王城の自室で、セイジェは読み終わった本を閉じた。

日の入りの鐘から、既に一刻半は経っている。


暫く考えてから、セイジェは読み終わった本を持ってカウチから立ち上がり、侍従に声を掛けた。

「薬師館へ行く」

「体調が良いのは喜ばしいことですが、たまには早目に休まれては……」

侍従は渋い顔をしながらも、薄い上掛けをセイジェの肩に掛けながら言う。


乳母のソルがいなくなり、細かな体調管理をする者がいなくなると、セイジェは夜更しする日が増えた。

夜の方が、静かで集中して読書が出来るらしい。

以前よりもずっと強い身体になったが、今までちょっとのことで体調を崩していたので、周りの者達はつい心配してしまう。

「大丈夫だ。本を借りたら、今日はもう休む」

セイジェは柔らかく笑み、侍従の肩を軽く叩いて部屋を出る。

侍従は眉を下げて後に続いた。


エルノート毒殺未遂の一件から、セイジェは薬学をもう少し掘り下げて学び始めた。

性に合うのか、学ぶのが楽しい。

専門知識は本で読むだけでは難解で、時々薬師に講義をしてもらっている。


薬学に関しては、図書館よりも薬師館の方が蔵書が揃っているので、時々借りに行っていた。

今夜はもう遅いので、続きを借りるのは明日にしようかと思ったが、明日は朝から一日予定があって行けそうにない。

それに、薬師館は急患が出た時に備えて、必ず誰かが夜番に付いているので、今行っても開いているはずだ。




土の季節も後期月が近付き、夜の暑さは随分和らいできた。

セイジェは内庭園を抜け、温室の手前で曲がる。

白い石造りの薬師館に近付くと、常に薄く苦味を含んだ薬草の香りがする。

セイジェには慣れた香りだが、騎士団長のバルシャークなどは、決して自ら近寄らないらしい。

苦い薬が苦手とは、強面なのに可愛いところがあるものだ。



薬師館の一階の窓からは、灯りが漏れていた。

入り口の扉は開いていて、何重か重ねられた薄布が、虫除けに垂らされている。

布を潜って建物の中に入れば、奥から煎じたばかりの強い薬草の香りがする。

急患が出たのか、調合室の方で、慌ただしい雰囲気もあった。


セイジェの用があるのは、本が置いてある二階の資料室だ。

黙って上がるわけにはいかないので、忙しそうだが一声だけ掛けようと、調合室へ行く。

ちょうど調合室から出てきた者と、入り口でぶつかりそうになって、直前で止まった。

「……セイジェ王子」

「そなたは兄上の……」

部屋から出ようとしていたのは、王太子エルノートの侍従だった。

侍従は両手で盆を持っていた。

盆の上には、薬湯であろう器に、冷めないよう布が掛けてある。

セイジェは整った蜂蜜色の眉を寄せた。

「それは薬湯か? 兄上がどうかされたのか?」

「っ……それは……」

侍従が口籠る。


「セイジェ王子には、私が説明する。早く持って行って差し上げなさい」

調合室の中から、手を拭きながら薬師長が言った。

「は、はい。失礼します、セイジェ王子」

侍従は一礼して、薬師一人を引き連れて出口へ向かった。



「薬師長、あれは? 兄上はお加減が悪いのか?」

エルノートの侍従の背中を見送って、セイジェは急いで薬師長に尋ねた。

薬師長は表情を曇らせて、薬草を煎じる時に使う、焦げ茶色の前掛けを外す。

「……毎日ではありませんが、夜中に悪夢を見て目が覚めるようで、その後嘔吐されるのです。時折、過呼吸の症状も出ています」

セイジェの背を冷たいものが走った。

「後遺症はなかったと言っていたではないか!」

聖女も“神降ろし”は成功したと言っていたはずだ。

「毒によるものではありません。……おそらく、精神的外傷トラウマでございます」

「精神的外傷……」

セイジェは目眩がしそうだった。


毒による苦痛と、短期間で否応もなく命を削り取られる感覚。

それはどれ程の恐怖だっただろうか。

想像するだけでゾッとする。

あの数日間は、エルノートの精神をも大きく傷付けたに違いなかった。

深く眠る度、満足に動くこともできなかった惨痛が蘇り、起きても夢の続きで藻掻もがく。

そうした夜が、度々あるらしい。

すっかり元気になったものだと思っていたのに、未だ苦しい思いをしている兄を思い、セイジェは歯痒さに唇を噛む。


「何とかならないのか!?」

「心苦しいのですが、直ぐに効くような治療法はないのです。今は、吐き気を押さえて、精神を落ち着けるように薬湯を処方しています」

薬香はハミランを思い起こさせるのか、逆効果だったので、今は使用していない。

「すぐ、兄上の所へ……」

「なりません、王子」

セイジェが踵を返そうとすると、薬師長に止められる。


怪訝そうに見返すセイジェに、悔しそうな顔で薬師長が頭を振った。

「王太子殿下は、誰にも知られたくないと仰せなのです」

「何?」

セイジェは眉を寄せ、薬師長は目を伏せる。

「自分の弱ったところを見せて、心配されるのがお辛いのです。性質的に、他に知られることがストレスになるのなら、どうか今は知らない振りをなさって下さい」

「……どうにも出来ないと言うのか」

「王太子殿下が心を開けるお相手があれば、痛みに寄り添えるのでしょうが……」

薬師長が拳を握って唇を噛む。


本来なら、その役割を担うのは王太子妃フェリシアのはずなのだ。

しかし、彼女こそがエルノートに痛みを与えた。

セイジェは白い手で額を押さえた。

「兄上……」





魔力干渉を行うと決め、カウティス達は場所を検討した。

小瓶に現れている状態では、セルフィーネの背中に何が異変があったとしても、小さくて良く分からない。

できるだけ等身大で姿を現せる場所が良い。

ベリウム川の川原が一番近いが、狂った精霊の魔力が近く、対岸のザクバラ国から見えることを警戒し、ラードに反対された。


大きな盥に水を張ることも検討したが、それでも小さい上に、井戸の水を張る事になるので、屋外で月光に当たりながらになる。

兵や作業員が駐在しているこの拠点では、気が散って仕方ないので、カウティスが却下した。


拠点から少し離れれば、古い神殿のある小さな町の跡がある。

今は太陽神の神官が二人派遣され、土木作業員と共に神殿の修繕に努めている。

長く使用されていなかったとはいえ、神殿ならば清浄な魔力が満ちていて良いかと思ったが、逆にカウティスの魔力干渉を邪魔することになると、セルフィーネが首を振った。


どうしたものかと考えていると、セルフィーネが言った。

「農業用の溜め池はどうだろう」

「溜め池? そういえば、ここに来る途中にあったな」

拠点からは離れるが、田園が広がる地帯に農業用に作られた溜め池があった。

国境寄りの地域の田畑は、争乱の中で焼かれて失われた所もあるが、溜め池がある地域は被害を受けていない。

今も使われている池なら、汚れている心配もないし、農業用なら夜は人気もないだろう。

馬で走れば、四半刻も掛からず着く距離だ。


「どう思う?」

カウティスが聞くと、腕組みしていたラードがパシリと腕を叩いた。

「いいんじゃないですか。ザクバラ側から遠くなるので、見られる心配はなさそうですし。警備だけは付けるべきだと思いますが」

近くで聞いていたマルクも頷く。

カウティスは一度深呼吸する。

「では、そこにする。……夕の鐘で出発しよう」




夕の鐘が鳴る頃、拠点を出発したのは、カウティスとラード、マルク、そして周辺警備の為の兵士が五人だ。


馬で走る内、田園風景が広がってくる。

溜め池は、踏み固められた農道の先にあった。

一段下がった窪地にあるので、周囲を警戒すれば、夜間に人に見られることもなさそうだ。


しかし、日の入りの鐘が近付く頃になって、晴天だった空には雲が多く出始める。

西の空で太陽が月に替わった頃には、すっかり曇り空になり、風で流されて時折月が輝く程度だった。


「月光が足りないか?」

カウティスは首から下げた、透明から青に色合いの変わる美しいガラスの小瓶を手に持ち、顔の高さまで持ち上げる。

「……そうだな。これでは長く姿を現せないだろう」

小瓶に姿を現している、小さなセルフィーネが答えた。

長く姿を現せないならば、魔力干渉は出来ない。

人形ひとがたが消えてしまっては、背中の異変は確認できないからだ。

カウティスはもどかしい気持ちで月を見上げた。




果樹園の間にある納屋を借りて、火を焚く。

日が暮れれば拠点には戻れないので、空の様子を見ながら野宿だ。


焚き火から離れた場所で、溜め息をついたカウティスに、セルフィーネが言う。

「すまない。私が我儘を言ったから、困らせているな」

カウティスが下を向くと、彼の左胸にそっと手を添えて、彼を見上げるセルフィーネがいる。

「我儘なんかじゃない。そなたに何か異変があるのだとしたら、知っておきたいから」

セルフィーネは目を瞬く。

「それならば、どうしてそんなに溜め息をついている?」

カウティスは、さっきから何度も溜め息をついては空を見上げている。

「……緊張しているんだ」

「大丈夫だ。きっと上手くいく。上手くいかなくても、そなたに害はない」

軽く微笑むセルフィーネに、カウティスは頭を振る。

「そうじゃない。…………俺は、そなたを傷付けないだろうか」

「傷付ける?」

「セルフィーネを大事にしたいのに、干渉したら……そなたを傷付けてしまいそうだ」


セルフィーネはカウティスを見つめた。

カウティスの心配している“傷付ける”とは、どういうことだろうか。

カウティスが、私を傷付けるようなことがあるものだろうかと思った。

もし、そんなことがあったとしても……。

「それでも良い。カウティスが一緒にいてくれれば、それで」

セルフィーネは潤む瞳で見上げている。



カウティスは高鳴る胸を、服の上から小瓶と共に押さえた。


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