊

翌日、カウティスは日の出の鐘と共にラードと拠点を出て、昼の鐘が鳴ってすぐ、王城に帰り着いた。


セルフィーネは、昨夜から一度も姿を見せない。

夜の間側にいたようだが、人形ひとがたは現さなかった。

何があったかは、聞いても答えなかった。

答えないということは、言えないか言いたくないかのどちらかだ。

カウティスは、昨夜はそれ以上聞くのをやめた。



昼時だったので、自室に戻って着替えをする。

久しぶりに帰る自室は、侍女のユリナが気持ち良く整えてくれていた。

身支度をする間に、ユリナに昨日の事を聞く。

「竜人?」

「はい。皇国の使者と一緒に来られて、水の精霊様と共に、王族の皆様とお話になったとか。城内はその噂で持ちきりです」


カウティスはフルブレスカ魔法皇国に留学していた時の事を思い出す。

人間とは違う姿を持った竜人。

力も魔力も、人間とは比べ物にならない強さを持った種族だった。

遥か昔に、人間に多くの技術を伝えたのは竜人だというから、知識も人間の上を行くのだろう。


フルブレスカ魔法皇国は、人間と竜人が共に興した国だ。

現在は人間の皇帝が君臨していて、始祖七人は姿を見せないと言われているが、今尚、王宮の奥深くに生きている彼等は、皇国の実質的な支配者だ。

竜人族が本気で動くようなことがあれば、人間では太刀打ち出来ないのだから。


そんな竜人が、一体何故セルフィーネに会いに来たというのだろう。


清潔なシャツのボタンを留める手を止めて、胸に下がる小瓶を愛おしく撫でる。

「セルフィーネ」

やはり彼女は姿を見せなかった。



カウティスは、王の執務室へ向かう前に、王太子の執務室へ向かう。

ちょうど濃灰色の詰襟を着たエルノートが、侍従を連れて部屋から出て来るところだった。


彼はカウティスに気付いて手を上げる。

「戻ったか」

「はい、兄上」

軽く一礼して顔を上げ、カウティスは眉をひそめる。

「……兄上、少しおやつれになったのでは? 顔色もあまり良くありません」

半月程会っていなかったせいか、違いが顕著に見えた。

「そうか? 昨夜は禁書庫に籠もっていて、一睡もしていないからな」

「兄上……。お身体のことも考えて下さい」

「分かっている。そなたこそ、西部で少し痩せたのではないか? 昼食は摂ったのか?」

「先程、部屋で摂りました」

サラリと話を流してしまう兄に、カウティスはわざとらしく溜め息をつくが、エルノートは軽く笑って手を振る。


元気になったら、また元の激務に戻っているのではないだろうか。

侍従に、今夜はちゃんと休んで頂くようにと釘を差すと、侍従は一瞬何かを言いたげにカウティスを見たが、恐縮したように返事をした。




王の執務室に入ると、執務机の前に王が座り、後ろに宰相セシウムが立っていた。

ソファーには第三王子セイジェと側妃マレリィ、壁際には騎士団長バルシャークが立っている。

カウティス達の後に、魔術師長ミルガンが入室してバルシャークの横に立った。


カウティスの久しぶりの帰城に、家族で言葉を交わした後、昨日の顛末について説明された。

水の精霊の声を聞くことが出来ないセシウムとバルシャークは、改めて詳しく聞いて、難しい顔をしている。


「セルフィーネ」

王が、机の上に置かれた銀の水盆に向かって声を掛けた。

普段よりも随分間を置いて、小さな水柱が立ち上がり、淡く輝く人形ひとがたが現れた。

ようやく姿を見せたセルフィーネにカウティスは安堵するが、彼女は俯いたままだった。

長く細い髪も、ドレスの細かな襞も、小さく揺れるだけだ。

その心細気な姿に、カウティスは思わず近寄って名を呼んだ。

「セルフィーネ」

カウティスの声に、彼女は初めて彼の存在に気付いたように顔を上げる。

カウティスの青空色の瞳を見ると、紫水晶の瞳が僅かに潤んで何か言いかけたが、再び俯いてしまった。



「昨夜、国史を洗い直してみましたが、どの本も水の精霊が我が国にもたらされた時の記述は、殆どが同じでした」

エルノートが二冊の国史を広げる。

一冊は図書館から持ってきた物で、もう一冊は王の執務室の書棚にある物だ。

ここには持って来ていないが、禁書庫の国史も昨夜確認したらしい。

「フルブレスカ魔法皇国に助力を願い出て、受理され、水の精霊を“授かった”とあります。“貸与された”と書かれているものはなかったので、敢えて書かなかったのか。もしくは、そもそも貸し与えられたと思っていなかったのかもしれません」

「勘違いしていたと?」

王が腕を組んで眉根を寄せる。

「確かではありませんが、禁書庫の国史にも記載がないということは、そういうことかもしれません」


ミルガンが水盆を見て、不揃いのヒゲをしごく。

「水の精霊様にお尋ねしてはどうですか? 契約時のことは覚えておいででしょう」

「セルフィーネ、そなたは契約時の竜人と王族のやり取りを覚えているのか?」

王の言葉に、セルフィーネは俯いたまま、感情の籠もらない声で答える。

「私は知らない。契約の主竜人との契約により、ネイクーン王国に在る間はネイクーン王族を仮のあるじとし、王国の水源を守り保つ。水源を枯らすこと、定められた国境より外へ出ることは禁じられている。……知っているのは、それだけだ」

契約内容を口にするセルフィーネの姿に、カウティスが拳を握った。


「どちらでも、構わないでしょう」

カウティスの言葉に、皆がカウティスの方を見た。


カウティスは固い表情のまま、息を吐く。

「私達はずっと、水の精霊セルフィーネが“貸与された”などと知らずに生きてきました。今更それを知ったからといって、何が変わるのですか? 彼女はネイクーン王国を大切にして、ずっと守ってきた。それが事実であって、真のあるじが私達でないことの、何が問題でしょうか」

カウティスは、美しく磨かれた銀の水盆に手を添える。

セルフィーネは俯いたままだ。


「……セルフィーネ、顔を上げてくれないか」

カウティスは、低く優しく問い掛ける。

「教えてくれ。そなたは、何を憂いている? 何に苦しんでいるのだ?」

問題なのは、あるじが誰であるかということではない。

竜人に言われたことで、彼女が何かを思い悩んでいることだ。



セルフィーネはゆっくりと顔を上げた。

彼女の顔をカウティスが覗き込むと、たちまち紫水晶の瞳が潤む。

「……ハドシュは、私の変化を確認に来たと言った。水源を保つこと以外の役割を与えるなとも……」

カウティスは黙ってセルフィーネの言葉を待つ。

周囲の者も静かに見守った。

セルフィーネの潤んだ瞳から、雫が一つ零れた。

「私は、これからもネイクーン王国この国にいたい。でも、もう、私はこの国の為に何もしてはいけないのだろうか。……乾いた地に雨を降らせることも、荒れる川を抑えることも、西部の人々を助けたいと願うことも」

彼女の瞳から、次々に大粒の涙が零れる。

「……カウティスと、辺境の端まで、民の声を聞きに行くことも……」


『これからは新しいやり方で、一緒に国を守っていこう。俺達の、未来だよ』


カウティスと共に、あの眩しい未来を望むことはいけないことなのだろうか。

今まで担ってきた役割は、精霊の身には全て余計なことだったのだろうか。

「……私が変わったことは、間違いだったのだろうか……」

物言わぬ精霊でいることが、やはり正しかったのか……。

セルフィーネは再び俯いた。




「国の為、民の為にそなたがしてきたことが、間違いであろうはずがあるか」

暫くして、セルフィーネの後ろから強い声が聞こえた。

振り返れば、カウティスと同じ青空色の瞳に、強い光を宿した王が彼女を見ている。


「水の精霊が変化し、我が国を守るために尽くしていることに、何の問題があるのか分からぬ。セシウム、皇国に抗議状を送る。文官を呼べ!」

セルフィーネが涙に濡れた目を瞬く。

「セルフィーネよ、そのように泣くな。そなたが我が国に授けられた時とは違う。そなたは既に、我が国の大事な一員だ」

「……一員」

セルフィーネは目を見開いて呟く。


王は頷いてから、鼻の上にシワを寄せる。

「だいたい、水の精霊をくれと嘆願した他国は分かっておらぬ。水の精霊をこのように清く育てたのは、ネイクーン王国我が国なのだぞ。水の精霊を貸与されたとしても、セルフィーネのように国の一員になるには長い年月が必要なのだ」

王の言葉をくっくと笑ったエルノートが、楽しそうに言う。

「父上が育てた訳でもありませんがね」

王がエルノートを軽く睨んだ。


「抗議状を送るなら参考に、過去に皇国に送った物の写しを全て持ってくるよう言え」

部屋を出て行こうとしていたセシウムに、セイジェが言った。

セシウムは頷いて侍従と共に出ていく。

「水の精霊様が、魔術士館と連携して成してきた功績を連ねて、共に送ってはいかがでしょう」

マレリィが王に提案すると、王が破顔する。

「良いな。ミルガン、早急に頼む」

「承りました」

ミルガンがモジャモジャの髪を揺らして頷いた。



思いがけない皆の反応に、セルフィーネはただ立ち尽くして目を瞬いていた。

遠い昔のように、ただ水源を保つだけの役割でいろと言われるのではないかと思っていた。

それだけがお前の重要な役割だと、王族から拒絶されるのではないかと。


「セルフィーネ」

呼ばれた方を向くと、カウティスが彼女を見つめている。

「セルフィーネ、あるじが誰であっても、そなたは大切なネイクーン王国の水の精霊だ。皆、そう思っている」

セルフィーネの瞳から、再び涙が零れる。

「そなたは、そなたのままで良い。今のまま、ネイクーン王国ここにいろ」

「カウティス……」

彼女の瞳からポロポロと涙が溢れるので、カウティスは眉を下げて笑う。

「そんなに泣いては、美しい目が腫れてしまうぞ」

涙を拭くことは出来ないが、カウティスは彼女の小さな頬に指を添える。

「セルフィーネの目が腫れる訳ないでしょう」

側で聞いていたセイジェが、呆れたように笑う。


セルフィーネは嗚咽を漏らして水盆から姿を消し、すぐにカウティスの左胸に現れて、その胸に顔を埋めた。

ネイクーン王族が、こうして精霊を受け入れてくれることが嬉しくて、涙が溢れる。



泣き続けるセルフィーネを、カウティスは小瓶ごと掌で包み込んだ。

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