越境

土の季節前期月、最終日。


日の出の鐘が鳴る一刻前、まだ月が東の空で薄く輝いているが、薄闇が晴れてきて、辺りの見通しが効く頃を見計らって、早馬がザクバラ国側に到着した。

魔獣討伐に協力する為、ネイクーン王国から応援を送る用意があることを知らせるものだ。


同じ頃、カウティスを始めとする、魔獣討伐の経験がある兵士を含めた十人が、イサイ村に到着した。

四半刻経って、ザクバラ側から協力要請があり、すぐにイサイ村の更に北にある橋を目指す。


橋を挟んで対岸に、ザクバラ兵が待っている。

その中央には、リィドウォルが立っていた。

カウティスは初めて橋を渡り、ザクバラ国領内に足を踏み入れる。




橋を渡り、越境した途端、カウティスは胸が悪くなった。

空気が淀んで感じる。

「……空気が悪いな」

呟いたカウティスに、ラードは周囲を見回して言う。

「そうですね。やはり少し我が国より淀んでいるように感じます」

カウティスは目を眇めた。

少しどころではない。

ネイクーン王国側からの落差に、目眩がしそうだった。


「カウティス王子。討伐協力を申し出て下さり、感謝しております」

リィドウォルが進み出て立礼する。

黒い詰襟に、短いケープを着けた姿だ。

魔術士として討伐に参加しても、ローブは着けない主義らしい。

後ろの兵士達もリィドウォルに習い、立礼する。

「共に復興に当たっているのですから、協力するのは当然のことです。力を尽くしましょう」

カウティスの言葉に顔を上げたリィドウォルが、彼の顔が曇っていることに気付いて目を細めた。

「不調ですか?」

「……いえ」

カウティスの返事に、ああ、と彼は頷く。

「水の精霊の護りが外れたので、酔いましたか」

「……護りが外れた?」

カウティスが眉根を寄せる。

「ネイクーン王国内では、王子は常に水の精霊の魔力を纏っているのでしょう。それが、我が国に入って、消えています」

リィドウォルは、カウティスの頭の先からつま先までをざっと見た。

魔力を纏わぬカウティスには、興味はないというように。

「普段、水の精霊の護りの中で感じなかった不浄なものを、突然喰らって酔ったのでしょう。すぐに慣れます」


カウティスは周りを見るが、確かに、ラードを始めとする他の兵士達に変わった様子はない。

カウティスは初めて気付いた事実に愕然とする。

ネイクーン王国側からの落差が激しいのではない。

自国では、自分だけが水の精霊セルフィーネに護られているのだ。




「カウティスが、国境を越えた……」

拠点で、セルフィーネが呟く。

共に拠点に残っているマルクが、彼女の不安気な声が聞こえた方を向く。

机の上の、水差しの水面が揺れている。

「大丈夫です。王子は、ずっと魔獣討伐をされてきましたし。きっと無事に戻られますよ」

セルフィーネを元気づけようと、マルクは出来るだけ明るく言った。


カウティスが辺境警備に就いていたことは知っている。

だがそれは、セルフィーネが眠っている間の事で、実際にカウティスが魔獣と戦っているところを彼女は知らない。

しかも、セルフィーネが目覚めた時に、カウティスが南部で少しの時間国境を越えていた時以外、今迄カウティスの存在を感じなかったことはなかった。


セルフィーネはネイクーン王国から出られない。

その魔力もまた、同じだ。

カウティスは今、水の精霊の護りから離れた。

澄んだ水の中に墨を一滴落としたように、彼女の胸の内に、じわりと不安が滲む。

カウティスの気配を感じることが出来ないだけで、こんなにも心細い。

「大丈夫。きっと大丈夫です、水の精霊様」

水差しの水が小刻みに震えていて、いつもの様子と違う事を察したマルクが、言葉を重ねる。

「……上空うえにいる」

セルフィーネは一言そう言うと、部屋を離れた。



セルフィーネは今の気持ちを持て余していた。

カウティスの存在は、彼女の中で日に日に大きくなっている。


いつの日か、人間のカウティスは自分を置いて逝ってしまう。

それは、漠然と受け入れていたはずの事実だった。

それなのに、今、僅かばかりカウティスの存在が消えただけで、この不安に押し潰されそうな胸をどうすれば良いのだろう。

その“いつか”を、本当に受け入れられるのだろうか。


せめて、昨夜浄化の光を放つことが出来ていたら、カウティスは討伐に出向くことはなく、こんなに不安にならずに済んだかもしれない。

何故、昨夜は出来なかったのか。

そもそも、精霊の自分が神聖力を使おうとすることが間違いなのだろうか。





ベリウム川を挟んでザクバラ国側は、ネイクーン王国側に比べて樹木が多い。

ネイクーンの北部の林に印象が似ていた。


一度人間を襲った魔獣は、必ずまた襲う。

手負いの魔獣は、まだ国境地帯にいるだろう。

昨夜は、ザクバラの拠点には太陽神の司祭が神聖魔法で守りを固めていたらしいが、一人の司祭では一晩が限界だそうだ。

今日中に仕留める必要がある。


討伐隊は三班に分かれて探索を開始した。

カウティスを始めとするネイクーンの討伐隊は、あくまでも討伐協力なので、ザクバラの指示に従う。

王子を含む隊を一般兵に任せられないのか、他の意図があるのか分からないが、リィドウォルを含む数名のザクバラ兵が一緒だった。


カウティス達はベリウム川沿いを担当することになった。

川から離れなければ迷うことはないし、ザクバラ国側も、他国の者を出来るだけ奥へ進ませたくないのだろう。


建造途中の堤防と、南へと続く足場を辿って行くと、足場が破壊されている場所に出た。

ここが昨日の襲撃現場なのだろう。

破壊された足場の側には、道具が散らかったままで、所々には生々しい血の跡が残っていた。

その中には、明らかに人間の血でない黒味がかった赤黒い塊もある。

「処理してないのか?」

ラードが顔を顰めた。

普通、魔獣討伐では、倒した魔獣は魔術士の火で焼く。

そうでなければ、そこから更に魔獣が湧き、獣も血の匂いに呼び寄せられるからだ。


「人手が足りていないのです。私は昨日は別の魔獣討伐に出向いていましたから」

リィドウォルがそう言って右手を一振りすると、魔獣の血肉と思われる赤黒い塊を、魔術の炎が焼く。

カウティスが眉根を寄せる。

「別の場所でも、魔獣が?」

「ええ。今では頻繁に現れます。何故でしょうね」

淡々と答えるリィドウォルの目に、魔術の炎が映って揺らいでいる。

さっきは気付かなかったが、その横顔には少し疲労が見えた。


魔眼持ちで、実力のある魔術士のリィドウォルだが、肩書は文官だ。

それでもこうして、討伐隊に参加している。

ネイクーン王国との紛争中も、殆どの期間、前線にいたという。

立場としては、彼は傍系王族だ。

戦いに出たとしても、主戦力で戦い続ける必要があるとは思えない。



「リィドウォル卿は文官だと聞いています。それなのに、何故そうまでして戦っているのですか」

カウティスの疑問に、リィドウォルは虚を突かれたような顔をしてカウティスを見た。

「……まさか、カウティス王子にそのようなことを聞かれるとは思いませんでした」

そして、ふと表情を緩ませて笑う。

その表情は母マレリィに似ていて、カウティスは一瞬ドキリとした。


「そなたはどうなのだ、カウティス。そなたこそ、王子の身で有りながらこうして戦っている。それは何故だ?」

砕けた物言いに変わり、ラードが警戒色を見せたが、その声音は今までのような高圧的なものではない。

むしろ、カウティスに対してよしみを感じているかのようだ。

「自国を愛しているからだろう。違うか?」

「それは……」

「そなたも私も、戦う力を持っているから、自国の為に使っているだけだ。より豊かな国にする為。民を今よりも富ませる為に」

リィドウォルは一度目を伏せる。

そして再び目を開けると、漆黒の瞳でカウティスを正面から捉えた。


「そなたと私は、似ているのだ」

彼の右目の奥が妖しく光った。

カウティスがその視線に怯んだ瞬間、吼声が響いた。

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