魔力干渉

深夜、ふとセルフィーネは顔を上げた。

中天には冴え冴えと輝く月があった。

いつの間にか空に雲は一つもなくなり、青白い月光と共に、青銀の光の粒が、闇の中を霧のように散っている。

さっきまで聞こえていた涼やかな虫の声も、今は聞こえない。

風もなく、辺りは静まり返っていた。


ふわりと、彼女は池の上に移動する。

池の水は澄み切っていて、底の石に付いている苔も、小さな銀色の魚も見えたが、不思議と少しも動かなかった。

その凪いだ水面に白い裸足の先を付けると、その足下から水柱が立ち上がり、彼女は人形ひとがたとして姿を現す。




「セルフィーネ」

池の水が立ち上がり、月光を集めるように輝くセルフィーネが姿を現すのを見て、カウティスはゆっくりと近付く。

一歩踏み出す毎に、心臓は強く打ち、彼女の側まで来た時には胸が痛い程だった。


自分の身体の周りを、薄紫と水色のオーラのようなものが、波のように揺蕩っている事に気付いて、カウティスは驚いた。

セルフィーネを見れば、彼女も同じ様に柔らかく揺蕩うものに包まれている。

これが水の精霊の魔力なのだと思ったが、魔術素質を持たない自分にどうして見えているのかという疑問は、不思議と湧かなかった。

初めて見る水の精霊の美しい魔力に、カウティスはただ感動し、目の前に立つセルフィーネに見惚れた。



「カウティス」

セルフィーネが名を呼び、微笑んで細い両腕を差し出す。

カウティスは自分の両手を上げ、彼女の白い両手を取った。


瞬間、カウティスが目を見開いた。

手を握った感触があるのだ。

実体の厚く重い感触とは違う。

だが、細く柔らかい、ひんやりとした彼女の手が、カウティスの手の中に、確かにある。

魔力干渉をすれば、魔力に感触があるなど、マルクは言わなかったはずだ。

では、これも自分の“想像”からくるものなのだろうか。

「……セルフィーネ、そなたの手に……俺は触れているのか?」

セルフィーネを見ると、同じ様に彼女も目を見開いて手を見つめている。

「……触れている」

彼女が顔を上げると、カウティスの視線と、揺れる紫水晶の視線がぶつかった。



カウティスは堪らずその両手を引く。

今まで何度も願ったが、叶わなかった。

だが今は、彼女の細い身体は簡単にカウティスの方に引き寄せられ、予め定められていたかのように、彼の胸にぴったりと収まった。

水色の長く細い髪が、遅れてカウティスの腕を撫でた。

そのサラリとした感触に、一気に血が上る。

彼女の細い腰に回した腕に力が入り、いつか想像したように、頭を下げて彼女の首筋に顔を寄せる。

滑らかでひんやりとした肌の感触に、カウティスは思わずその曲線に唇を添わせた。


セルフィーネは目を伏せた。

カウティスの強い干渉に、為す術もなく彼の厚い胸の中に収まる。

首筋に掛かる熱い吐息に、息を詰めた。

彼の肩の骨が、筋肉が、確かに彼女の鼻先に触れて、胸の奥が震え、どうすれば良いのか何も考えられない。 

カウティスの胸板に添った掌から、彼の早い鼓動が伝わり、身体の奥が仄かに熱を帯びる。

「……カウティス」

ようやく小さく声を出したが、カウティスの耳に届かなかったのか、逆に身体に回された腕に力が籠もり、身じろぎ出来なかった。


耳元で名を呼ばれ、カウティスは強く目を閉じた。

「セルフィーネ」

震えそうになる手に力を込め、掻き抱くように右手を彼女の右肩に滑らせる。




「あっ……!」

セルフィーネの身体がビクリと小さくのけ反った。

同時にカウティスの右掌にチリと痛みが走り、ハッと我に返る。

彼女が小さく息を吐いたのに気付いて、急いで身体を離した。

強引に自分の胸にセルフィーネを閉じ込めていた事実に、愕然とする。

「っ! すまない、セルフィーネ。大丈夫か?」

彼女の顔を覗き込めば、熱を持った瞳で見つめ返され、カウティスは息が詰まりそうになった。


セルフィーネは息を整えようと、胸に手を当てる。

「……大丈夫だ、カウティス。このまま干渉を止めないで」

彼女は一歩下がり、カウティスに背を向けると、左手で細く長い髪をサラリと左肩へ流す。

白いうなじが露わになり、両肩に掛かったドレスが、細かな襞を素肌の上で揺らしている。


最初の目的を忘れるな!とカウティスは自分を叱咤するが、高鳴る鼓動を抑えきれないまま、骨ばった指をセルフィーネのうなじにそっと添える。

そのまま彼女の右肩に指を滑らせれば、滑らかな白い肌が薄く桃色に色付いた。

カウティスの指先が、肩のドレスに掛かる。

ゴクリと喉を鳴らし、そのまま横に動かせば、何の抵抗もなくスルリとドレスが肩から落ちた。




カウティスは息を呑んだ。

頭に上っていた血が、急激に降りてゆくのを感じる。


彼女の白い右肩、肩甲骨下の辺りにそれはあった。

青黒い痣のような色合いの紋様。

丸い月輪に、月光と世界樹の花。



「…………聖紋だ」

カウティスの言葉に目を瞬いて、セルフィーネが顔を上げる。

「聖紋?」

「ああ。月光神の聖紋だ。……でも、反転している」

背中から見ると、左右対称の月輪では分からないが、世界樹の花の位置や角度が反対で、反転していることが分かる。


「……きっと、前から見るのだ」

セルフィーネが静かにそう言って、カウティスの方へ体を向け、目線を右胸にやる。

肩から落ちたドレスを押さえた右手のその下に、小さな胸の膨らみがある。

彼女の白い素肌は半透明で、よくよく見ると向こうが透けて見えるが、その胸の奥に痣のように反転していない聖紋が見える。

だが、部分的に掠れたように薄い。


カウティスは眉を寄せ、躊躇ってから右手の皮手袋を外した。

掌には、掠れた円のような痣がある。

カウティスはセルフィーネを抱くように腕を回すと、その掌をゆっくり彼女の背中に重ねた。

彼女は一瞬身体を震わせる。

セルフィーネの身体を正面から見れば、二人の紋様は掠れた部分をお互いに補い合い、ぴったりと合わさる完璧な聖紋になった。


まるで、彼女の身体に月光神が所有の印を刻んだように見えて、カウティスはすぐさま右手を引いた。

「……何故、私に聖紋を……」

セルフィーネは目の前のカウティスでない何処かを見て、呟く。

「セルフィーネ」

虚ろな瞳のセルフィーネをこちらに向けようと、カウティスは両手を彼女に差し出そうとした。





「王子! カウティス王子!」

強く身体を揺すられて、カウティスは我に返った。

ずっと息を止めていたかのように苦しくて、急いで空気を貪る。

左腕をラードが抱えるようにして、カウティスの身体を支えている。

気が付くと、溜め池の中に膝下まで入っていて、マントも衣服も水を吸って重みを増していた。


力の入らない身体をラードが支え、何とか水から上がり、しゃがみ込む。

マルクが急いで掛け布を持って来て、カウティスを包んだ。

「魔力干渉は成功したんですね」

マルクの言葉に、目を瞬く。

さっきまでのことは、現実だったのだろうか。

だが、カウティスの右手に皮手袋はなく、溜め池の水面に浮いているのがそれだろうと思われた。

見上げると、さっきまでの雲一つない空は幻だったかのように、月は殆ど覆い隠され、辺りは薄闇に包まれている。

月光がないので、セルフィーネの姿も水面にない。

「セルフィーネは?」

マルクに尋ねると、彼はちらりと上を見た。

「上空だと思います」



「一体、どうなってる……」

確か、雲が晴れるのを待って焚き火の側にいたはずだ。

そこからどうやって魔力干渉を始めたのか、覚えていなかった。

「私達も意識が飛んでいたようで、気が付いた時には王子が池に入っていたんです」

ラードが灰色の髪の頭を振る。


「月光神が先に干渉したのでは……」

カウティスとラードがマルクを見ると、彼は眉を下げて周囲を見る。

「溜め池の周辺にだけ、青銀の魔力の名残があります。お二人の魔力干渉を誰も邪魔できないように、手助けされたのでは?」


あの静寂と青銀の光は、月光神の御力によるものだったのだろうか。

現実なのか夢なのか分からない内に、セルフィーネに触れて、魔力干渉を行った。

確かに彼女に触れ、心震えたあの瞬間も、全て月光神の思惑によるものだったのだろうか。


全て神の手の内のようで、歯痒い。

しかし、この両手に胸に、セルフィーネに確かに触れた感触が残り、それを実現したのが神の御力ならば感謝したい気持ちにもなり、頭の中がちぐはぐだった。




カウティスは右の掌を見る。

自分のこの痣は、やはり聖紋と呼べるものではない。

だが、全く関係ないとは言えないようだ。


そして、恐らく月光神に聖紋を刻まれたのは、セルフィーネの方だ。


彼女の胸にはっきりと浮かんだ聖紋。

彼女に神聖力を与えるのなら、月光神はその代償に、一体どんな試練を与えようというのだろうか。

カウティスは奥歯を噛んだ。



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